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日本人の死因の第1位はやはり癌ではなかった!
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前回のブログは予想通り大きな反響を呼んだ。特に、ご婦人方からの反響には重いものがあった。その一部を投稿者の了解を得て、匿名で紹介する。
まず、Aさんより:
谷口 幸紀 神父様
このたびのブログ、ずっしりとこたえました。
「沈黙」どころではありません。
これこそが日本で日常のなかで行われている殺人です。
マザーテレサは「母が胎内の子を殺すなら、どうして世界から戦争がなくなるでしょう?」とおっしゃったそうです。
私の知人は、ある病院で看護教育を受けたのですが、実習先の保健所長から、もう立派に体ができている赤ちゃんの頭と手足を切り離して母の体から引っ張り出す話は聞きました。(法律で)殺人に問われないギリギリの月齢までに行うのだそうです。
昨今、むごい殺人がたくさん報じられますが、私は、闇の中で日常的に行われたことが、たまたま明るみに出たにすぎない、ということではないかと思っています。
Bさんの証言:
(病院で)働きだしてから、先輩や同僚が、罪の意識は表現せずに中絶した体験を語るのを聞きました。ひとのいのちを守る仕事をしながら、胎内の子は殺す?私は、それこそが「精神分裂」だと感じました。でも親の生活を脅かす子は殺すのが普通でした。
そして、「それは人殺しじゃないの?」という問いかけは公にも、友人にもしていません。(それは日本の社会ではタブーのようです。)
私自身、7回妊娠したうち2回、仕事を優先して無理したために流産してしまいました。殺したのでなく、死なせたのだと思っています。その子らは、ほんの小さな状態でしたので庭に埋めました。
その後、40代半ばに入って双子を妊娠中、まわりに「もう無理だからやめなさい」と言う人がいましたが、やめるってどういうことよ?とけんかして1年間絶交しました。その子たちは元気に生まれ、6人とももう成人しました。
聞くところによると、ある大手の新宗教の団体では、水子、つまり生まれられなかった子供のために熱心に祈るので、婦人の信者さんが多いそうです。その祈りはきっと切なるものでしょう。
キリスト教の教会にも体験者はおられるでしょうが、そういうことにはふれません。人の傷に塩をぬることになるからでしょうか?(それとも、キリスト教徒は人を殺さない建前なので、言えないのでしょうか?)
さり気ない上の証言には限りない重さがある。さて、次はCさんの投稿:
谷口様
私のコメントが何かお役にたてれば幸いです。
戦争で亡くなる人数どころではない数の命が殺されている、この問題は地雷原みたいで、一歩踏み入れると自分の手足が吹っ飛ぶことになるかもしれませんが・・・。だれも自分の罪と向き合いたくはないでしょう。
知人の両親は五島のキリシタンの末裔で、赤貧の中で11人の子を育てました。親にできたのは中学校卒業までで、あとは社会に放り出す。この、赤貧に耐えるのが現代ではむずかしいのですね。経済的理由が、中絶の許可条件になるのです。(C子)
こうした一連の証言から見えてくるものは何か?
病死や、老衰や、事故や、自殺の場合は、医師の死亡証明書が発行され、火葬が行われるから、その実数を積算した統計の誤差は極めて小さいと考えていい。それに対して、Aさんがそっと庭に埋めた自然流産の子の例のように、堕胎の場合にも、どこにも届け出られず、闇に葬られ、統計の中に数えられないケースが圧倒的に多いのではないかと思われる。
前のブログで紹介したバッカさんの場合は、堕胎された胎児は、7~8週の極めて小さいものでも、一体分ずつガラスのシリンダーに入れて業者に渡し、死者として荼毘に付していたようだから、役所に報告が上がっているかもしれない。しかし、下の写真の場合のように、何体分も雑然と黒いビニールの袋に詰めて一般廃棄物として闇から闇に処分されていくものの数も決して少なくないのではないと思われるが、それらは統計には全く反映されないのではないだろうか。堕胎の実数を正確に言い当てることは出来ないが、調べているうちに、統計の数字は氷山の一角にすぎず、闇に葬られた命ははるかに多いらしいことだけは、はっきりと見えてきた。
建前としては、12週以上の死胎は、墓地埋葬法に規定する「死体」として火葬・埋葬すべきことが定められているが、産婦人科がそれを黒いビニール袋に入れて「一般廃棄物(不燃ごみ)として中絶胎児を処分する」例も少なくないのではないだろうか。
裕福で教養も分別もあるはずの40代の奥様方が密かに堕す子供の数(それは妊娠件数の約半数に迫る)も内密、匿名で処理されれば統計の中には現れにくいのではないか。
長年ずっと日本人の死因の第1位の座にあった堕胎が、今や、癌に1位を譲って2位に転落したと言うのは、あくまでも統計上の話に過ぎず、胎児を人間の命として堕胎から守ろうする視点から見ると、日本での中絶は1日に約2000人と推定されると言う(命を守る親の会)。
科学学術誌「Nature」は、「1996年(平成8年)の日本での中絶件数を年間41万件と公式に報告されているが、実際はその3倍程度(120万人以上)の件数と推測される」と報告したという。
1999年6月17日に日本でもピルが解禁された。その後、実際に中絶に使われる薬自体の量は、申告数の3倍から5倍はあるようで、それから見ても、やはり堕胎の申告数も実際の数の3分の1から5分の1であろうと察せられ、やはり年間で約100万人は堕胎されていると考えるのが妥当と思われる。
労働力の不足、年金制度の破綻、人口減少と高齢化、国の活力の低下、等々、日本の深刻な慢性的・構造的問題は、行きつくところ全てこの日本人の死亡原因第1位の堕胎から目を背けてきたからであると言えるのではないか。本質的問題を正視し、抜本的解決を探さない限り、場当たり的な対象療法では問題は何も解決しない。国を救うのはアベノミックスなんかではない。
1国の人口は出生率が2.08を割り込むと減り始める。直近の日本の出生率は1.45あたりだから、日本女性が妊娠し堕す胎児のうち約43万人を救って産み育てるだけで人口の減少は食い止められる計算になる。さらに、毎年堕胎されている約100万人の尊い命を全部救えたら、日本の社会的・構造的病巣の大半が消滅し、安寧と繁栄が約束されるだろう。
1968年7月25日、時のローマ教皇パウロ6世は人類の直面する危機を予見して、堕胎と人工的避妊を禁じた「フマーネヴィテ」(人間の生命)という預言的回勅を発表した。しかし、カトリックの世界中の指導者たち、枢機卿、司教、司祭たちは実行不能の空論としてそれを引出しにしまい込んで、まじめに信徒に実践を勧めなかった。その不従順の結果を私たちは今見ている。
それから10年余りして、70億の人類の中でたった2人の人が真面目に正面からその回勅と取り組んだ。それが、聖人になった教皇ヨハネパウロ2世と、今も現役のキコ・アルグエイヨという男だ。彼ら二人は手を携えて、パウロ6世の回勅の実行を本気で信者に求めようと考えた。そして、キコは聖教皇の庇護のもとに自分の運動の信奉者と共に壮大な実験に取りかかった。以来30年余り、いまその目覚ましい成果が見え始めている。
前教皇ベネディクト16世も、現教皇フランシスコも、グローバル化した世俗主義と拝金主義の前に圧倒的守勢に立たされた教会の前衛として、キコとその運動に、そして、5人、8人、13人と大勢の子供たちにあふれた大家族の群れに、熱い期待の眼差しを向け、彼らを目の瞳のように大切に護っている。
カトリック教会は日本の信徒にも、この野心的実験に参加することを期待している。だがこれは、生易しいことではない。一人一人の人間の神に対する絶対的信頼と、根本的回心と、英雄的努力なしには成し遂げられない。
2000年前にキリストが述べ伝えた福音は、この課題と直接に響き合っている。
(おしまい)