:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 回想 「田村塾」のこと - その2

2008-03-30 02:10:19 | ★ 日記 ・ 小話

      回想 「田村塾」のこと (その-2)

      

その後、科学技術の進歩と鉱工業生産活動の拡大、教育の普及、一般市民の個の確立や権利意識の高揚などに伴って、社会における宗教の位置も大きく変化していった。
 強者に従属し、支配者には上からの権威付けを与え、信者を権力者に従順な羊の群れとして囲い込み管理する見返りとして、地上的な繁栄を享受してきたキリスト教会は、日本の伝統仏教同様、やがて単なる古臭い信心や習俗に堕して行き、大衆、特に若い世代を惹き付ける魅力を次第に失っていった。
 市民社会では世俗化が進み、人々は神聖なものの価値を忘れ、神への信仰が心の奥底から薄れていった。それはまた、世俗の権力にとって、宗教が後ろ盾としての利用価値を次第に失っていった過程でもあった。さらに、お金の神様が人々の心を捉え、人々をその奴隷にしていくにつれて、宗教はかえって足手纏いの無用の長物として、世俗の支配者から棄て去られる運命にあったとも言えよう。近代国家における政教分離はその流れの中にある。
 第二次世界大戦が広島と長崎への原爆投下をもって終わり、現人神(あらひとがみ)として日本型ファシズムの頂点に君臨していた天皇が「人間宣言」をしたときを境に、神聖なものに対する畏敬の念が日本の社会からは完全に消失してしまった。もともと仏教には人格的超越神の概念が欠落していたから、キリスト教の神が根付かなかった日本においては、その後に残ったのは、唯一お金の神様、マンモン、悪魔の化身のみであった。他のいかなる神に対する気遣いもなく、純粋にお金、富、経済的優位に立つことを価値判断の唯一の尺度とする社会が、人類史上初めて日本に出現したと言ってもいい。それが、戦後日本の奇跡的復興を生んだ精神的背景であった。
 超越神不在の人間社会、つまり、まことの神の対極に座する偶像、即ち、お金の神様(マンモン)に魂を完全に売り渡した社会が達成し得たものが、技術大国、経済大国、金融大国、つまり、日本の今日の姿である。

第二バチカン公会議

 第二次世界大戦中のカトリック教会を統治した教皇ピオ12世が死去すると、その後継者選びは予想外に難航した。世界の枢機卿たちの意見が分かれて、なかなか一人の候補に絞り込めなかったようである。そこで、ひとまず冷却期間を置くために、人格円満、八方に敵が少なく、高齢ですぐに死にそうな、そういう人物を間に一代挟むことで、事態を収拾しようという暗黙の了解が成立したのだろう。こうして選ばれたのが、太った丸顔の老人、ヨハネス23世であった。
 ところが、何もしないですぐに死ぬはずだった新教皇は、大方の予想を覆して、事もあろうに公会議開催を全教会に求めたのである。バチカンのお役所の官僚たちの周章狼狽振りが目に浮かぶと言うものではないか。
 「教皇様、教皇様!公会議などもってのほかです。そもそも公会議と言うものは、教義上に疑義が生じて教会が分裂の危機に晒された時とか、教会の存立が外部から脅かされた場合などに開かれるのが常で、今のように内外ともに平穏無事な時代に何故必要でしょうか?第一、公会議を準備するには数年を要しますが、教皇様はご高齢で、開会式までご存命かどうかさえ不確かではありませんか。どうぞ、思い止まられますように・・・」と諌めた、とまことしやかに伝えられている。
 それに対して、ヨハネス23世は、断固たる口調で「いや、開会式は来年!」と申し渡した、とか。教会の頂点に立つ絶対者の鶴の一声である。有無を言わさぬその言葉に、バチカンの官僚たちは上を下への大騒ぎで、とにかく準備を急ぐことになった。こうして、公会議は無事開会式を迎えことになるが、案の定、開会して程なく、教皇はあっけなくこの世を去っていったのである。
 しかし、パンドラの箱の蓋はすでに開けられてしまっていた。表面的に安穏としていた教会の内部に、実は溜まりに溜まっていた諸問題が、一気に表面化した。
 「アジョルナメント!(教会を今日の時代にふさわしく改変すること!)」と言う当時の流行語を今も覚えている人は、めっきり少なくなってしまったのではないだろうか。時代に取り残された過去の遺物、時代にそぐわない無用の長物になりかけていた教会に、新たに聖霊の息吹を吹き込み、復活の命で蘇らせ、現代世界を内側から活かす力を取り戻させるのが、第二バチカン公会議の使命と目的であった。
次の教皇パウロ6世は苦労して山積する諸問題に対処し、数多くの歴史的成果を残して、何とか無事に公会議の幕を閉じることに成功したが、その彼も、大任を果たし終えると、さっさと天国に旅立っていった。
 公会議を開いたヨハネス23世と、それを閉じたパウロ6世の二人の名前を取った珍しいダブルネームの新教皇ヨハネ・パウロ1世は、公会議の決定を実施に移そうとした矢先に、在位たった一ヶ月で不審の死を遂げた。改革を望まず、公会議の開催に抵抗した闇の勢力(サタンとその手先)による、露骨な反撃であったと私は信じている。
 前任者の果たせなかった無念の思いを遂げるために出現したのが、ヨハネ・パウロ2世、教会史上初のポーランド人教皇、聖なる「パパ・ヴォイティワ」であった。彼は前任者の轍を踏まぬしたたかさとしなやかさを持っていた。
第二バチカン公会議は、第三千年期に向けて教会の生き残りをかけた、そして、精神的、霊的領域における教会の自立と指導力の回復がかかった、まさに不退転の大改革であったと言えよう。
 この改革の歴史的重要性は、4世紀初頭におけるコンスタンチン大帝のキリスト教承認という大変革に匹敵するものであり、好対照を成すものである。
 キリストの説いた弱者の宗教、貧しい被抑圧者の解放の宗教、迫害の対象であった非合法宗教を、皇帝の宗教、帝国の精神的後ろ盾、つまり強者・支配者の御用宗教へと180度転換したのが、コンスタンチンの改革だったとすれば、第二バチカン公会議は、教会を庇護し利用してきた強者、支配者から、御用済み、利用価値の無くなったものとして引導を渡され、捨て去られた教会が、自らの置かれている現実に目覚めて、キリストの説いた本来の弱者の宗教、抑圧された被支配者の宗教、コンスタンチン体制以前のキリスト教の姿に再び立ち返ろうとする一大改革に取り組もうとしたものだったと言えるのではないだろうか。
 コンスタンチン大帝の改革と、第二バチカン公会議の改革は、第三千年期に第一歩を踏み出した世界史を3分割する、二つの決定的な節目の一つであったと考えればいい。

ポスト公会議 -岐路に立つ教会-

 コンスタンチン体制以前には、キリスト教は帝国の土台を揺るがす危険な存在として、為政者に恐れられていた。それゆえに、それを懐柔し無害化するため、また積極的に帝国の精神的支柱として利用するために、キリスト教はこの世の支配者の手中に取り込まれたのであった。以来教会は、中世を経てごく最近にいたるまで、権力にとって危険のない、適度に有益な存在となった。キリスト自身の本来の教えでは、互いに相容れるはずのない「神のもの」と「セザルのもの」が、持ちつ持たれつの蜜月関係を保ってきたと言える。歴史的には、神聖ローマ帝国の体制や、植民地主義者の船に便乗して展開したフランシスコ・ザビエルらの宣教活動に、そして、近くはキリスト教民主同盟などという保守勢力の名前に象徴されるものが、まさにその典型であった。
 ところが、近代、現代の社会の段階的世俗化に伴い、気が付いたら教会は世俗の権力にとって取り立てて言うほどの利用価値も無いものに弱体化し、ついには、これ以上の世俗化を推し進める上では、かえって足手纏いになる邪魔な存在へと変質していったと言える。
 そのことは、現人神(あらひとがみ)天皇の人間宣言が象徴するように、一切の「神聖な価値」を否定した日本の社会が、広島・長崎の灰燼の中から不死鳥のように立ち上がり、東京オリンピックの頃を境に、産業と金融の分野で、最も世俗化が進んだ社会の特権として、世界のトップの座に躍り出たことではっきりと実証された。
 日本に追いつき追い越すためには、超越的な神を認めるキリスト教とそのモラルの存在は、欧米社会にとってかえって重荷であることが明らかになった。従って、キリスト教は、強者、権力者から、重大な足枷として捨て去られる必要があったし、実際に既に棄て去られつつある。ヨーロッパにおける急速な教会離れがその現われである。そのことに気付いた教会が、自らの体制の立て直しと生き残りをかけて開いたのが、たまたま東京オリンピックの翌年に幕を閉じた、あの第二バチカン公会議であった。(つづく)  (「その-3」へは左下の青字の「前の記事へ」をクリックしてください) 
 

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