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:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ さようならクリスチャン -神学院を去る若者-

2012-03-24 15:05:48 | ★ 神学校の日記

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さようならクリスチャン

-神学院を去る若者-

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 今日は土曜日。平日の起床の鐘は5時半に鳴るが、大学の授業のない土曜日は7時半に鳴るはずだ。なのに、今朝は6時半に鳴った。なぜか?それは、今日サッカートーナメントの試合があるからだ。朝食が終わったらみんな大挙して応援に行く。

 7時。日本のための神学生は自分たちのチャペルに集まって、日本語のミサに与った。冒頭、司式するアンヘル神父は言った。「クリスチャン神学生は無事にエル・サルバドールの家に帰り着きました。みんなによろしくと言うメールが入りました」と。

 

ミサが終わって皆が食堂に去った後の日本の神学校の聖堂

 

 私にとっては孫のような世代の、まだ「少年」と言ってもいい可愛いクリスチャンが、私には別れの挨拶にも来ないままひっそりと去って行った。

 彼は、数百人の神学生志願者の集いのくじ引きで、80数校ある姉妹校のうち、この日本のための神学校に入ることになった。以来、半年余り、養成者側は注意深く彼を見守ってきた。信仰、道徳、社会性などの面でほかの子と比べても特に遜色はなかった。しかし、問題が残った。母国語はスペイン語で、イタリア語の日常会話も自然に覚えた。しかし、それ以上に進まないのだ。中年のイタリア人女性の家庭教師が付いた。彼女曰く、文法が全く頭に入らない。抽象的な概念が覚えられない。これではクレゴリアーナ大学の哲学の授業には無理だ。まして、日本語の文法と、特に漢字の習得については絶望的だろう、と言う評価が出た。

 昔、貧しい長崎の子沢山のキリシタン家庭からは、口減らしもあって、小神学校(小学生から入れる)は神父を目指す子供たちであふれ返っていた。養成者側は、100人のうち数人が司祭までたどり着けばいい、くらいの思いでおおらかに育てていた。ふるいにかける一つの基準はラテン語であった。ラテン語が覚えられない子は、容赦なく家に帰らされるのだった。

 また、昔、日本の一流都市銀行には、各大学でそれなりの成績を修めた同期生が毎春そろって入行した。一流大学出は支店長ぐらいまではみな轡を並べて一斉に昇進していく。ところが、平取締役に上がる段階で、ポストは極端に少なくなる。すると、支店長時代にその支店でなにか事故があると、支店長本人に過失や責任がある無しを問わず、「はい、お気の毒様!」とばかりに役員候補から外される。いわば運試しの×ゲームみたいなところがある。そして、同期の中から役員が出ると、皆一斉に第二の勤め先に天下る、と言う話を聴いたことがある。私がいた外資系とは異なり、年功序列による終身雇用制の古き良き時代の秩序と言うべきかもしれないのだが・・・

 不幸にして、クリスチャンはそういうスクリーニングに引っかかってしまった。

 まだ彼には国に帰って地元の神学校に入り直す道が残されているが、はたしてどうだろうか。めげるなよ、クリスチャン。神様はお前を愛しておられる。 

 さて、ミサが終わって朝食をとると、選手たちは出発の前に、この神学校に唯一の司教-日本のための神学院の院長-平山司教様に出陣の祝福を受ける。去年はこの祝福のお蔭か、常勝将軍の破竹の勢いで勝ち進んだ。しかし、今年はたまに取りこぼしてしょんぼり帰ってくることがある。上級生の優秀な選手たちが実習や病気で抜けたからだ。我が日本のための神学院のアルフォンソ君も、得点王で毎度複数ゴールを決めて勝利を呼び寄せていたが、心臓肥大症が見つかって出場停止となった。みんな出ていった後、「もうプレーしないのか」と慰めたら、「僕はもう年を取りました」とアルフォンソは答えた。相手チームの選手を救急車で病院送りにしたというような武勇伝も、最近はあまり聞かなくなった。


ロビーに集まった現役の選手たち


勝利を祈願して祝福をする平山院長

 

     

      優勝した年のキャプテンの雄姿 優勝した時のトロフィーは昔の神父の帽子をかぶってサッカーシューズを履いたボール


 

 しばらく自室で仕事をして、ロビーに降りていくと-あれから何時間たったか-選手たちが戻ってきた。大人しいのでまた負けたのか、と聞いたら、いや2対0で勝ちましたという。相手は南アメリカの神学生連合軍と言う強豪だったそうだから、大した成果だ。しかし、野性味が亡くなったというか、なんとも大人しくなったものだ。20年前のこの神学校は御し難い野獣のような神学生にあふれていたものだが、これも時代の変化によるものか。


勝って帰ってきた今の選手たち 左端は日本のための神学校のイスラエル神学生 新入生だが日本語ペラペラ 

 

 私が入った1990年ごろは、ローマの伝統ある神学校のコレジオ・ロマーノと、新興勢力の我々レデンプトーリスマーテルとは、いずれも80人ほどずつ神学生がいて競い合っていた。それが、この20年あまりのうちに、向こうは30人ほどに減り、こちらはローマと日本の連合軍で100人余りと(その中に将来の中国への宣教師の玉子も含まれるが)圧倒的な差がついてしまった。教皇のお膝元でこのありさまだ。他の国々は推して知るべしではないだろうか。

 今は世界中で神父のなり手が不足している。たまに、神父になりたいという奇特な青年がいると、「それ!金の玉子だ!」と言わんばかりに大歓迎。働きたくない症候群、結婚恐怖症、ホモの疑いさえも、取り敢えずは目をつぶる?かのようだ。そして、それを少子化家庭の一人っ子のように大切に育てる。辞められたらそれこそ大変だ、と甘やかす。養成者は無意識のうちに弱気の守りの姿勢をとる。これでは骨太神父は育たない。この世界の潮流の中で、日本だけは例外であればいいのだが。

 その点、うちでは寝坊して朝の祈りに遅れてでも来ようものなら、「この怠け者!明日朝一番の飛行機で国に返すぞ!」と院長の檄が飛ぶ。愛の鞭がふるえる強気の養成者は幸せだ。

(終わり)


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★ 強烈な反響 -「聖母のメッセージ」のブログに対して(オリジナル)

2012-03-24 11:10:39 | ★ 聖書のたとえ話

「全ての民の聖母」 オランダ、アムステルダム 

 

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★  強烈な反響 -「聖母のメッセージ」のブログに対して

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前回の「聖母のメッセージ」のブログには、早速いくつかのコメントがツイッターやメールなどで寄せられました。次のコメントなんかはかなり強烈ですね!:

 

       まあ、木像が涙流しても、歌うたってもいいけどさ、

       神さんが人間に復讐してどうなるんじゃい!

       お前の創ったもんじゃろうが、

       創った者が責任とれ!ちゅうんじゃ (J.K.)

 

上のは、いつも辛口のコメントをくれるお友達で、今回も 「あ、痛タタ!またやられた~」 と言う感じですが、いつもその後ろには理解と愛情がこもっています・・・。

しかし、次のは本当に重いですね:

 

       谷口神父さま

       湯沢台の聖母についての記事を興味深く読ませていただきました。

       以前湯沢台には2度ほど子供たちとお邪魔したことがあります。

       聖体奉仕会の修道院がもつ祈りの雰囲気は大変に気に入っているのですが、どうしてもわからないのがSr笹川へのメッセージの内容です。

       主イエス・キリストの犠牲と復活によって私たちは救いを得ました。その救いは人類全てに及ぶものであり、例外はないと思います。

       その人類・人間を、父なる神が再度罰するということがあり得るのでしょうか?

       もしあるとしたら、それは神学的な矛盾になるような気がいたします。(M.T.)

 

先ず料理しやすそうなJ.K.さんのコメントから検討します。


秋田の聖母の涙

 

「まあ、木像が涙流しても、歌うたってもいいけどさ」

 

と、彼はあっさりいうけれど、これだって大変ですよね。科学的に説明不可能な、自然には絶対起こり得ないはずのことが実際に起きたとしたら-本当に自然の法則に反することだと言わざるを得ないことが確認されたら-それは一大事ですよ!

法律に例外を設けたり、「超法規的」 決定を下したりできるのは、その法律の立法者だけです。かつて、よど号ハイジャック事件と言うのがありました。JALがまだ旅客機を数機しか保有しておらず、一機一機に愛称がついていた頃の話です。日本の国の法律は国交のない北朝鮮に向けて離陸する許可を与える権限を認めていなかった。しかし時の福田総理は、「人命は地球より重い」 と言って人質の安全を考慮し、立法府の最高責任者の権限で、乗っ取り犯「赤軍派」ゲリラの要求を容れ、「超法規的措置」 として獄中の赤軍派幹部を釈放し、飛行機には乗っ取り犯の亡命先への離陸許可を与えた。


神の定めた物理法則で動く衝突銀河 Arp273


では、自然の法則の立法者は誰か。それは天地万物を無から創造し、自然法則の秩序の中に今も一瞬一瞬それを保ち続けている神ではないか。神が自然法則を一時停止したり、例外を設けることを望んだ結果として生じた事象を、人は「奇跡」と呼ぶ。奇跡があれば、人はそこに神の存在とその意志の介入を見る。神を信じない人、神の存在を認めたくない人は、当然奇跡を目の前にしてあらゆる弁を弄して人間の知恵でその事象を説明し切ろうとしてあがく。無駄な抵抗だ。しかし、謙遜な純朴な魂は素直に認めて神の前に跪く。

何が奇跡なものか、自分がそのペテンを暴いてやろうと自信満々でルルドに乗り込んだ筋金入りの無神論者、血管縫合と臓器移植でノーベル賞に輝くアレクシス・カレル博士が、そこで正真正銘の奇跡に出会い、無神論を捨てて神を信じた話は有名だ。中途半端に頭が良くて、偏見に満ちた傲慢な魂が一番手に負えない。

J.K.君はクリスチャンではないが、あっさりと神を認め、自然も人間も神が創ったことをも認めてくれているから話は早い。神が木の像に涙を流させることも、聾者の耳を突然開くことも、芳しい香りをばらまくことも、望めばなんでもできることを認めてくれるだろう。

その神が自分の被造物である人間に(不用意にもと言うべきか)神の内面的生命の秘密である 「理性と自由意思」 までも与えてしまった。これは「心を尽くしてあなたの神を愛しなさい」また「隣人を自分のように愛しなさい」と言う神の掟を守り実行する上で必要な能力ではあったが、それはまた、悪を行い罪を犯すことの出来る能力でもあるという点で、プロメテウスの火(注1)のように危険なものでもあった。

人間はこのプロメテウスの火を手に入れた上に、ご丁寧にもパンドーラの箱のふたまで開けてしまった(注2)。キリスト教的に言えば、アダムとエヴァの失楽園の物語に相当する。そして、危険な火遊びに夢中になり、欲望の赴くままに人を殺し、奪い、富を蓄え、弱い人・貧しい人をしいたげ、飽食と快楽に耽り、神を冒涜した。犠牲者たちの救済を求める苦しみの叫びは神の耳にまで届き、神の怒りは頂点に達した・・・と言うストーリーが描けるのだが、その天罰 (J.K.君の表現を借りれば 「復讐」 ) がマグニチュード9の地震であり、津波であり、原発のばらまいた放射能であるとすれば、その犠牲者の大部分が「無垢な善良な小さな魂たち」であったことを神はどう弁明するのか。巨悪の元凶の大悪人共はちゃっかり難を免れ、安全なところでご馳走を食べていて反省の色すらないのに、神はそれをよしとするのか。神の罰は彼らには及ばないか。そんなことって・・・。



箱を手にしたパンドーラ

この不条理を見ていると、

 

       神さんが人間に復讐してどうなるんじゃい!

       お前の創ったもんじゃろうが、

       創った者が責任とれ!ちゅうんじゃ

 

というJ.K.君の吐き捨てるようなセリフにはド迫力と説得力がある。私はそれをとか復讐と言うよりも、回心への招き、より恐ろしい決定的滅びを回避するための厳しい警告、神への回帰への呼びかけと取りたいのだが・・・

さて、ここで一気に私の反論、「神の弁護」に移らせていただきたいのでありますが、実は、過去に書いて、すぐに封印して現在は眠っている-いささか野心的な-ブログがあります。それがJ.K.君とM.T.さんの疑問に対するピッタリの答えだと思うので、エイヤッと思い切って開封しようかと思います。

そもそも封印した理由は、納得して書いたはいいが、すぐにカトリックの異端説として糾弾され、ひどい目に遇うかもしれないぞ、という心配と恐れがあったからです。いまでもその不安はぬぐいきれません。(だからおかしいとこがあったらどうかご指摘を。すぐに撤回して謝る用意あり。あくまで仮説ですから。自説に固執する気はさらさらありませんから。)

問題の幻のブログの題名は「ともに罪を犯してくださる神」です。いささか挑発的であることは承知しています。

こんな当たり前の話、どうして今まで語られてこなかったのか。それが単なる私の浅学菲才の無知から来るもので、先刻世の常識になっているのを私が知らなかっただけだったら「恥ずかしい!」と言って穴に入れば済む話ですが、過去に議論され、神学的に欠陥がある異端説としてとっくに退けられ葬られたものであったとしたら、今頃知らずに蒸し返すのはいささか「やばい」ぞ、と言う思いが強くしています。

しかし、ディスプレイの隅に目をやると、もう12ポイントでA4三枚分になっています。ここへ古いブログを貼り付けて続けたら、一回分としては長くなりすぎます。それで、気を持たせるようで恐縮ですが、もう一度念のために内容を点検して数日中にアップしたいと思うので、ちょっとお待ちください。乞うご期待!


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(注1) 「プロメテウスの火」 ギリシア神話においてプロメテウスが人類にもたらした火。強大でリスクの大きい科学技術の暗喩として用いられる。

プロメテウスは天界の火を盗んで人類にもたらした存在として知られる。ギリシア神話において、人間はプロメテウスから火を与えられて幸福になったかというと、あながちそうとは言えず、高度な文明と共に争いや苦難も持つようになったという。(上の話では、神が人間に理性と自由意思を与えたことに対応する。)

原子力は、しばしば「プロメテウスの火」に喩えられる。チェルノブイリや福島第一原発などで発生した原発事故のように、人間の力では制御できない高いリスクを持ち、制御しとおせたとしても、オンカロのように人間の尺度を越えた膨大な時間の管理が必要となる。そのような技術でありながら、発電という側面においては半ば欠かすことができない技術となっているからである。(「新語時事用語辞典」より)

 

(注2) 「パンドーラの箱」 プロメーテウスが天界から火を盗んで人類に与えた事に怒ったゼウスは、人類に災いをもたらすために「女性」というものを作るよう神々に命令したという。ヘーシオドス『仕事と日』によればヘーパイストスは泥から彼女の形をつくり、神々はあらゆる贈り物 (=パンドーラー) を与えた。アテーナーからは機織や女のすべき仕事の能力を、アプロディーテーからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは犬のように恥知らずで狡猾な心を与えられた。そして、神々は最後に彼女に決して開けてはいけないと言い含めて箱(壺ともいわれる 詳細は後述)を持たせ、エピメーテウスの元へ送り込んだ。ヘーシオドスは『神統記』においてもパンドーラーについて触れ、神々からつかわされた女というものがいかに男たちの災いとなっているか熱弁している。

美しいパンドーラーを見たエピメーテウスは、兄であるプロメーテウスの「ゼウスからの贈り物は受け取るな」という忠告にもかかわらず、彼女と結婚した。そして、ある日パンドーラーは好奇心に負けて箱を開いてしまう。すると、そこから様々な災い (エリスやニュクスの子供たち、疫病、悲嘆、欠乏、犯罪などなど) が飛び出した。しかし、「ελπις」(エルピス)のみは縁の下に残って出て行かず、パンドーラーはその箱を閉めてしまった。こうして世界には災厄が満ち人々は苦しむことになった。ヘーシオドスは、「かくてゼウスの御心からは逃れがたし」という難解な言葉をもってこの話を締めくくる。(Wikipedia より)(アダムとエヴァの失楽園物語に対応する。)

(つづく)

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