:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 母の形見

2011-03-20 22:51:57 | ★ 日記 ・ 小話

 「教皇暗殺事件」 には、実はまだ後日談があります。それは、1983年12月27日、教皇ヨハネ・パウロ2世が彼を狙撃した犯人アリ・アグサを獄中に訪ねた時、アリが最初に発した 「あなたはなぜ死ななかったのか?」 という言葉についてです。それに関してはまだ書くことがあります。

また、ヒットラーやカダフィのような男ならともかく、一体 「何故ローマ法王が暗殺の対象にならなければならないのか」 、と言う根本的な疑問にも答えを出さなければなりません。

そして、このシリーズを書いている時に、日本で 「巨大地震と津波と原発事故が起きた」 ことにも、偶然では片付けられない因縁を感じています。そこのところも繋げなければなりません。

しかし、私のブログを訪問して下さる方の多くにとっては、「カトリックの教皇」 の話など、それほど興味をそそられない話題かもしれません。それで、一休みというか、息抜きと言うか、全く関係のない話題を一つ間に挟むことにしました。


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母 の 形 見 

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 これは、ジャズピアニストの叔父が4年ほど前に他界して、母の形見のギターがひょっこりとわたしの手元に届いた時の話です。 

 叔父は平凡なサラリーマンでしたが、大の音楽好きで、戦後は米軍キャンプ内のクラブでピアノを弾いて生活の足しにしていました。 

 母が亡くなったとき、わたしはまだ8歳だったので、母の愛用のギターは、その叔父が形見分けで引き取っていったのでした。

 私は、「リーマン」などの銀行業で忙しかった間はもちろん、またその後、神父を目指してローマで勉強に明け暮れていた間も、この母の遺品を省みる気持の余裕など全くありませんでした。

 ところが、2007年から2009 年にかけて、ある事情があって、わたしは神父でありながら野尻湖の別荘に蟄居することになり、思いがけず時間だけはたっぷりある生活が始まったのです。それで、この機会に母のギターを弾いてみたいと思いました。

 ところが、何年かぶりにケースを開けてみて、愕然としました。ギターの首の部分と言うか、竿の部分と言うか、が根元のところで手前にがっくりと折れて、つなぎ目は割れたりはがれたりしてぐちゃぐちゃ、赤錆びた弦もだらしなくたるんで見る影もなくなっていたのです。

 母が使っていた時のままのギター、と言うことは、弦は戦時中の粗悪品です。伸縮性ゼロの鉄の弦を強く張ったまま保管されていたらしく、長い時間の流れの中で木製の竿や胴が負けてしまったのだとわかりました。全く予想だにしなかった悲惨な状態でした。

 情けないと言うか、悔しいと言うか・・・、このアクシデントを回避できなかった自分の無知をひたすら恨めしく思いました。

 ところが、すっかりしょげかえって諦めようとしていたところに、思いがけず励ましてくれる人が現れました。彼は、専門家に頼めば、まだ修復してもらえるかもしれない、と言ったのです。

 さっそく新大久保の黒澤楽器店に持ち込みました。

 応対に出た若い店員は、わたしがギターのことを何にも分かっていないのを察し、また古めかしい戦前の粗末なハードケースの外観を見、さらに中身の無残な状態を見て、「直しても無駄だ、悪いことは言わないから新しいのを買ったほうがいい」と言い張って、まったく取り合ってくれませんでした。

 ところが、ちょうどそこへ、奥からベテランのギター職人が偶然現れました。未練顔の私を見て、若者の店員を退けた彼は、壊れたギターを手にとってしばらくじっと眺めてから、まるで独り言のように 「なるほど、1938年のカラーチェですね」、とつぶやきました。

 それが何を意味するのか分からない顔をしていると、かれは、ナポリの名の知れたギター職人の作品だと教えてくれました。そして「うちにもひとつ有りますよ」、と店内のガラスケースに目をやりました。そばに寄ってみると、なるほど、30年ぐらい前のカラーチェ工房の中古ギターに40万円余りの値段が付いていました。70年前のもので、もし状態がよかったら、いくらぐらいの値段のものか、素人でもおよそ見当が付くと言うものです。

 実は、母の形見で・・・・、と来歴を語り、是非自分で弾いてみたいのだが、と言うと、半年の時間と、新品の上等のギターが買えるほどの修理費がかかるが、それでもいいのか、ときました。

 ざっと見積もって20万円の修理費は、自分の支払い能力をはるかに超えていることはわかっていましたが、「神様、今回も助けくださいね」、と心に念じて、そのまま置いてきてしまいました。

 半年をはるかに過ぎても、楽器屋からは何の連絡もありませんでした。10ヶ月ほどして、偶然のように天からお金が降ってきました。そのお金を握って、勇気を出して、黒澤楽器に行ってみました。そしたら、応対に出た若い店員が、それならもう出来てますよ、と言いながら、奥に取りに行きました。

 入れ替わりに、直してくれたベテランの職人が出てきて、「どうだ!」と言わんばかりにケースから取り出して見せてくれました。錆びた鉄の弦の替わりに、しなやかなま新しいナイロン弦が張ってありました。

 これが、あの首が折れ、胴にひびか入って見る影もなかった母のギターかと、目を疑うような見事な出来栄えでした。破れた胴や、折れた竿の傷は跡形もなく消え去っていました。素材から全く新しいものを作るより手間がかかった、と言うことでした。

 長野市内にいいクラシックギターの先生を見つけ、その春から習い始めましたが、ちょっと味見をしたばかりのところで、その先生ともお別れになってしまいました。さて、四国に帰って続ける暇を見つけられるだろうか、とその時すでに不安に思ったのですが、心配した通り、結局続けて習うことは出来ませんでした。

 その夏は休暇を得てまた野尻湖に舞い戻りました。私の家が属するNLA (Nojiri Lake Association) は80年余り前に全国に散って伝道しているプロテスタントの牧師さん達の家族が、年に一度集まって交流するために開墾した別荘村です。7-8月は Official Season の真っ最中で、毎日多彩なプログラムが組まれています。

 ある昼下がり、手慰みに何気なくフルートを吹いていたら、窓ガラスを叩く人がいました。見知らぬアメリカ人の牧師夫人が、自分はこの土曜日、19時~22時に催される “Poetry Music Caffee” のプログラムの責任者だが、貴方も笛を持ってきて貢献するように、と言いました。

 四十の手習いで、人さまに聞かせるほどのものではない。だいいち、小品一曲吹き終えるのに、3度は音をはずすかつっかえるかするが、それでもいいのか、と言ったら、何でもいいから参加せよ、とのことでした。約束の日の夜、その責めを果たして冷たいビールで冷や汗をおさめてほっとした事を、いまも鮮明に思い出します。

 その次の朝は、NLAの住民の一家がやってきたので、そよ風の通るベランダでミサをしました。三世代、大人4人、小さい子供4人の楽しい家族ミサになりました。

 

 

写真は、野尻湖の小屋の居間の暖炉の前、母のギターと私のフルート、それに母の若い頃(写真裏の父の筆跡の撮影日を見るとわたしがちょうどお腹の中にいた時)の写真を並べてみました。ギターの胴の底には、名匠カラーチェの写真と自筆のサインと製造年、製造番号が見えます。

 

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★ 天国の門

2011-02-13 07:44:41 | ★ 日記 ・ 小話

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天 国 の 門

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同じ老神父はまた別の冗談を言いました。

あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。(マタイ16:18-19)

これは、新約聖書に記されたイエスのペトロに対する言葉です。

イエスの弟子たちのかしらであるペトロも逆さ十字架の刑で殉教を遂げ、無事天国にたどり着くと、イエスから天国の門番を仰せつかります。そして、この世の生活を終えて門前に立つ者たちをみて、「よーし、おまえは合格!入ってよーし!」「ダメダメ、入れてやるわけにはいかないね!」とキリストに言われた基準で交通整理をいたします。

天国の門番の仕事にも休憩時間があると見えて、そんな時、彼は天国をぶらぶら散歩します。すると、時々見慣れない顔に出会うではありませんか。

「はてな?こんな奴、天国の門を通してやったわけはないのだが?へんだなあ???」と首をかしげることしきりです。そして、思い余って先生のキリストのところへ行っていいました。

「先生、わたしは忠実にあなたの言うとおり、変な奴は入れないようによく気を付けているつもりななんですが、最近、天国に時々見慣れない顔をしたのがうろうろしているのに気が付きまして・・・・。わたしゃあんなのを入れた覚えが無いんですがねェ?!一体どういうことでしょう?」

「おやそうかい?では、天国の城壁に破れが無いか見回っておいで」

そこで、ペトロはぐるりと一周調べてあるくことにした。そして、彼が番をしている天国の門のちょうど反対のあたりに、壁に寄り沿って一軒の家があり、その裏窓が壁の外に向かって開いていた。近寄ってよく見ると、その開いた窓から太い鎖のロザリオが垂れ下がっていて、ペトロが今朝門前払いをしたばかりの男がそれを伝ってよじ登ろうとしていた。ぺトロは、これは一大事!とばかりに、走ってイエスのところへ戻って来て、

「先生、先生、大変です!反対側の城壁にもたれて立っている家の窓から、外の地面にロザリオが垂れていて、それを伝って入ってはいけない奴らが天国に潜り込んでいますよ。何とかして下さい、ねェ先生!」

すると、イエスはいわれた。「おやそうかい?まあ、あれは母さんが勝手にやっていることだから、そのままにしておきなさい。」

カトリックの信者さんなら、素直に「なるほど」と得心されるだろうか。聖母マリア様によりすがれば、だめな人間も母の愛と憐れみで、何とか救いあげられる、ということのようでした。

(おしまい)

 


 

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★ ちょっと爽やかなお話 

2011-02-04 09:51:41 | ★ 日記 ・ 小話

 

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ちょっと爽やかなお話し!

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いまローマのグレゴリアーナ大学は前期の試験中。

神学生達は勉強で頭がパンパンになっているが、養成者の神父たちは気楽なもんだ。

朝食のテーブルに残った年寄りの神父と二人でおしゃべりをした。

彼は小話を一つしてくれた。


何年か前、ユダヤ教の最高指導者のラビが教皇ヨハネ・パウロ2世をバチカンに公式訪問した。

2000年ぶりの歴史的な出来事だった。

ラビは教皇に会って言った。


第二次世界大戦中のことです。

ポーランドではナチスによるユダヤ人狩りが激しさを増していました。

逃げ場を失った若い夫婦が、男の赤ちゃんを抱いて、カトリック信者の家の戸口を叩きました。

出てきた主婦に子供を押しつけて言いました。この子はユダヤ人の子です。

このままいたら、一緒に殺されます。どうかお願いですからこの子を預かって下さい。

そして、物心が付いたら、どうかこの子をユダヤ人社会に返して、ユダヤ教徒として育てて下さい。

そのすぐ後、二人は捕らえられ、アウシュヴィッツのガス室に送られて死んだ。

子供は無事成長して10歳になった。

預かった夫婦は悩んだ。情愛が移って手放したくない。

洗礼を授け、カトリック信者として、わが子として育てたい。

でも、本当の親との約束がある。どうしたものか。

思い悩んで、近くの教会の神父さんに相談した。

すると、その神父はきっぱりと言った。

その子をイスラエルに送りなさい。

そして、ユダヤ教徒として育てられるように計らいなさい。


ラビは続けて言った。


その時の男の子は私です。

そして、あの時の神父、それは貴方でした。


クラカウの教会のうしろのうすぐらいベンチ。神父だった頃のヨハネ・パウロ2世

が何時も跪いてい祈っていた場所に真鍮のプレートが。

誰置くか、そこには薔薇の生花が絶えないという。

今、ユダヤ教とカトリックの関係は、かつてないほど友好的だ!


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★ 秋は祭りだ

2008-07-26 21:42:54 | ★ 日記 ・ 小話
新しいものを書こうと焦るのですが、技術的に手間取って進みません。少々お待ち下さい。古いものでお茶を濁します。ごめん下さい。
 
秋は祭りだ
姨捨では、帰路を急いで祭りを割愛した。とりあえず月だけで満足だった。しかし、「・ま・つ・り・」の三文字は意識下に生きていた。
たまたま昨日の午後、牟礼のあたりを通ったら、林檎売りのおじさんが、「今日は祭りだから早じまいだ」と、店をたたみ始めていた。
日暮れて8時ごろ、同じあたりに舞い戻った。真っ暗闇の田中の道の遠くから狐火のように提灯の灯りの行列がやってきた。近寄ってみると、大きなリヤカーの上に載せた祠を、いっぱいの提灯で飾った可愛らしい山車だった。くくりつけた太鼓を若い衆が叩き、後に続く数名の若者がピーヒャララーと笛を吹き、鉦の音がそれに和する。先頭は御祭典の大提灯を捧げ持つ若い衆がふたり、それに、大きくて重そうな纏(マトイ)を1‐2分毎に交替してまわし続ける6‐7人の男たち、その周りを老若男女が取り巻いている。リーダー格は紋付袴に雪駄がけの中年たちだ。
どん、どん、ヒャララー、ドン、ひゃららー、とゆっくりゆっくり進む先は田中の消防団前の広場だった。見ると、農道の各方面から、この広場に向けて、遠く、近く同じような数隊の山車の行列が集合しつつあった。
 
 
山車は合計6台だった。近隣氏子の6部落を意味しているのだろう。
順に広場脇の道路に整列。オリンピックの入場式よろしく、1台ずつ、紋付袴に身を固め提灯を手にした年寄り衆に迎えられ、先導され、広場を1周して定位置に。空中に舞い踊るマトイの競演。頭上に上がる花火。6台が広場に整列するのに約1時間。
 
 
祭りの暴走を戒めた言葉を書いた提灯を先頭に、田中の農道を2キロほど先の山裾の神社までにぎやかな祭囃子とともに粛々と進む。進むほどに時折大きな花火が空に広がる。その進行速度の遅いことといったら。しばしば止まって動かない。
 
 
社の入り口の鳥居の周りには、6-7店の屋台が明々と小型発電機で灯を灯している。
鳥居から境内までは、中間の踊り場を挟んで、前後合わせて100メートル以上の狭い長い急な石段。先頭の提灯が静々と上がってきた。リヤカーの山車はどうするのだろう?人事ながら心配になった。
 
 
人払いがされて、石段の上にだれもいなくなると、リヤカーの梶棒に結わえた綱が伸びた。20人ほどの男衆が二列になって、綱引きよろしく勢いをつけて引っ張って駆け上がった。高尾山のロープウエーはレールの上を車輪で上がるから滑らかだが、ここは石段とリヤカーのタイヤである。牽かれる勢いに山車の固有振動数が同期すると、タイヤをダン、ダン、ダンと弾ませ、満艦飾の提灯を激しく振り乱しながら若者に後を押されて駆け上がっていった。あれよあれよと言う間の出来事だった。提灯の中は灯の灯った本物のローソクである。どうして消えないのか不思議だった。境内の仮舞台の周りでは、もう一度オリンピック入場式の儀式、マトイのダンスが再現された。全て、恐ろしいスローテンポである。
 
 
祭囃子の中に一人だけ青い目の若者が居た。 無心に鉦を打ち鳴らしながら・・・・。ここでデジカメのバッテリーが終わった。
 
仕掛け花火が激しく燃え落ちてクライマックスを迎えたときは深夜12時を回っていた。突然舞台の周りのスペースにブルーシートが広げられ低い長机が運び込まれ、プロパンボンベとコンロと鍋が置かれた。祭りの主役の若い衆や、紋付袴の年寄り衆が一升瓶と料理でパーティーを始めた。今まで遠巻きにしていた一般の村人は女も子供も三々五々家路に着いた。
舞台の上では、6村の若者が順に獅子舞を奉納し始めた。舞の囃子が風に乗って星空と三日月の下の田の上を遠くまで渡っていった。
この祭りの宴が何時まで続き、どういう終わり方をするのか見届けたい思いはあったが、睡魔が勝ちを占めた。デジカメの電池は、山車が石段を駆け上がるところで切れた。祭りのクライマックスは、肉眼で捉え、大脳のメモリーに書き込んだ。
 
 
先頭の大提灯には、
 
神威を畏み
不敬な振舞い
有るべからず
 
とある。
多くの山車には、必ず「五穀豊穣」の提灯がある。それは、村人の素朴な願望、ご利益の祈りである。
ここで言う「神」は氏神であり、田の神であり、自然宗教の神である。五穀豊穣に関係するもろもろの自然現象の背後に神を想定、人間が考え出した神に祈りと神楽と供え物を捧げて、天災を遠ざけ、恵みを引き出そうという人間の思惑の産物である。
八百万の神は、人間が考えて、人間が想像して、自然の力を擬人化してそれぞれに割り当てたもので、人間が祈祷と供物でその力を制御しようとした、ときに荒ぶり人間に災いをもたらす自然の力に過ぎない。
自然科学の力で大自然を制御することを学んだ現代人には八百万の神は無用の長物である。牟礼の農家の人々も、祖先から受け継いだ祭りを、伝統として守っていても、神々の存在を真面目には信じていないことが、祭りの雰囲気から伝わってきた。しかし、個がばらばらになった現代社会で、祭りが連帯とアイデンティティー確認のために役立っていることは素晴らしい。
振り返って、カトリックの祭りにこの祭りを待つ心、この連帯感、帰属感、陶酔があるだろうか。
欧米の伝統的キリスト教文化の国は別として、今日の日本のカトリック教会には残念ながらそれがない。
私の魂には、熱心なプロテスタントの母が、家庭で、戦時中の灯火管制下にも、クリスマスツリーを美しく飾りつけ賛美歌を歌った思い出が焼きついている。
ターミナル駅ではクリスマスケーキが飛ぶように売れ、デパートはクリスマスセール、クラブやキャバレーでは乱痴気騒ぎで日本文化に「インカルチュウレート」したかもしれない。お金の神様に魂を抜き取られることが文化への融合の美名の下に浸透している。皮肉な話だが、クラブのホステスが、酒の匂いを漂わせながら、あら、教会でもクリスマスやるの?と言う程度の土着化である。クリスマスはもともと異教文化の影響のもとに発展したといわれるから、それもいいだろう。
キリスト教固有の祭りは復活祭だ。ユダヤ教の過ぎ越しの祭りにルーツを持つこの祭りこそ、キリスト教徒が一年かけて待ち焦がれるべき祭り、連帯感、帰属感、魂の高揚と陶酔の原点でなければならない。これこそ、他のいかなる宗教とも、いかなる文化とも溶け合わないキリスト教固有の祭りだ。その証拠に、サンタクロースやバレンタインなどの聖人はもてはやされても、キリストの受難と、死と、復活を記念して祝う異教徒は決して現れることはない。
冴え渡る星空と半月よりやや痩せた明るい月のもと、私は湖畔の小屋に向かって夜道を急いでいた。
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★ 新約のイスラエルの民

2008-07-21 12:25:36 | ★ 日記 ・ 小話






《新約のイスラエルの民》


日本民族の広がりと神道の広がりがピッタリ重なるように、ユダヤ教も、もっぱらユダヤ人のための宗教であって、一民族一宗教と言う点で、両者には非常に似通ったものがあります。
かつて、軍国主義日本が占領地に赤い鳥居を立ててまわったことを例外とすれば、もともと神道は日本固有の民族宗教であって、外国人を同じ信仰の恵みに招こうと熱心に努める宣教精神を欠いている点で、神に選ばれた選民意識の強い排他的ユダヤ教と共通するものがあります。
そして、このような特徴を持ったユダヤ教を信じる人々のことを総称して、古くから「イスラエルの民」と言われてきたのです。


イスラエルの民の成立

むかし、今のイラクのあたりにアブラハムと言う金持ちの老人がいました。彼はたくさんの家畜やそば女や奴隷たちに囲まれ、物質的にはなに不自由ない身でありながらも、この世的には最も不幸な男でした。なぜなら、彼には、遊牧民の常として、自分を葬ってもらうべき土地が無く、その上、自分の遺産を譲るべき血を分けた息子もいなかったからです。
万物を無から存在界に呼び出し、百数十億年の長い進化の過程の末に、愛を込めて今のような美しい世界を創造された神は、そんなアブラハムを選んで、個人的に語りかけました。恐らく人類史上初めての出来事だったでしょう。
神はアブラハムに「ウルの町を出て、自分ガが導き入れる場所へ行くなら、土地と息子を与えよう」と約束したのです。アブラハムはその約束を信じて旅に出ました。そして、約束の土地、今のパレスチナに入り、夫婦そろってすでに高齢であったにもかかわらず、神に対する信仰のゆえに、そこで奇跡的に一人息子のイザークを授かりました。
しかし、神は、一旦は待望の跡取りを恵んでおきながら、やっと育て上げたその一人子を、神への生贄として自分の手で殺して焼き尽くせと命じたのです。神のこのやり方は、一見したところ極めて理不尽に思われます。
それでも、アブラハムの神への信仰と従順は揺るぎませんでした。神のなさることは常に全て正しいとして、命じられた場所に祭壇を築き、彼の望みの全てであった息子を縛って短刀で刺し殺し、薪の上で焼き尽くす生贄として捧げようとしたのです。と、その瞬間、神の天使が現れ、「お前の信仰は神に嘉(よみ)された」と言って、押し止めました。(そのとき、アブラハムの心の中に、神は息子を蘇らせて必ず返してくださる、という復活信仰が、既に芽生えていたかどうか私には分かりません。)
危うく命を救われたイザークから、やがてヤコブ(後にイスラエルと名を変える)が生まれ、そのヤコブからイスラエルの12部族の族長となる息子たちが生まれました。その子孫は、神が約束したとおり、空の星、浜辺の砂のように増え、ユダヤ民族、すなわちイスラエルの民、を形成するに至りました。


新約のイスラエルの民

今から2000年余り前に歴史に登場したイエスは、ダビデ王の血筋の由緒正しいユダヤ人であり、イスラエルの民の一員でした。
イエスは、それまでモーゼの律法を厳格に、しかし、形式的に、守ってきたイスラエルの民の中にあって、その律法の真髄にあるものは天の父なる神の愛と憐れみであることを看破し、それを新しい教えとして説いたのですが、彼の前には、律法を旧態然とただ形式的に守ってきた民の指導者たち、つまり、ファリサイ人や律法学士たちが、立ちはだかったのです。
彼らの偽善を鋭くあばいたイエスは、公衆の面前で、歯に衣を着せぬ火を吐くような激しい口調で、時の宗教的指導者や権威者たちを「偽善者」、「蝮の裔(まむしのすえ)」と糾弾し罵倒しましたが、その結果、怒りに燃えた彼らは結束してイエスを十字架に追いやり、罪人として刑死させました。
一方、復活したキリストを神の子、待望のメシヤ、救い主、として信じた一部のユダヤ人達は、人種・民族の枠を超えて、次第にローマ人やギリシャ人を信者に加え、キリスト教を形成して行ったのであります。そして、それまでのユダヤ人と同じアブラハム、イザーク、ヤコブの唯一の神を信じるキリスト教徒の群れは、「新約のイスラエルの民」と呼ばれるようになりました。
神道やユダヤ教が排他的な民族宗教であったのに対して、キリスト教は、キリストの十字架の救いは、全人類、全民族に及ぶと説く、開かれた普遍的(カトリックの名はここから来る)宗教として広がっていきました。ですから、第三千年紀に生きる世界中のキリスト教徒は、人種、国籍、宗派を問わず、全てこの新約のイスラエルの民に属しています。
それに対して、キリストの時代までのユダヤ教を信じる一民族一宗教のユダヤ人達のことを、「旧約のイスラエルの民」と呼ぶことが出来ます。
「旧約」とはシナイ山の上で、モーゼが神から「十戒」の律法を授かったときに、神とイスラエルの民の間で結ばれた「契約」のことであり、「新約」とは、キリストが最後の晩餐のときに12使徒(イスラエルの12部族を象徴する)とその教えを受け入れキリスト教徒となる全ての人類との間で交わした「新しい契約」のことです。
ユダヤ教徒、つまり、旧約のイスラエルの民の場合、男の子は誕生からまもなく割礼を受けることになっていました。割礼とは、男根の包皮を切り取る宗教的儀式でした。それに対して、新約のイスラエルの場合は、男女を問わず、洗礼を受けてキリスト教に改宗した人のことを指します。
旧約の割礼に相当するものが新約の洗礼で、何れもユダヤ教、又はキリスト教に入信する加入(イニシエーション)儀礼と言われます。


不思議な思い違い

そこに私は、奇妙な思い違いがあることに気付きました。
つまり、旧約のイスラエルの民の場合、多くの人は割礼を受けたユダヤ教徒であるだけで、選民として自動的にヤーヴェの神の前に義とされ、救いに約束されたと錯覚している傾向が見られたことです。その錯覚は、取り分け民の指導者、宗教的権威を帯びた人たちの間で顕著だったようです。それは、新約のイスラエルの民の場合、多くの信者が洗礼を受けてキリスト教徒になった途端に、救いが確定し、天国の指定席券をあらかじめ手に入れたと錯覚するのと同じです。そして、そのことは、ユダヤ人が持っていた強烈な選民意識、優越感を、キリスト教徒たちがそのまま受け継いでいることと、無関係でないのかもしれません。私自身、半世紀以上前に、神戸のミッションスクールで洗礼を受けた際に、そのような刷り込みを受けたことをいまも記憶しています。
しかし、それは大変な思い違いではないでしょうか。
確かに、ユダヤ教集団に帰属すると言うことは、黄金の牛(お金の神様)やその他のもろもろの偶像を拝んでいた場合より、救いのドラマに一歩近づいたと言えるかもしれません。その意味で、洗礼を受けてキリスト教の教会に加入すると言うことも、キリストの約束した救いに預かる可能性を強く示唆するものではあるでしょう。たとえて言えば、救済劇の客席の傍観者の立場から、舞台でその劇を演じる配役の一人に加わったようなものです。
しかし、それはまだ救いの確定を意味していません。救いと言うものは、各自がその舞台の上でどんな役柄を自分で選び取り、いかに演技するかにかかっているのです。
そして、どうやらこのパターン、すなわち、「
錯覚の構図」には普遍性があるらしく、いつの時代でも、何処でも、したがって、今日の日本でも、全く同じ図式に嵌ってしまうもののようです。



救いのドラマの舞台回し

ナザレのイエスの誕生から、3年間の宣教活動、そのクライマックスの十字架上の苦しみと、死と、葬りと、復活にいたるまでの壮絶なドラマは、偶像崇拝の異民族に取り囲まれたイスラエルの民を歴史的背景として展開されました。
その登場人物は、一方では、イエスと母マリア、そして12人の弟子、イエスに付き従う貧しい人々、病人、障害者を含む大勢の群集・・・・、他方では、王様、ユダヤ教の宗教指導者、祭司、ファリサイ人、サドカイ派、律法学士たち、さらに、ローマ帝国の総督、兵士たち、と言った具合です。
さて、第三千年期の曙、21世紀を生きる我々「新約のイスラエルの民」が登場する舞台はといえば、ここでも、その環境、登場人物の役回りなどにおいて、キリストの時代と全く同じものがあると言えましょう。
決定的違いは、前者がユダヤ人と言う一民族とパレスチナと言う一地域に限定されていたものが、現在は洗礼を受けたキリスト教徒と神々を拝む異教徒との対峙と言う舞台と客席の構造を保ちながら、配役は全世界の全民族に拡散した点にあります。とは言え、過去2000年の新約のイスラエルの民の歴史を通して、ドラマの舞台回しは、全てキリストの時の縮図である点では全く変わりありませんでした。
全ての役回りの者たち、すなわち、地上の権力者、宗教指導者、祭司、もろもろの教派、教団、律法主義者、ファリサイ人、貧しい大衆、病人、障害者など社会的弱者たちが、キリストの時代と全く同じように、どの時代、どの地域の教会においても、必ず
一通り全員そろっています。

いつの時代にも、イエスの弟子としてイエスの教えを命がけで生きる信者のことを、もう一人のキリスト、姿を変えてその時代に生きるキリストと呼ばれてきましたが、アシジのフランシスコなどもキリストの生まれ変わりと見なす人たちがいました。キリスト教の歴史を通して、聖人と呼ばれた人たちは、何らかの形でその部類に属すると言っていいでしょう。
ですから、いつの時代にも、どの地域教会においても、もう一人のキリストが現れると、たちまち2000年前と全く同じドラマが展開するのです。
聖書を読むと、キリストを十字架に追いやって人たちは、その時代のユダヤ教社会では、神から正当に権威を委ねられ、民衆の指導的立場にあり、義しい人たちとして人々から尊敬されていました。彼らこそ、社会の制度を維持し、秩序を保つ使命を託されたものと自負している人たちだったと言えましょう。
ところが、その彼らが、本能的に自分たちとは違うと直感したキリストを前にしたとき、普段は互いにいがみ合っているのに、キリストを亡き者とする企みでは、その違いを超えて一致協力したのです。しかも、彼らは皆、自分達は神の前に正しいこと、なさねばならぬことを忠実に実行していると確信しているのです。
そして、自ら正しい、義しい、と信じて疑わない人たちが、神の霊からの新しい芽、時のしるし、希望の兆しを前にするとき、ほとんど本能的にそれを抹殺するために一致団結し、全勢力を投入することになるようです。


決定的なこと

イスラエルの民を舞台として展開されるのは、神の救済史のドラマです。そこで誰が救われ誰が救われないかの決定的な鍵は、当時のユダヤ教の場合で言えば、形式的に偽善的にモーゼの律法を守るだけに終わるか、イエスが招く回心を遂げ、良い実を結ぶか否かにかかっていました。キリスト教の場合も、ただ洗礼を受け、日曜日に教会に行くだけでよしとするか、キリストの山上の垂訓を真剣に受け止め、回心してキリストの教える福音の勧めを愛を込めて実践するかどうかにかかっているのです。
つまり、キリスト教への入信の加入儀礼としての洗礼を受けるということは、形式的には新約のイスラエルの民の一員になることを意味してはいますが、だからと言って、洗礼を受けた人が皆、自動的にお金の神様やその他の偶像崇拝の奴隷状態から解放され、迷信や淫祠邪教をきっぱりと棄てたことを意味しないということです。
キリストをめぐって、当時のユダヤ人社会は分裂し、激しく対立しました。彼は時の逆らいの徴でした。不思議なことに、特に、当時の社会において人々から尊敬されていた宗教指導者、有力者たちが厳しくキリストと対立したと伝えられています。
このように、いつの時代にも、新約のイスラエルの民の中に、新たに神の霊に導かれてキリストの精神を呼び覚ますものが現れると、その時代の指導者、有力者は、一致結束してそれを排除抹殺するために血道をあげるという構図の嵌ってしまうもののようです。
キリスト自身がその時代の対立のしるし、分裂の原因、躓きの石となったのですから、その例でいくと、今の時代においても、私たちの身近に、何が躓きの石、分裂の種、対立の徴として問題にされているかを探せば、そこにキリストの魂、新しい聖霊の息吹を発見し確認すことが出来るのではないでしょうか。

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★ メリークリスマス

2008-07-09 12:21:37 | ★ 日記 ・ 小話

 

~~~~~~~~~~~~~~

メリークリスマス!

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ブログの「編集」画面で、何気なくアクセス状況をクリックしたら、ここ数日更新していなかったにもかかわらず、普段より目立ってたくさんのアクセスがありました。そろそろ何かあるかな、と期待して覗いてくださった方が大勢いたんだ、と言うことを思い知りました。


さて、あらためてキリストの降誕オメデトウございます。何故目出度いか?私なりの意味づけを書きたいと思います。

2010年のクリスマスイブにちな
んでの私のメッセージは以下の通りです:


① クリスマスはナザレのイエスと言う歴史上の人物(12月23日が天皇明仁と言う歴史的人物の誕生日であるというのと同じ意味で)の誕生祝いをする日です。世間は意図的に(悪意をもって、計画的に・・・)その厳粛な事実を覆い隠そうとやっきになっています。サンタクロースでもなければ、クリスマスケーキでもなく、ツリーでも、クラブやキャバレーの乱痴気騒ぎでも、デパートの大売出しでもありません。それらはみんな
2013年ほど前のキリストの誕生から人々の目を逸らさせるために巧妙に、意図的に広げられたヴェールです。

② 誕生したナザレのイエスは、「全ての人」の「救い主」です。「全ての人」とは、キリスト教を信じる人も、信じない人も、他の宗教を信じている人も、神を否定する無神論者も、全ての人を救ったと言う意味です。彼は全ての人を平等に、無差別に、本人の意思にも関係なく、一方的に救ったと言う意味です。しかも、彼のもたらした「救い」とは、「死」を無力化し、「死」を超えた「復活の命」、二度と死なない永遠の生命を与えてくれるという意味です。(正統派を自任するキリスト者で異論のある人は、どうぞ「コメント」欄に反論のご意見をお書き下さい。受けて立ちますよ!)

③ 他の宗教とどこが違うか?他の宗教は、ともすれば「これを信じたら救われる」「信じなければ救われない」と教える傾向にあります。

キリスト教にもその匂いがプンプンするではないか、ですって?それは非常に残念な事実です。しかし、それは間違ったキリスト教です。キリスト教は、信じない人にも信じる人と同じように、みんなに平等にキリストの救いが届いた、と教えます。その限りにおいて、本当のキリスト教だけは、他の全ての宗教と本質的に違うこと、万人の救いの宗教だと言えます。だから、キリスト教は正当に全ての宗教を超越している、と主張します。そう信じられたからこそ、私は国際金融業を擲って、55歳でカトリックの神父になる決心をすることが出来ました。

(届いた救いをどう受け取るか、あるいはまったく受け取らないか、は最終的に個人の自由です。その点だけは、理性と自由意思を神から頂いた人間の魂の神秘です。)

④ ナザレのイエスは地上に平和と和解をもたらしました。キリスト教は平和の宗教です。
宗教は戦争の種ですって?確かに宗教一般はそうです。

しかし、本当のキリスト教、ナザレのイエスの教えだけは断じて違わなければなりません!

実際には歴史上キリスト教徒が深く絡んだ戦争がたくさんあった、ですって?

確かにありました。それもひどいのが沢山。残念なことです。
しかし、戦争に関わったキリスト教徒らが信じたのは本当のキリスト教ではありませんでした。キリスト教を語った、しかしキリスト教を裏切った、異教的な信徒たちのなせる業です。キリスト教の中にも、異教(偶像崇拝)の要素はいっぱい入り込んでいます。本物が霞んでしまって、ほとんど見えなくなってしまうほどです。

⑤4世紀はじめ、キリスト教がローマ帝国の実質的国教になった時、大きな転機が訪れました。昨日までギリシャ・ローマの神々、偶像を拝んでいた人たちが、真実のキリスト教的回心を成し遂げることなく、異教的メンタリティーを保ったまま、雪崩を打って教会に入ってきたからです。

寄らば大樹の陰。新体制下で出世したければ、キリスト教徒になるが一番早道、と言った不純な俗物的メンタリティーです。そのとき以来、キリスト教は、主流を制した人々により、キリストを裏切って諸宗教の一つに成り下がったと言っても、あながち言い過ぎではないでしょう。

そのとき以来、キリスト教も、もはや平和の宗教ではなく、争いの種、戦う集団に変質したと言えるでしょう。十字軍、然り。キリスト教を語った保守政治集団、然り。争い、戦い、流血の一方に組したキリスト教集団は全て然り、でした。
全ての人に救いを約束するナザレのイエスの良いニュースは、その超越性、普遍性、したがって、あらゆる宗教に対する優位を誇りえたはずの特権的な立場を、みずから放棄したと言っていいでしょう。

⑥ 現代社会は、本来のキリスト教、他の諸宗教の相対性を超越した平和の宗教としての地位を回復したキリスト教を求めています。そして、それは今こそ再び可能です。せいぜい、この50年ほど前から(理論的には1965年以来)の全く新しい状況です。

「汝の敵を愛する」キリスト教。「悪に逆らわない」キリスト教。「友のために命を棄てるほどの愛を示す」キリスト教。回心した、地の塩の塩味を取り戻したキリスト教。それが、今再び、個人レベルにおいてではなく、共同体レベルで可能になったと言うのが、私の今年のクリスマスに寄せるメッセージです。

可能になった、と言いましたが、簡単に達成できるとは言っていません。少なくとも、その可能性を本気で信じる人達がいる。その為に日々自分と戦っている人がいる。神様がその人たちとともに居て、日々小さな奇跡が起こっている、と証言します。


これこそ私からの良い知らせです。だから、メリークリスマス!

 

 

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★ 何か変だよ カトリック新聞

2008-06-17 15:55:09 | ★ 日記 ・ 小話

2008-06-16 08:16:18


  何か変だよ?! カトリック新聞


★ 自作自演?一人二役?

 今、私の目の前に二枚のコピーがある。

① 5月18日付け「カトリック新聞」の一面のほぼ半分を占めるトップ記事:
  「混乱と分裂に解決を」
  4司教、教皇に現状訴える
  高松教区立国際宣教神学院

と、
② 3週間後の6月8日付けの3面の「意見」欄の記事: 
  「高松教区を弁護して」
(急な突っ込みのために差し替えがきいたのはこのスペースだけだった?)
の二つである。

 不思議なのは、②の中に見られるまるで他人事のようなことばの数々。例えば、「本年5月18日付けのカトリック新聞は、高松教区のことに言及しているが、一般の読者にとっては、何のことかさっぱり分からないのではなかろうか」とか、「事の事情にまるきり通じていない一般読者の好奇心をそそるために、この記事がかかれたのなら、高松教区にとってはとても痛い傷を受けたことになる。」などである。
 うーん、なるほど、そういう見方もあるか、と感心しながら、もう一度二つの記事をよくよく見比べて、「エーッ?? 何、これ?!それはないだろう!と絶句した。 笑い顔と渋い顔の違いはあるが、両方の記事を書いている(書かせている)写真の人は紛れもなく同一人物、高松の司教さんその人ではないか。
 自分が書いて(書かせて)おきながら、「高松教区のことに言及しているが、一般の読者にとっては、何のことかさっぱり分からないのではなかろうか」はないだろう。それなら、もう少し親切に分かりやすくお書きになればよかったではないか。それとも、後で読み返してみて、自分自身でも何を書いているのかさっぱり分からない、と正直に告白しておられると言うことか。支離滅裂とは、このことではないか。
 「一般読者の好奇心をそそるために、この記事を書いた」と本音をポロリと正直に告白しておられるが、ならば「高松教区にとても痛い傷を負わせた」のは、書いた人、つまり高松教区の司教さま御自身ではないか。自分で書いて、自分の教区に痛手を負わせておいて、バチカン大使から大目玉をいただくと、コロリと品を変えて、その自分の記事を、まるで他人事のように批判してみせる。こういう手合いを、世の中ではマッチ・ポンプ(自分で放火しておいて、殊勝顔にも消化に精出してみせる)と言うのではないか。

★ 3回目頃には空気が読めてなければ・・・・

 いま風の若者は、「KY」と言う隠語を使うそうな。「KYさん」とはその場の空気が読めない人のことだと教えてくれた。3度目の正直、と言うが、3度同じことをやって見て駄目だったら、頭を冷やして考え直すのが普通だろう。ファーストクラスに乗って8回もバチカン詣でをしてもなお埒があかなかった。それで、9度目には、(一人では会ってもらえないから?)ご大層にも3人の大司教をお供に従えて、日本の教会の最強のチームでバチカンに繰り込み、担当省長官ではお役不足とばかり、教会のトップ、ローマ教皇さまに直談判を仕掛ければ、必ずや説得して執念を遂げてみせる、と自信満々だったのだろうか。しかし、またしてもなんの成果もなくすごすごと引き下がったと言う報告が、5月18日一面のトップの虚勢を張った内容の空虚な巨大記事だったことは、読む人が読めば一目瞭然だった。
 いささかでも識別の賜物を戴いておられるのなら、ローマの風がどこへ向かって吹いているかくらい、3度目には察しられてもよかったのではないか。信徒の貴重な献金を随分と無駄使いせずに済んだに違いないのに。

★ こんなにやったのに、「共通理解が得られない」

 「教皇自身、この問題に関して福音宣教省からの報告を受け取っているものの、日本からの情報が十分伝わっていないようだと日本の司教ら(従って高松の司教自身)は感じていた」と記事にある。もどかしさ、欲求不満の苛立ちが痛いほど伝わってくる。
 教皇様と日本の司教(高松の司教)との間に立っているのは福音宣教省だ。その長官はインド人のディアス枢機卿。聞くところによると、高松の司教とは旧知の仲とか。新求道共同体に関してはアンチ、乃至はクールに距離を置く立場の人と聞いている。新求道共同体積極支持派でないことだけは確かだろう。ああ、それなのに・・・・

★ ここで、小話を一つ 

米ソ冷戦時代の話である。
 クレムリンとホワイトハウスは、それぞれスーパーコンピューターを駆使して情勢分析を行い、その結論のデーターをアタッシュケースに忍ばせた外交官が交渉のテーブルに付く。コンピューターが間違うはずはなかった。それなのに、交渉は一向に進展しないのはなぜか。両大国のトップは思った。それは、交渉に当たる外交官の人間的限界が解決を妨げているからに違いない。それでは、クレムリンとホワイトハウスの間に引かれたホットラインの回線を使って両国のスーパーコンピューターを直接繋げばいい。人間的限界のノイズは除去できるはずではないか。合意はすぐ出来た。
 二つの巨大人工頭脳が冷戦の壁を越えてはじめて直接繋がれた。はじめ、両者はクールにデーターのやり取りをしていた。しばらくすると、コンピューターの温度が微妙に上がっているのが計器で読み取れた。数時間が経過した。温度計は徐々に上がっていった。両国の首脳はよい結果を待ちわびた。しかし、コンピューターはカッカと加熱するばかりで、いつ終わるとも全く見通しが立たなかった。突然、巨大なコンピューターは唸り始めた。がたがたと身をふるわせ始めた。そして、これ以上いったら爆発する、とみなが身の危険を感じて逃げようとしたその時、両国のコンピューターはほとんど同時に一枚の紙をスリットから吐き出した。
 アメリカの大統領とソ連の首相は恐る恐るそれを見て真っ青になった。
 その紙には「戦争以外の解決の方法無し!」と書いてあった、とさ。
これは、アメリカの投資銀行、リーマンブラザーズで飯を喰らっていたころ、仲間同士のくつろいだ酒の席で、頭のいいユダヤ人の同僚がしてくれた、コンピューターをネタにした二つの小話の内の一つだ。

★ 話を本題に戻そう

 日本の司教は、ディアス枢機卿が間に立つから、話のパイプが詰まる、直接教皇と話をつければ必ず説得できる、高松の神学校閉鎖について色よい同意を引き出すことが出来るはずだ、と自信満々ローマに繰り込んだのだろう。
 ところがドッコイ、直接頂上会談ではじめて明らかになったのは、ディアス枢機卿がパイプを詰まらせていたのではなく正しく日本の司教の意向を伝えていたのに、教皇自身が初めから一貫して日本の司教たちの申し入れを繰り返し却下していた、と言う事実だった。枢機卿は、個人的心情としては仮に新求道共同体に対してアンチであったとしても、卑しくもバチカンの大臣である。教皇様の意向を正しく日本の司教に伝えるのは当然の職務ではないか。一回目で分からなかったのはまあ仕方ないとしても、3回目あたりで、おや?何か変だぞ、これはひょっとして自分たちのほうがおかしいのではないか、と敏感に空気を読むべきだったのではなかろうか。
 私は、直接ピッタリと重ならないにもかかわらず、なぜかふとあのコンピューターの小話を連想したのであった。

★ 「道」の規約は未承認 
   (注:6月13日に目出度く承認されている)
 


 エッ!何でここに「新求道共同体の道」の話しが出てくるの?関係ないでしょう?このあたりに郡山司教のブログの謎めいたことば、「神学校の問題と運動そのものの問題とはまったく別の問題なのに」が関係しているのではないだろうか?これはまさに、新聞記事 ② の高松司教のことば、「何のことだかさっぱりわからない」「ことの事情にまるきり通じていない一般の読者の好奇心をそそるために」、それも否定的なトーンで!なにやら胡散臭いぞ、係わり合いにならないほうがよさそうだ、と言う心象を残すために、意図的に挿入されたものに違いないのではないか。
 カトリック新聞と言えば、日本の司教団のいわば官報、別の名を「御用新聞」とも言うべきものだろう。
 それが、事もあろうに、歴代の教皇様が第二バチカン公会議の貴重な成果として、目の瞳のように大切にし、雛鳥のように羽の下にはぐくみ慈しんでいるものを、まるで危険な原理主義、カルト集団、分裂と対立の諸悪の元凶であるかのように書き立て、「何のことかさっぱり分からない」(司教のことば)、「事の事情にまるきり通じていない一般の読者」(これも司教のことば)がいたずらに不安を抱き、「君子危うきに近寄らず」的雰囲気になるよう、また、一般信者の心が新求道共同体から離反するように巧妙に仕掛けるとは、一体どういうことだろう。
 言いたいことはまだ山ほどある。しかし、あまり長いと誰も読んでくれないから、今日はここらでやめることにする。(つづく)
(冒頭の写真はルルドの大聖堂の部分)

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★ さあどうする? カトリック新聞  取り上げる? 取り上げない?

2008-06-16 15:33:05 | ★ 日記 ・ 小話

2008-06-15 08:12:01




 さあどうする? カトリック新聞
      取り上げる? 取り上げない?


「新求道共同体の規約」教皇教書(Decretum)により承認、
               のニュース


 これに関する記事を、バチカンの機関紙(日刊)「オッセルバトーレ・ロマーノ」の14日のイタリア語紙面をインターネットで検索したが、見つけなかった。知人が、Zenitというカトリックメディアに出ていると言うので検索したら、フランス語と英語でそれを見つけた。昨日のブログにアップしたのは、その英語からの訳だった。

目立つ不自然、不公正な取り上げ方

 新求道共同体に関する記事は、「オッセルバトーレ・ロマーノ」紙を初めとして、世界中のカトリックメディアで、或る一定の頻度とボリュームで絶えず取り上げられている。そのことは、通算9年間のローマでの生活を通して確かに証言できる。そして、真面目なメディアに関して言えば、ほとんど全て公正な肯定的な記事で、歴代の教皇様がらみが多かった。
 ところが、こと日本のカトリック新聞に関して言えば、既に引退し、或いは他界された「新求道共同体擁護派」の司教様たち(かつては司教団の3分の1ほどがそうだった)の投稿記事以外には、肯定的な記事はほとんど皆無だった(稀に「声」の欄の賛否両論併記型の扱いで申し訳程度に扱われたのを別にすれば)。
 自分自身も経験したが、他の人からも、カトリック新聞の新求道共同体に関する扱いが、偏っていると言う嘆きを多く耳にした。意見は無視され、投稿は没にされて来た歴史がそこにある。
 新求道共同体を取り上げるときは、ほとんど常に、否定的、批判的記事であり、ことさらに不安を掻き立て、分裂を生み出す方向への誘導記事といわれても弁護の仕様がないようなものばかりであった。しかもその多くが、現役の司教の名で書かれ、1面のトップを飾ることも稀ではなかった。
 6月はじめの司教会議の席で、バチカン大使が一喝したのは(郡山司教によれば)そうしたことへの聖座の苛立ちの爆発ではなかったか?

さあ、どうする?

 私は、カトリック新聞の次の号が楽しみだ。
 新求道共同体の規約承認を報道するか、しないか?するとしたら、肯定的に書くか、否定的に書くか?冷ややかに事実の一端を小さく報じるにとどまるか?大きく一面トップに好意的なコメントとともに書くか?
 この出来事は、客観的に言えば、恐らく1210年に教皇イノセンティウス3世がフランシスコ会の会憲を承認したこと、1540年に教皇パウロ3世がイエズス会の会則を承認したのと同じか、それ以上の重大な出来事であろう。
 「Zenit」の公正な取り上げ方が、カトリック新聞を評価するうえで、一つの目安になると思う。木・金曜あたりに届く週刊紙だから、まだ次の号に間に合うはずだ。
 

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★ 「悪の根源」 について -「エゾ鹿」 と 「ウサギ」 の哲学的・神学的対話-その17

2008-06-10 02:55:01 | ★ 日記 ・ 小話

          


〔エゾ鹿〕 前回までの話で、良心の声の強さが何故相対的に大きく異なるかが分かっただろう?
〔ウサギ〕 いいえ、ちっとも。
〔エゾ鹿〕 そいつは弱ったな!では、初めから筋道をつけて説明するから、しっかり付いてきてくださいよ。
〔ウサギ〕 さあ、どうですかね。あんまり難しい話になると、誰も付いてきてくれないんじゃないですか。
〔エゾ鹿〕 それは分かっているさ。しかし、何しろ、ローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学大学院ゼミ1学期分ほどの内容と格闘しているのだからね。なるべく平易な言葉で纏めるように努力するから、少しは辛抱して欲しいな。
さて、人間が物心付いて、初めて重要な良心的選択に直面したとき、誰でも、自分の心の最も奥深ところに「それは良いことだからしなさい!」とか「それは悪いことだから絶対にしてはいけない!」という形ではっきりと響く他者の声、良心の声を聞くはずだと思う。良心の声と自分の願望の対立が深いほど、また誘惑が大きいほど、良心の葛藤は激しいものになるだろう。もし、幸い、最初の良心的戦いに勝利し、誘惑を退けて善を選び取るなら、良心の声は「よくやった、あなたは正しい選択をした」と言って褒めてくれるし、本人も深い心の平和と喜びを味わうに違いない。
〔ウサギ〕 それはまあそうでしょうな。 だから?
〔エゾ鹿〕 人生で最初の重大な選択において、幸い善を選び取り、悪を退けた魂は、次に同じような誘惑を前にしたとき、前と同じように明白な良心の声を聞くだろう。そして、良心の葛藤に勝利して善を選んだときの心の平和と喜びの記憶が助けてくれるから、最初のときよりも少ない良心の葛藤の後、よりたやすく善を選ぶことが出来るに違いない。そして、3度目以降はますます容易に、ほとんど第二の本性のように、常に善に傾く魂の習性が生まれることになる。
〔ウサギ〕 では、もし最初の良心の戦いに敗れて、誘惑に負けて悪を選んだ者はその後どうなるんですか?
〔エゾ鹿〕 それが実はカカオアレルギーの坊やの話さ。もちろん現実世界にはカカオアレルギーなんて存在しないかもしれない。一つの寓話として、エイズやC型肝炎などよりもっと厄介な魂の病、決定的な治療薬が見つからない、緩やかな死に至る難病のようなものだと考えていただきたい。
悪餓鬼の家で初めてチョコレートの誘惑に直面したときの坊やの良心との葛藤は、傍目にも痛ましいほど激しいものだった。坊やは優しいお父さんを愛していたし、チョコレートが自分の場合は食べてはいけない有害なものだと言うことはよく分かっていた。しかし、可愛い女の子の誘惑の前に、彼の最後の抵抗線が崩れ去った。その後の良心の呵責は激しかった。後悔した坊やは、二度目も果敢に戦った。しかし、もう一歩のところで、また彼は負けてしまった。そうなると、良心の声は弱くなり、戦う力も衰える。勝手な言い訳や嘘で自分を弁明し、良心の声は無視、黙殺されていった。

          

「ファンダメンタルオプション」とは、人生における最初の重大な善悪の選択の岐路に際して、良心の声を前にして何を選んだかが、その後の人生に決定的、基本的な意味を持つと言うことだ、と言っていいだろう。善を選んだものが、その後の人生においてますます容易に善を選ぶ習性を身につけ、不幸にも悪を選んだものは、どんどん良心が麻痺して、仕舞いにはほとんど自動的に、習慣的に悪の側に滑り落ちてしまうことになる。
この辺の事情が分かると、良心の声が、人によって、また同じ人でも魂のありようによって、大きく強く働いたり、弱々しく、或いはほとんど聞こえないぐらいになる理由が分かると言うものさ。
大きな罪人が回心して善に立ち返ったり、天使のように清く善良な魂が、或る日突重大な罪に陥るなどのことは、よほど大きなエネルギーが第二の本性を破壊したことを意味する。
さらに、個人についてファンダメンタルオプションを語りうるとすれば、小さなグループについても、或いは、ある地域社会においても、国レベルでも、イデオロギー集団においても、類比的に(アナロジーとして)ファンダメンタルオプションを当てはめることが出来るはずだと思う。つまり、集団的な高いモラルや、その反対の良心の麻痺がそれだ。ナチスの強制収容所で、ゲシュタポも看守も医者も看護婦も、ユダヤ人に対する非人道的なひどい扱いを、全く罪悪意識無しにやったかのごとくに抗弁するのがいい例だ。
ユダヤ教やキリスト教が言う、人祖のアダムとエヴァの失楽園の物語は、進化の長い歴史の最先端で、初めて理性と自由意志が円満に開花した最初の人間の最初の良心的選択の物語として、人類規模のファンダメンタルオプションの決定的出来事だったに違いない。その結果、その子孫(現代まで生き延びている全人類)の一人ひとりのDNAには、きっちりと「男」、又は「女」、そして「罪」と極印されることになった。これをキリスト教的には「原罪」(Original sin)と呼んでいるのさ。たくさんの補足説明、付帯考察を全部省略して、骨だけを言うと大体こんな話になる。これで、良心の声の内容の絶対性と現れ方の相対性、ならびに良心と罪の関連の話を終えてもいいかな?
残る問題は、「悪の根源」と人間の「罪」との関係だが、それはまた結構しんどい話になるから、次に譲ることにしよう。

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★ 4年ぶりに深堀司教を迎えて

2008-06-07 04:30:43 | ★ 日記 ・ 小話

2008-06-06 11:19:27



 
 深堀司教様が帰ってくる。司教を辞して4年間、一度もその土を踏むことのなかった四国に。
 いま、なにを祈っておられるのか・・・・・
 わたしは、彼に拾われ、首輪をつけてもらった野良犬だった。そして、彼にとってのわたしは、恩のある飼い主の手を噛むような、疫病神だった。そんな私を、彼は無条件に赦している。
 ノーマルな状態では、引退司教は、教区内に留まり、自分の息のかかった後任司教と、彼を慕う教区民に囲まれて、幸せな老後を過ごすはずだった。それが、司教としての最後の日々を、世俗の法廷で被告の汚名を着せられて過ごし、引退後は熊本の繁華街の真ん中の教会で一司祭として黙々と激務に耐え、孤独に耐え、不本意な日々を過ごしてこられた。
 高松の緑に縁取られた小川のほとりを散歩するのが、長年の日課だった司教さまにとって、市の中心の排気ガスにむせ返る繁華街での生活は、いかに耐え難いものか。
 何もかも、この疫病神が招いたことだった。彼の中に受難のキリストが透けて見える。
 それが、6月30日に閉鎖と決まった神学校の最後の行事を執り行うために、4年たって初めて現司教から四国の土を踏むことを赦された。自分の創った神学校の最期を自分の目でしっかり見届けなさい、という有り難い配慮なのだろうか。
 行事と言うのは、次の写真の4人神学生の、二人は朗読奉仕者、二人は祭壇奉仕者への選任式だった。 



自分が翼の下のひな鳥のように慈しみ、目の瞳のように大切にして来た神学生たちの成長ぶりに目を細め、4年の間になめた孤独と苦しみを振り返りながら、司教の声は振るえ、目には涙が浮かんだ。日本での福音宣教の熱意に燃える彼らは、司祭に叙階されることもなく、間もなく散り散りに故郷に帰っていくのだろうか。それなのに、彼らの底抜けの明るさは、一体何なのだ?



聖霊の息吹が充満した聖堂での式とミサが終わって、香部屋で撮った写真には、彼によって司祭に叙階された群れの一部が納まった。本当は全部で約この3倍はいる筈だ・・・・



わたしは、司教様の二人目の子供。並んでみると、彼はあの頃より一回り小さく、心なしかやつれておられた。



 お祝いのパーティーが食堂で開かれた。乾杯!カンパーイ!司教様の左がグレゴリオ神父。右は院長と副院長。(司教様のすぐ後ろは給仕の神学生。)


苦しみを知っている人、苦しみになれた人の微笑み。


 
グレゴリオ神父の日本の歌の甘いメロディーに、司教様のお茶目な一面が覘く。



食事もたけなわ。



歌って、




踊って、



画面の左右にそれぞれまだほぼ同数があふれているのだが・・・



深夜を待たずに、みんな潮が引くように消えていった。もらった部屋に入っても、色々思うことがあって寝付けなかった。やがて、朝日が田んぼに映り始めた。朝5時、寝静まっている神学院を後にして、司教館にもどった。司教館に来て初めてのミサを一人で立てた。年内にあの神学院は無人の館になる?そんなことありえない。



朝日の中の神学院の玄関。




坂下の目印、キリシタン織部灯篭 (復刻)




わたしが学んだローマのレデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院の中庭から持ち帰った松の実から生えた地中海松も、太さ10センチあまりに育っていた。レスピーギの音楽が聞こえる。



イタリアの白大理石のマリア様。水主(みずし)は神学院のある土地の名前。

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