:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ マドリッド=トーマス・ハヌスとの出会い

2015-03-25 16:04:40 | ★ シンフォニー 《日本ツアー》

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マドリッド = トーマス・ハヌスとの出会い

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キコは私をマドリッドに呼んだ。日本ツアーの骨格について話し合うためだ。

朝食のためマドリッドのホテルのロビーに降りると、どこかで見たような顔とすれ違った。ひょっとして写真だけで知っているあの人?と思って「失礼ですが、トーマス・ハヌスさんではありませんか?」と声をかけたのが最初の出会いだった。

眼鏡をとってカメラを意識してポーズをする彼の写真はキザな奴という感じがしたが、実物ははるかに温かみがあった

「そうですが・・・?」という返事を待つのももどかしく、手を差し伸べて握手を求め、「ジョン谷口神父です。東京であなたが指揮するキコのシンフォニー《罪のない人々の苦しみ》のマネジメントをします。お会いできてよかった!」

偶然、同じ階の近くに部屋を与えられ、リハーサルと本番のあいだ、ずっと一緒だったので、すっかり親しくなり、友情のようなものが芽生えた。彼は、妻と7人の子供と一緒だった。

ハヌス一家のフルメンバー

まめまめしく子供たちの世話をする時のトーマスには子煩悩の言葉がピッタリだった

 

彼はバスの移動の間に身の上話をしてくれた。

母親は敬虔なユダヤ教徒。ユダヤ教徒として育てた一人息子のトーマスがカトリックに改宗したことは、彼女にとって大変なショックだった。1700年以上にわたるキリスト教徒によるユダヤ人迫害(アンチセミティズム)はユダヤ教徒とキリスト教徒の間に越えがたい深い不幸な溝を刻み、ユダヤ人にとってキリスト教に改宗することは民族同朋への赦しがたい裏切り行為を意味していた。

彼の母と、母の兄、妹はナチスによるチェコの有名なテレジン強制収容所に捕らえられ、アウシュヴィッツ送りを待っていた。

 

 テレジン収容所の入り口のスローガン「働けば自由になれる」何という欺瞞だろう。だが、この収容所は殺人工場への中間施設で、子供たちには自主的な学校があり、オーケストラも合唱団もあって、まだ人間の尊厳が最低限確保されていたと言えるのかもしれない。下は子供たちの描いた絵。

 

 

1930年生まれのユダヤ人の女がすべてアウシュヴィッツに送られることになった時、トーマスの祖母は娘の出生年を故意か誤りか、1年ずらして届け出ていたために、テレジンに残されて一命を取りとめた。母の兄と妹はアウシュヴィッツ強制収容所送りを免れなかったが、兄は強制労働への行進中、疲労で昏倒し立てなくなった。隣の男もほとんど同時に倒れて動かなくなった。そんな場合、監視のSSは拳銃を取り出し、その場で射殺して行進を続けるのだが、一人は即死、兄は弾がそれて死を免れたのにSSは彼の死亡を確認しないまま行進を続けた。死体のそばにじっと倒れたまま動かなかった兄は、足音が遠ざかったのを確かめてから近隣の村に逃げ込み、解放の日まで身を隠して助かった。一方、母の妹は踊り子だった。一人のナチスのSSの妻がたまたま大の踊り好きで、彼女に目を止め、踊って楽しませる奴隷として彼女を囲い、ガス室行きから除外した。こうして母とその兄妹の3人はアウシュヴィッツ強制収容所でのガス死から辛くも免れることが出来た。母が殺されていたら、私も、私の7人の子供たちも、この世に生まれてくることはなかった、と彼はしみじみと言った。「アウシュヴィッツの《罪のない人々の苦しみ》はトーマスにとって、今もって他人事ではないのだ。

さて、音楽の勉強で頭角を現した彼は、ある日、心の中に聖職(神父)への召命を感じた。しかし、決定的一歩を踏み出すことためらっていた。キリスト教に改宗しただけで母親に大きなショックを与えた。一人っ子の彼が、母親を捨てて聖職への道に走ったらどれほどの打撃を与えることになるだろうかを思うだけで足がすくんだ。音楽への思いも断ちがたかった。それなのに、聖職への召命感も強かった。

神のみ旨が何れにあるかを識別するために、彼は一年間音楽の勉強を中断し、ポーランドの黒のマドンナの聖地=チェストコーバ=で祈りと奉仕の生活に没入した。彼自身、改宗後もキリスト教徒の根深い反ユダヤ主義とまだ十分和解しかねていた。彼はそこで神に印を求めた。やがて、キコの音楽の中にユダヤ教とキリスト教の和解と一致への希望を見出し、納得した。そして、音楽の道に進むことを自由に選び、心晴れて学校に戻った。音楽大学の同僚は、出戻りの彼を冷やかに迎えたが、彼はくじけず好成績で卒業した。

 

一通りの話が終わると、私も曲折の多かった自分の人生のあらましを話し、互いの数奇な運命を分かち合い、肩を抱き合った。

ホテルでの短い共棲の中で、トーマスの優しい父親としてのプライバシーを垣間見ることが出来たのはよかった。

指揮者としては、一切妥協しない烈しいリハーサル風景に、また完成度の高い本番に、私はキコの作曲したシンフォニー「罪のない人々の苦しみ」が全く新しい命を吹き込まれたのを感じた。

 

 

 

彼は私に来年の5月7日のサントリーホールでは必ず棒を振ると約束してくれた。

彼は指揮者としてデビューして以来、実はすでに数回にわたり日本で演奏している。来年も2月28日から3月11日まで、新国立劇場で同劇場のオーケストラと合唱団によるヤナチェックの新曲「ジュネファ」を指揮することがすでに決まっている。そのあと、一旦日本を離れるが、5月1日から再度来日して、キコのシンフォニーのリハーサルと本番に備える。

今回のマドリッドの本番はじつに大がかりなものだった。1万2000人収容のスタジアムの舞台の死角になる席を除いて、残りの約8割がふさがったところから割り出して、7500~8000人の入りと見て取れた。

スタジアムの傾斜に合わせて仮設席スタンドがせり出し、フィールドには椅子が並べられた

舞台に無数に立てられたマイクのミキサーはフィールドの最奥にあった

頭上には巨大スピーカーが二対(4個)吊り下げられスタンドの奥まで音を届ける

スタンドは舞台裏を除く3方がぎっしり最上段まで人で埋まった

今回の編成はオーケストラとコーラス合わせて150人ほどの小型だったが・・・ 

マドリッド教区の新しい大司教を迎えた、シンフォニー「罪のない人々の苦しみ」の演奏の夕べであった。キコのオーケストラとコーラスからトーマスが紡ぎだす音楽は、聴く人の心をしっかりと捉えた。東京公演が本当に楽しみになってきた。

(つづく)

コメント (1)
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