2008-03-02 07:10:14
(これ、昨日1日にリリーズしたんですけど・・・、2月27日付けになってました・・・)
〔エゾ鹿〕 たしか、このシリーズの前回の最後は「天地万物をご自分のあふれる創造的愛で無から存在界に呼び出した神が、被造物に対して何が善いことで、何が悪いことかを・・・・」と言う言葉で終わっていたと思う。
その終わり方が「・・・・」だったのは、時間切れで筆が止まったとか言うような、そんな簡単な理由ではなかった。それは、実に悩ましい「・・・・」で、容易に話を先に進めることを許さない、大きな壁のようなものと言ったらいいだろうか。
そして、さんざん考えた末、残念ながらその壁はキリスト教的な神の概念を持ち出さないと越えられそうに無いように思えてきたということさ。
〔ウサギ〕 ちょっと待ったー!それって、インチキじゃないですか?だって、そもそもエゾ鹿さんは、この「悪の根源談義」を、出来る限り普通の言葉で、つまり、あなたが国際金融マンをやっていて、まだ教会の門をくぐる前の時代の言語を使って、あの頃あなたのまわりにいた普通の人たち、つまり神など信じないエリートビジネスマンたちにも分かる言語で説明し切りたいという、かなり思い上がった野心から始めたはずではなかったですか?
〔エゾ鹿〕 参ったな!それはそうだよ!全く痛いところを衝いてきますね、ウサギさんは!
確かに、キリスト教の神を受け入れ、主観的には神を信じていると思い込んでいる人たちの世界でしか通用しない「身内の話」に堕してしまっては失敗だ、と言う想いは捨て切れない。だからこそ悩んでいるんですよ、私は!
しかし、長考一番、ここは強い挫折感と、いささかの諦めとともに、一つの結論を受け入れなければ、次の一歩を進めることは、どうも難しそうな気がしています。「悪の根源」の探求には、キリスト教的な「神」概念を導入しなければ、どうあがいてもうまく行かないだろう、と言う展望です。
〔ウサギ〕 つまり、言い換えれば、神を認めないエリートサラリーマンの語彙と思考回路だけでは、悪の問題に納得の行く究極的回答にたどり着くことは、恐らく不可能であろうと言いたいのですね!?
〔エゾ鹿〕 その通り、神との関連を考えに入れないままで、悪の考察を行き着くところまで突き詰めるのは、極めて危険な冒険でもあるだろう、という予感がするのです。適当なところで不可知論的に問題をはぐらかすこと無く、どこまでも追求しようとすれば、最後には「人生不可解なり」といって自殺を選ぶか、悪くすると、発狂して精神病院に入ることにもなりかねない、極めて危険な企てなのかもしれませんね。
〔ウサギ〕 そんな恐いことなら、さっさと止めにしましょうよ。もともとこんな話、誰も興味を持って読んでなんかいないんじゃないですか?
〔エゾ鹿〕 いや、せっかくここまで来てそれは無いだろう。とにかく、ここでちょっとジャンプして、善とは神の命令に従うこと、悪とはそれに従わないこと(不従順)と強引に定義して、そこから話を先へ進めることにしたいと思う。この定義を引き出す根拠は、旧約聖書にも新約聖書にも色々あるが、今はそれらを個別に検証するのは、ひとまず省略するとして・・・。
〔ウサギ〕 ところで、従順って何ですか?
〔エゾ鹿〕 えっ、そんな初歩的なこと訊くの?参ったなー!えーと、それはですね、それは先ず、人格的主体の行為だということから入ろうかな?!
〔ウサギ〕 人格的主体って?
〔エゾ鹿〕 それも説明しなければいけないの?それは、ラテン語でペルソナ(もともとはギリシャ悲劇の仮面のこと)とも言うが、理性と自由意志を備えた生き物の固体のこと。身近には自分と他の個々の人間のことさ。もちろん、天使も、悪魔も、実は神もその仲間に入るのだけどね。
〔ウサギ〕 ウサギや鹿などの動物は?
〔エゾ鹿〕 君と僕は擬人化されているから別として、自然界の動物はそのカテゴリーには属さないね。
具体的な行為に際して、自分がしようとしていることを理性で把握し、その上で自由意志を用いて選択することが問題になるが、動物は本能に従ってしか行動しないから対象外だね。
〔ウサギ〕 そうか!つまり、シカさんが言いたいのは、人格的主体が、良心の声を通して神様が人間に命じること、または、禁じること、を理性で正しく認識し、認識したことに自由意志をもって選択し、それに従うことを「善」と言い、従わないことを「悪」と言うことですね?!
〔エゾ鹿〕 いやー!ウサギさん今日は実に冴えてますね。いつもそうだといいんですがねぇ。
〔ウサギ〕 私はいつも冴えてますよ!今回、タブーのキリスト教言語を持ち込んだことで、話は一気に進んだけれど、問題は、神を認めない人がそれで納得するか、ですがね。あーあ、ちょっと疲れたな。今日はもうこの辺で店仕舞いにしませんか?(つづく)