:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-3)

2013-01-14 09:18:03 | ★ 神学的省察

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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-3)

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実はいま私はアドリア海に面したポルト・サン・ジオルジオという保養地に来ています

夏は海水浴客で賑わうのですが 今は死んだように人気がなく 怪しい雲行きに海も荒れています

 

公園の鳥ー3


 ところで、複雑で重層的な歴史的事象を、教科書的・網羅的で単調な―従って無味乾燥な―記述に終わらせないで、最後まで読者を惹きつけていくためには、何かそれなりの工夫が必要になります。

 そのために敢えてする私の語り口には、当然賛否両論があることはよく承知して居ます。それはスタイルについても、内容についても言えるかもしれませんね。

 しかし、自分では、カトリックの「中道」の視点から大きく離れないようにとの配慮だけは欠かさないように心掛けてきたつもりです。だから、それがもし或るローカルな通念とどこかでずれるところが有る場合には、もしかしてそちらの方でも一応従来の立場を吟味し直す必要がありはしないかと、逆に問題を提起したいところです。


公園の鳥ー4


 さて、いささか古い話になりますが、私にはかつてプロテスタントの牧師さんに尊敬する伊藤義清(よしきよ)という兄貴分がいました。私より5~6才年上で、もう故人です。同志社の神学部出身で東京の日本基督教団の大きな教会の牧師をよい評判で長く勤めた人でした。

 あれは、時あたかもベトナム戦争最盛期のことです。

 べ平連キ政連(「キリスト者政治連盟」と言うプロテスタントとカトリックの左派連合)が合同で、当時パリに亡命していた政治囚釈放運動の旗手のグエン・ディン・ティ神父と、その同志の仏教の尼僧を日本に招待し、当時南ベトナムに大勢いた政治囚の悲惨な現状を訴え、その釈放を求める国際キャンペーンの全国講演ツアーが企画されました。

 義清さんが北海道から東京まで、東京で引き継いだあとは、沖縄まで二人の講師のボディーガードをするのが私、という役割分担でした。

 たった4年間に800万の人口の内200万から300万の人々が空しく消されていったカンボジア虐殺事件も異常でしたが、同じ頃、南ベトナムではアメリカの傀儡政権の下で、不当に逮捕され、裁判もなく、地面に掘られた大穴に何人も押し込まれ、何か訴えれば上から石灰の粉をばら撒かれるという悲惨な状態に、実に大勢の人たちが放置されていました。

 安全で何不自由ない生活を楽しんでいた日本でも、多感な若者たちの中には、その状況に無関心でいられないものが当時はまだ大勢いたのです。


 ティ神父の一行を無事パリに送り返した後、ご苦労さんとばかり、屋台で安い酒を飲みながら、義清さんと交わした会話が懐かしく思い出されます。

 酔った勢いで彼が「いやー、カトリックの神父さんは羨ましいね。口うるさい嫁さんに悩まされることもなく、子供の教育費の心配もなく、ひたすら読書や牧会(信者さんのケアー)に専念できるんだから。」と言うと、当時、上智大学の研究室の助手の職を追われ銀行マンの修行中だった私は、「そうですかねェ?私に言わせれば、カトリックの神父は実生活の苦労がないだけ人間的にどこか未熟で、ひとの悩みに対する十分な理解に欠ける者が多いのではないかと思うのですがね」と返しました。

 その後55歳で神父になって、さらに20年近く時を経た今ふり返って、ああ、あの頃はお互いにて「隣の芝生」が青く見えていたのだな、と懐かしく思い出に耽っていると、

谷口くん

カソリックがプロテスタント化して

プロテスタントがカソリック化しても

ともにキリスト教

コップの中の嵐だ!


 と、いつもの辛口の J.K. 君から鋭い突っ込みが飛んできました。深い真実を衝かれた私は、「友よ、あっぱれ!」と、むしろ痛快な気分になりました。

 元々カトリックとプロテスタントがあったわけではありません。あったのはキリスト教でした。西ヨーロッパのキリスト教の一部(半分ぐらい)が16世紀に自分たちの主張を掲げてプロテスタント教会を作って出ていったから、残りの部分が受け身的にカトリックの名のもとに区別性を明確にしたまでのことではないですか。

 そう言えば、11世紀に東西にキリスト教が分裂した時も、相互破門だ、破門を解いたのと、どたばたした挙句の果てに、結局分裂は歴史のなかにそのまま残ったのでした。

 「あっち向いて、ホイ!」というやや乱暴な(しかし、心理的にはピッタリだな、と今もって自画自賛している)表現で象徴されるように、プロテスタント教会がいくつかの点で突出して「左」(と仮に言いましょうか)に動いた結果、カトリックがそれに反発して現状に固執し、むしろ反作用として以前よりもいっそう「右」に動いたと面が確かにあったと思われます。

 当時、プロテスタントの教会が提起した点の中に、本来カトリック教会が評価し取り入れるべきだったはずのものはなかったのか、また、反動でカトリックが固執した点にも、あらためて再評価すべきものがあるのではないか、と言うことがいま問われるべきではないでしょうか。

 そもそも、プロテスタントが言う「万人司祭」とか、カトリックがあらためて言う「信徒の王的司祭職」のもともとの意味は何だったのでしょうか。

 それは、キリスト・イエスが弟子たちに託した使命の総体、つまり「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」という使命ではなかったのでしょうか。

 この使命に目覚め、それを妻帯者信徒の手で積極的に展開したのは、確かにプロテスタント教会の大きな功績だったというべきでしょう。その反動で、カトリック教会はフランシスコ・ザビエル型の独身聖職者主導の宣教に特化していったのも、歴史的現実でした。
それが、第二バチカン公会議以降大きく方向転換し、「信徒使徒職」と言う言葉で、プロテスタント教会の功績を追認し、カトリック独自に方向性の模索を開始したのでした。

 プロテスタント教会が改革を急ぐあまり置き忘れた、或いは意図的に切り捨てた独身聖職者の存在価値を大切に護ったのは、カトリック側の大きな功績であり、それは今後も堅持されるべきものであるはずなのに、現代の世俗主義の蔓延の前に、司祭職への召命の激減で残念ながらその存在は危機に瀕しています。

 私が「カトリックの急速なプロテスタント化」として注目し、評価したいのは、この公会議後に花開いた「信徒使徒職」の一環としての「信徒の手による新しい福音化」であり、それは今や「世俗化」の波の前に同様に停滞を余儀なくされているプロテスタント教会の「宣教」の現状を大きく凌ぐエネルギーを秘めている点です。 

次回は、その具体的な現実を紹介して、このテーマを終えたいと思います。


 そう言ってそそくさと舞台の袖に引っ込んで、フーッと息を吐いて、額の冷や汗を拭いている自分がいます。止せばいいのにまた性懲りもなく面倒な問題に首を突っ込んだものだ、と言うのが正直なところです。

 これはまさにパンドラの箱です。一旦蓋を開いてしまったら、魑魅魍魎(ちみもうりょう)が一斉に飛び出して収拾がつかなくなるところでした。宗教改革、反宗教改革の全体像は、そもそも浅学菲才の私の手に負えるテーマではありません。

 ですから、次回は最初から言いたかった一点だけを簡潔に展開してさっさと幕引きといたしましょう。


(つづく)

 

コメント (1)
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