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急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-4)
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このテーマ
今回限りで何とかお茶を濁そうという気に 一度はなったのですが
(その-1) に次いで (その-3) のアクセス数が 予想外に伸びたこともあって
このままでは何だか無責任な気がしてきて また敢えて深みに嵌ろうとしています
先ず 経過を振り返ります
ねェ この写真賞味期限切れてません? つまり実物はもっと老けてませんか?
その通り 看板にに偽りありです!(影の声)
公園の鳥-1
この一連のブログのテーマの(その-1)では、司祭不足から、カトリックの礼拝が司祭抜きの―したがって「秘跡」抜きの―「聖書中心」の礼拝に傾いたことを書きました。それはまさに文字通りカトリックのプロテスタント化の典型でした。
(その-2)では、司祭が独身であることは、キリストとその弟子たちの時代にも、初代教会の中にも、その決定的な根拠はなく、東西のキリスト教の伝統の中では西側だけに芽生え発達したもので、それも11世紀ごろに人為的に導入され、特に厳格に行われるようになったのはプロテスタント教会の改革の反動として高々この400年余りのことに過ぎないことを書きました。
しかし、カトリック教会は半世紀前に第2バチカン公会議の大改革を行った際に、司祭の独身制を廃してプロテスタント化することはなかったとも書いたため、私の論旨は歯切れが悪く混乱しているような印象を与えたかもしれません。
(その-3)では、「義清さん」の思い出を書きました。
私個人としては、若い学生の頃から司祭職に対する召命を感じ、一旦はイエズス会の修練院まで行ったこともありましたが、教会の歴史を知れば知るほどカトリック教会の絶対的な司祭独身制度に疑問を抱いたことがありました。しかし、神様の不思議な導きで司祭にして頂いて10数年が経過した今、自分自身の体験を通して司祭独身制の希少な価値を再発見しつつあります。
そして、今日カトリックの自称進歩派(左派)の中に司祭の独身制の廃止論者が(高位聖職者を含めて)少なくない中で、教皇以下カトリック教会の本流が、今なお司祭の独身制を堅持しようとしていることに対して、共感と理解を持つのみならず、その妥当性に対して強い確信を抱くに至っています。
公園の鳥-2
キリストが説き、弟子たちに種として残したものは、長い教会の歴史を通して芽生え、育ち、発展しながら、新しい実を結んでいくもののようです。たとえば、キリスト教の基本的教義でさえも、聖母マリアの教会の中における位置づけのように、初代教会からその芽はあったとは言え、聖母マリアへの「信心」を棄てたプロテスタント教会の改革に対抗して開かれたトリエントの公会議の時でさえも、教会はまだ明確な教義化をためらっていて、1854年になってようやく「聖母マリアの無原罪の御宿り」を教義として確定した例がありました。
教義でさえそうであるならば、初代教会に包括的に種子として与えられた「宣教の使命」が歴史の展開の中で自然に育ち、分化し、開花し、ようやく今日になって実を結ぶことがあっても不思議ではありません。
種子として蒔かれた「宣教の使命」は、洗礼を受けた全てのキリスト者の使命でありながら、時代の流れの中でその内容は分化し、成長し、次第に特化していくのは自然なことではないでしょうか。社会と文化の発展に添って、宣教の使命も信徒の間で分業と協力によってより豊かに効果的になることも考えられます。
冷静に考えると、プロテスタント改革の頃から、西側の教会では、宣教の第一線で全面展開する信徒(プロテスタント化)と、それを独身司祭にこそ委ねようとする動き(カトリックの反動的反応)への分化が明確になっていったのではなかったでしょうか。
グレゴリアーナ大学のロサト教授はそれを人間の細胞に例えた話は、だいぶ以前に書いたブログ「ロサト教授は誤りを教えたか」の中で詳しく展開しましたので参照していただきたいと思いますが、短く要約すると、細胞膜の中の細胞質は中心の核を包んで護り栄養を与え、その代わりに核は細胞質に生命を与え、こうして支え合って有機体として生き続け、宣教の使命を果たしていくことができるという考え方です。
世俗化し教会に対して敵対的となった社会の中では、「万人司祭」を掲げて信徒だけで宣教の使命に取り組もうとしても、命の情報を保持する独身司祭を失っては、生き抜けない厳しい状況が生まれています。現代の世俗化した社会の中では、プロテスタントの教会もカトリック同様に守勢に立ち、後退している事実がそれを物語っています。
他方では、核に例えられる独身司祭が裸で孤独に宣教に打って出ても、細胞質に例えられる信徒の家族に包まれ、守られなければ、枯渇して死滅するほかはありませんでした。今カトリック教会が緩やかな自然死に向って突き進んでいるのはそのためです。
宣教の使命は核のものか、細胞質のものか、プロテスタントか、カトリックか、とコップの中の嵐のような議論をいつまで続けていても、コップの外に飛び出して世俗化した社会に福音を宣べ伝えるために打って出る活力は生まれてこないというものです。
そのような反省に立ってキリスト教の置かれている状況を見直すとき、何が浮かび上がり、どういう展望が開けてくるのでしょうか。次回はその点を明らかにして、今度こそこのテーマを締めくくりたいと思います。
(つづく)