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異邦人への宣教 = コップの外へ飛び出そう!
急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-5)
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身辺いささか忙しくなって ブログの更新が思うに任せません
一息ついて ホッとされた向きもあるでしょう
朝霧のポルト・サン・ジオルジオ風景
いまカトリック教会が司祭の独身制を廃止したら、どれだけの司祭が、結婚に走るでしょうか?司祭の平均年齢が高く、結婚適齢期をとっくに過ぎている者がほとんどですから、多分意外に少ないのでは・・・・。
では、司祭に結婚を認めたら、急に司祭のなり手が増えるでしょうか。それも大いに疑問です。なにせ、司祭の給料は生活保護並みか、それ以下ですから。
ローマの司祭の基本給は―驚くなかれ―確か月に800ユーロ(約8万円)と聞きました。私が在籍する高松教区では、ローマに来る前の時点で11万円ではなかったでしょうか。他に才覚に応じてフリンジベネフィット(付帯的利得)があり得るとしても、これではとても結婚できないし、まして子供を大学までやるなんてとんでもありません。
私はプロテスタントの牧師さんの平均的収入がどれぐらいか全く見当がつきませんが、結婚して子育てが成り立っているからには、カトリックよりはずっとましなはずでしょう。その向こうを張って、もしカトリック司祭の給料をプロテスタント並みに引き上げたら、世界中の司教区と、総本山バチカンの財政は、一気に破綻するかもしれません(笑)。
リド・ディ・フェルモ 冬だというのに 海辺に小春日和の太陽が
プロテスタントの信者さんは、牧師一家を養う負担が重いと陰では愚痴をこぼしながらでも、それが信仰共同体存続に不可欠な条件だと初めから覚悟しているからいいですが、カトリックの信者は、独身司祭は教会制度が養うものと考えているので、司祭が結婚することになったから、奥さんと子供たちの生活費をあなた達で負担しなさいと突然言われたら、みんなびっくりして教会を離れるかもしれません。
お寺さんでも、牧師さんでも、神父さんでも、いわゆる「聖職」を、食べていくための(ましてや家族を養い、財をなし、地位と名誉を手に入れるための)手段と考えるなら、世俗化した今の社会では、これほど展望のない割の合わない職業はまたとないでしょう。
そもそも、聖職は世俗の職業と同じではありません。キリストの弟子たちは、キリストに呼ばれたから、全てを棄ててキリストのあとにつき従ったのでした。これは神に選ばれた者が従うべき「召命」(ヴォケーション)なのです。
浜辺に出た カモメがひと群れ 羽を休めていた
「食欲」と「性欲」は動物である人間に、「個体」と「種」の生命の維持を保証する最も根源的な本能です。カトリック教会はこの人間にとって根源的で自然で健康な本能を抑制し、それを断念する生き方を、神様の召命に答えて教会の普遍的な「宣教の使命」に生きる条件として制度化したのです。だから、そんな不自然なことはとても無理ではないか、と考える人がいても不思議ではありません。しかし、神父になって18年、神学生時代を入れるとローマに住んで13-4年、世界のカトリック教会事情を内側からクールに見据えてきた私は、司祭の独身生活が心配したほど不自然ではなく、また思ったほど偽善的でもないという点に確信を持つようになりました。
それは、神様がある特別な召命を与えた者に対しては、それを生きるために必要な特別なカリスマと恵みと力を一緒に与えて下さる、という事実を目の当たりにしているからです。
人間の弱さ不完全さからくる葛藤や逸脱の問題は最後まで残りますが、召命の道を誠実に生きようと日々精進する司祭たちには、キリストの「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11章3節)と言う言葉にもあるように、外から見ると不自然で不可能のように思われることも、神の与えられる豊かな恵みと力に支えられて可能になるものだということを納得しました。
もちろんこれは、ご自分の愛をもって宇宙万物を無から創造し、それを今も日々存在界の中に支え導いておられる「生ける神」が実在するという信仰を前提としての話です。神を信じない人にはいくら説明しても、どの道わからないことかもしれません。
潮風が頬に優しい リド・ディ・フェルモ
先日、成人式の日にこんなコメントが届きました。
谷口神父様
コップを飛び出すパワーを ・・・
どうすればよいのですかね
成人式 着物姿に 大雪 ままならぬもの
(T. Y.)
今問われているのはまさにそのことです。
「世俗主義」とは、神聖なもの、超越的なもの、一言で言えば「神」の存在を否定し、「神無き社会」、「神に敵対的な世界」を築こうとする立場です。
しかも、ここで言う「神」は神話の神々や迷信的神々ではなく、ユダヤ教・キリスト教の系譜が信じる宇宙万物を無から創造した唯一の「愛である生ける神」です。そして、それを否定し、この世の支配者である「お金」を神として拝む「拝金主義」の支配する社会を築こうとするのが「世俗主義」です。それは、私がリーマン時代に奴隷として仕え、今はそれから逃れた「マンモンの神」、愛の神から人間を引き離し滅ぼそうという強烈な意志を持ったもう一つの「生ける神」、が勝利する社会です。
潮の退いたあとには 砂の上に石ころや 貝殻が
私のグレゴリアーナ大学の先生ロサト教授は、宣教する教会の姿を生きた細胞に例えました。
仮に「世俗主義的社会」の只中に「教会共同体」という生きた「細胞」があるとしましょう。細胞は細胞膜を通して、外界(社会)から必要なものを摂取し、不要な老廃物を吐きだします。細胞膜の内側の細胞質は核を養い、核はDNAの生命情報を護って細胞の命を支えます。
16世紀、中世から近世へ時代が大きく変わろうとしていた時、キリスト教の聖職者が聖俗のあらゆる分野で支配的な力を握ったいわゆる「クレリカリズム」(聖職者主義)の弊害に対する反動として、プロテスタンティズムは信徒である「細胞質」を重視するあまり、細胞から「核」である司祭を抜き取り廃棄してしまったというイメージは、歴史的現実をうまく言い当てているでしょうか。
プロテスタントが抜けたあとのヨーロッパの教会は、その後カトリックとして、宣教の使命をもっぱら聖職者に委ねて今日まで及んだのも、これまた歴史の現実でした。
これら二つの現実は、その後4世紀余りにわたり平行して競い合って(コップの中の嵐を演じて)きたのですが、気が付いたらコップの外の世界では、特にこの半世紀ほどの間に、キリスト教的価値観に正面から敵対する「神無き」世俗主義が台頭し、その前に両者はいずれも全く歯が立たなくなって後退に次ぐ後退を重ねていました。
・ ・ ・ ・ ・ 小石と 貝殻と ・ ・ ・ ・ ・
この危機の時代にカトリック教会内に新たに登場したのが、第二バチカン公会議の落とし子のような新しいカリスマたちです。
ロサト教授のわかりやすい例に戻れば、カトリックの特性とプロテスタントの特性のプラスの部分を合体させた強力な宣教の方法論がそれです。プロテスタント型の「万民司祭」、つまり全信徒が宣教の第一線に立つ細胞質の中に、カトリック型の「独身司祭」の司る秘跡が入って、内側から活力を与えるかたちです。
具体的には、細胞質である家庭を営む信徒のグループに、「秘跡」を持って命と活力を与える「核」の役を果たす独身司祭を挿入してアメーバ―のように強靭な生きた細胞を形成するのです。
これは、教皇ヨハネパウロ2世の時代に始まり、現教皇ベネディクト16世が継承している「異邦人への宣教」(ミッシオ・アド・ジェンテス=Missio ad Gentes)です。オランダや北欧、ドイツやフランスなど、元カトリックであったり、プロテスタントであった地域が、世俗化の津波に襲われて精神的廃墟となり、キリスト教が完全に消え失せてすっかり「異邦人」の世界と化したところに、子沢山の宣教家族数組と一人の独身司祭が一つのユニット、生命力のある自己完結型の有機的細胞としてパラシュートダウンしてその町に定着し、宣教に打って出る。この大人の背丈に達した信仰集団には、世俗主義の毒素に犯されない信仰的免疫力があって、世俗化した社会に福音の光を灯し、キリストの赦しと愛を宣べ伝えながら広まっていくエネルギーを備えています。
そこで宣教活動のイニシャティブを取るのは信徒のチームであり、司祭は専ら秘跡と祭儀を受け持ちながら、信徒の指揮と指導の下に服し、専ら信徒の精神的一致と霊的向上に資するように努めます。
世俗主義の攻勢をはね返して効果的に福音を宣べ伝えるためには、必要なら殉教も辞さない決意を持った、そのような強固な信徒集団の仕組みが必要なのではないでしょうか。
(おしまい)