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2016年 (WYD) モスクワの文学巡礼
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フヨードル・ドストエフスキー
長時間のバスの移動に耐え、夜は床の上に寝袋で寝る。若者向けの過酷な巡礼は3年前のリオの世界青年大会(WYD)を最後と心に決めていた。
それなのに、ポーランドで開かれる今年のWYDには、ロシアのモスクワとその周辺も巡礼のコースに含まれると聞いて、76歳の心がまた動いた。
モスクワと言えば、ソ連崩壊前夜に「日ソ円卓会議」の正式メンバーとして何度か訪れたことのある懐かしい場所。新生ロシアが今どんな状況か、強く興味をそそられるものがあった。
若者81人からなる日本グループより2日早く成田を発った。本隊を待つ束の間のモスクワの休日は、一人で文学巡礼としゃれこんだ。私はなぜかロシア語のアルファベットが読める。地下鉄の駅名、街の通りの名前が発音できるので、地図があれば一人で地下鉄を乗り継いで、街を歩けるのだ。
ドストエフスキーの家を訪れた。次いでトルストイの住んだ家も訪ねた。入り口で200ルーブルずつ払って写真撮り放題の許可証を首から下げ、それぞれ200枚余り撮ったが、前のブログに述べた通り、数日後ポーランドの盗難騒ぎでカメラとパソコンと共に貴重な画像をすべて失ってしまった。
レフ・トルストイ
プーシキン美術館は彼の生家とは関係がないが、とても見ごたえのある絵画・彫刻の一大コレクションだった。特にミロのヴィーナスやロゼッタストーン、バチカンのラオコーンなど、世界中の逸品の多くの精密なコピーがそろっているのが教育的に思えた。
アレクサンドル・S・プーシキン
美術館の近くには、キリスト降誕2000年に再建されたロシア最大の大聖堂「救世主キリスト」(ハリストス)教会があった。19世紀末に建てられた大聖堂はスターリンの命により爆破されたが、ソ連崩壊後に再建が進められたものだ。高さ103メートルはバチカンの聖ペトロ大聖堂のドームにわずかに及ばないが、1万人が礼拝できる新聖堂はロシア正教会の中心的存在だ。その内部の壮麗さもさることながら、延々と続く儀式の中で途切れることなく流れる音楽が素晴らしかった。ロシア正教ではパイプオルガンを使わない。その他の楽器も一切使わない。混声ポリフォニーの美しくも荘厳なコーラスの響きを専らとする。私はその天上の音楽を1時間ほど聞いてなお飽きなかった。
革命前の救世主キリスト大聖堂 スターリンにより爆破される大聖堂
16年前に再建されたばかりの救世主キリスト(ハリストス)大聖堂
モスクワ川の遊覧船の旅もロマンチックだった。
私が乗ったのはもう少し小型で船上のデッキで風にあたれた
夜は、かつてグルジア共和国のトビリシで見たダンスが懐かしく、ロシア各地の民族舞踊を楽しめるフォルクローレを見たいと思ってホテルのコンシエージュに助言を求めた。やっているのはホテルコスモス付属の劇場だけということだった。ホテルコスモスと言えば、ソ連がモスクワオリンピックに向けてアメリカの技術者を入れて国威をかけて建設した豪華な巨大ホテル。日ソ円卓会議の宿舎として私も泊まった懐かしい場所だった。しかし、あいにくその夜は既に満席だった。それならボリショイサーカスは、と訊いたが、そこもその夜は席が取れなかった。
」
1980年前後、ソ連の末期に「日ソ円卓会議」がモスクワと東京で交互に開催された時期があった。北方領土問題は今もって解決されていないが、そのために「日ソ平和友好条約」が締結されていないことは、両国の経済・文化交流にとって何かと不都合が多い。その不利益を少しでも減らすために、民間の任意の企画を装って、両国政府は「日ソ円卓会議」なるものを開催した。ソ連側は露骨に政府機関が全面に出てくるし、日本側も自民党から社会党までほとんど全会派が相乗りし、政治、経済、文化、スポーツ、映画、宗教、etc. およそ考えうるあらゆる分野が日ソのパイプを求め、利益を期待して群がっていた。当時、日本側の団長は自民党の禿げ頭の桜内幹事長が務め、事務局は親ソ派の社会党が固めるという節操のない相乗りだった。宗教の分科会についていえば、ソ連側はロシア正教会のモスクワ総主教以下が前面に出て、日本側は伝統仏教の大宗派、天理教や立正佼成会などの新宗教各派、キリスト教もプロテスタント教派のほとんどが相乗りしていた。ところ日本のカトリック教会は参加していなかった。どうやら日本のカトリックは、ロシア革命のときアメリカに亡命したロシア正教会と外交関係があって、モスクワのロシア正教会とは切れているというのが理由のようだった。
しかし、宗教業界最大手のカトリックさんが参加しないのでは「臥竜点睛を欠く」ということになったらしい。そこで、当時それなりに人権問題の共闘を通じて日本社会党国際局長の川上民雄議員や土井たか子女史など社会党系のプロテスタント議員の側近に顔を知られていた国際金融マンの私に白羽の矢が当たり、ある日突然正式招待状とモスクワ行きのアエロフロートファーストクラスのチケットが送られてくる羽目になったのだった。
この手の国際会議には、公式日程のあとに、お楽しみの接待観光ツアーがつきものだ。おかげで、ある年はロシア正教の大修道院のあるザゴルスクへ、別の年にはレニングラードへ、またウクライナのキエフへ、コーカサスのトビリシへ、とお殿様ツアーに参加する役得があった。
当時の体験で脳裏に焼き付いている数々のエピソードから、一つだけ紹介してこのブログを締めくくろう。
円卓会議がまだ会期中のことだった。川上民雄議員の秘書譲とつるんで、共産主義下のソ連の庶民のありのままの生活を見に行こうということで意気投合した。セッションの間隙をぬって長距離バスターミナルに行った。
行先はどこでもよかった。ただモスクワの市街地を抜けて普段着のロシア人の生活に触れてみたかっただけだった。確か冬だったような気がする。バスの窓の外は十数階建てのアパート群はやがて姿を消し、白樺の林が続く郊外は寂しく憂鬱そうだった。車窓の景色に見とれる若い恋人たちのようにも見える日本人カップルのおしゃべり姿を、乗客たちは無表情に眺めながら押し黙っていた。時々村に差し掛かるとバス停では人が乗り降りをする。モスクワ市内のアパートは全て国営で、土地と建物の私有は認められていないが、田舎の木造平屋建ての小さな傾いた小家は私有物だろうか。あっという間に1時間以上も走っただろうか。突然最後部の座席から銃を担いだ若い兵士が現れた。曰く。事前に許可を取っていない外国人はモスクワから60キロ以遠に行くことを許されていない。次の停留所で降りてまっすぐ引き返すか、或いは…(ご同行戴いて収監されたいか・・・)という意味だろう。きれいな英語であくまで慇懃な口調だが、一歩も退かない断固たる響きがあった。
そうか、表向きは国賓のように丁重にもてなされていても、私たちは常に監視され、ホテルを出れば尾行されていたのだ。日本の政府の保護が届かない、ここは共産主義社会のど真ん中だった。上気した旅の気分は一度に冷めた。言われるままにホテルに帰って、ウオッカを生であおって気分直しをした。
2016年のモスクワを当時と比べれば、まさに夏と冬の違いだった。
だが待てよ、外国人旅行者に監視や尾行が付きまとっていた共産主義下のソ連・東欧では、カメラやパソコンの置き引きが横行していただろうか。これも自由の代償か、と思うと被害者としては何とも複雑な思いがする。現に、自由なローマなどは東欧よりはるかに物騒ではないか。(盗難騒ぎについては、前のブログ「あなたは天使を見たか」の後半に詳しく書いたので、見落とした方は改めてお読みください。)
(つづく)