2008-01-30 12:54:52
ロサト教授は誤りを教えたか?-(その2)
「共同司牧」
グアム在住の日本婦人にショックを与えたのは、日本の教会に導入されたいわゆる「共同司牧」と呼ばれる新方式である。
3つ、4つ、5つ、時にはそれ以上の数の教会を、その教会の数より少ない人数の司祭たちが共同で司牧する方式で、司祭達は中核的教会一箇所、時にはどの教会でもない第三の場所、で共同生活をするのが基本のようである。
どの教会にも固定した主任司祭は常駐せず、原則的には、日曜日毎に違う顔の司祭がミサのために巡回する。司祭のグループに幹事役がいるとしても、主任司祭とそれを補佐する助任司祭との間の関係のように、一方が他方に命令し、他方がそれに従順するかつてのような上下関係はない。基本的にはみんな対等な立場で協力し合うのであろう。
一見、極めて民主的で合理的なシステムのように見える。世俗の機関や企業が要員不足のときに採用するお決まりの対策で、別に新らしみはない。問題は、それがキリストの命を生きる神秘的な体にたとえられる「教会」という生きた信仰共同体にそのまま当てはまるか、と言う点である。
ロサト教授によれば、教会は一つの生命を持った有機的細胞である。細胞質は信徒たち、核は司祭である。核とそれを包む細胞質が一組、対になってはじめて一つの命、一個の細胞を形成する。
それに対して、共同司牧と言うのは、幾つかの細胞からそれぞれの核を抜き取り、裸の核だけを寄せ集めて別のところに置き、4つ、5つの教会を2、3人の神父が、6つ、7つの教会を3-5人の神父が、日曜ごとにローテーションを組んで掛け持ちするシステムである。信徒からすれば、毎週やってくる神父の顔が違うし、平日には教会に神父が居ない、と言うことになる。要するに、各教会は常に核のいない細胞の状態に置かれるのである。
司祭だけの共同生活は、賄いさんを雇う費用を割り勘にすれば経済効率もいいだろう。しかし、一人ひとりの司祭に、彼を牧者、父として慕い、常に彼を家族的に包み込む安定した特定の信徒の群れは存在しない。
カトリックの司祭は独身主義を建前とする。自分の教会の信徒たちと言う大家族に暖かく包まれ守られることが無くなった個々の司祭達は、何処でその孤独を満たすことになるのだろうかと、俗物の私は、余計な心配をする。
「共同司牧」は「共同死牧」?
○細胞から人工的に核を抜き取ると、やがて細胞質は死滅する。抜き取られた核も、細胞質に守られ栄養を受けることが出来ないから死んでしまう。
もしロサト教授が正しければ、主任司祭が常駐しなくなった小教区教会は、核を抜かれた細胞質のように、やがて衰微し死んでいくことになる。また、細胞質に護られなくなった裸の核のように、小教区から切り離され孤立した司祭も、何人か寄り合って経済的効率を達成しても、自分の教会の信徒らによる精神的支えを失っては、やがて枯渇して、霊的にはいずれ死んで行く事になる。
○細胞質の中に核がある。核には染色体があり、生命を維持し伝えて行くために必要な情報をDNAとして守っている。
信徒たちで聖書を読み、分かち合うだけで、自分たちの信仰を支え、誤り無く歩むことが出来るのであれば、それはいわゆる無教会主義の教会の集会に等しく、ミサをしたり、説教をしたり、告白を聞いたりする司祭は要らない。しかし、カトリック教会である限り、核としての司祭は必須である。
○細胞の中と外を分ける境界が細胞膜である。細胞膜の内側には細胞質があり、細胞質はその膜を通して、外界と栄養や老廃物のやり取りをする。
DNAを保つ核に相当する司祭を欠くと、カトリック教会の生命を他のものと質的に区別すべき判断の根拠が失われ、有機的な生命体としてのアイデンティティーを包み込む細胞膜も溶けてしまって、他の宗派・宗団と変わらなくなってしまう。
○細胞膜の中の細胞質と核は、相互に依存し合いながら、一つの生きる単位を構成するものだから、その有機的結合を破壊すると、必然的に死に至る。
ロサト教授の教会論とその喩えが正しいとすれば、日本のカトリック教会が採用している「共同司牧」は、結局は「共同死牧」と言うことになりはしまいか?
日本をはじめ、富める第一世界は、どこも少子・高齢化社会で、年寄りの司祭から待った無しでどんどん死んで行く間に、その後を埋める若い司祭、新しい命、は一向に育ってこない。司祭不足はまさに深刻化の一途を辿っていて、歯止めがかかる兆しは今のところ全く無い。
共同司牧方式とは、要するに、そのような悲観的展望を不可抗力の所与として受け入れ、当面の辻褄を合わせるために編み出された場当たり的対応策に過ぎないのではないか。どこにその聖書的、神学的、歴史的根拠があるのか知りたいものだ。
恐らくロサト教授は間違っていないだろう。むしろ、共同司牧方式が根本的な誤りを含んでおり、いずれ必ず失敗し、破綻すると考えるべきだと思われる。
私は、根本的解決は全く別のところにあり、それは現実に可能であると確信するものであるが、今回はここで一区切りとする。(つづく)