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【改訂】
コロナウイルスで見えてきた
「自然宗教としてのキリスト教」
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私はカトリックを「この世で現世利益を売りにしない唯一の宗教」として人に紹介してきました。それは、―おこがましい表現で恐縮ですがー 私のカトリックの信仰が(そしてすべての正しいキリスト教が)「自然宗教」ではなくて、「超自然宗教」であるという確信から来たものです。
超自然宗教とは、宇宙と人間が存在する遥か以前の永遠の過去から存在していた生ける神が「わたしはある。わたしはあるというもの!」である、と名乗りを上げて、唯一の神の側から人間の歴史に介入してきたことをきっかけに始まった宗教という意味です。古い話ではりません。時が満ちて神が動いたのは文明史上僅か4000年ほど前の出来事です。
それに対して、「自然宗教」とは、自然とのかかわりの中で、人間の想像力が自然の中に投影して産み出した神々を祀る宗教のことです。神々の誕生に先立って、まず人間が存在していました。これは人類の歴史の太古の昔からあったことではないでしょうか。
つまり、「自然宗教」と「超自然宗教」とでは、神と人の存在の後先の序列と、両者の働きかけの方向性が正反対の関係にあるのです。
超自然宗教はユダヤ教とキリスト教が主流ですが、イスラム教も同じ神を拝んでいるという意味でその系譜に属します。
福島第一原発のメルトダウン事故を誘発した 3.11の東日本大震災や、いま世界で猛威を振るっている新型コロナウイルス(COVID-19)を前にして、人は太古の昔から、自然の圧倒的な猛威の背後に八百万の神々をイメージして、その想像上の神に「どうか自然の豊かな恵みをお与えください。禍は遠ざけて下さい。」と祈りを捧げ、お供え(生贄)を捧げてきた長い歴史があります。この、「祈祷とお供え」の見返りとして、恵みを引き出し、禍を遠ざける、という人間と自然の駆け引きが「自然宗教」、またの名を「御利益宗教」の起源と本質だと言えましょう。
世の宗教現象を観察すると、そのほとんどが「現世御利益」売って金を儲ける装置になっています。お祈りとお供えの儀式の場として立派な社寺を建て、そこで働くプロとして僧侶や神職・祭司を立て、お布施の一万円札の束が社寺・教団の歳入となり、僧侶や神職の生活の資になるだけなのを内心承知の上で、それでも欲に任せ、ご利益を期待してせっせと寄付・献金をします。坊主丸儲けのからくりです。
中世のペスト、今日の COVID-19 は、自然が突然暴れ出したのだと考えて、人間を愛し守ってくださるはずの神様にすがって、それを鎮めていただこうと素朴なクリスチャンが考えたとしたら、それは、日照りで困った農家が、祈祷師にお金を握らせて、雨乞いのご祈祷を依頼し、楽の音に合わせて踊り狂う土着の信仰と似たり寄ったりの自然宗教的発想です。
カトリックは一切ご利益を売らない「超自然宗教」だ、という私の思い入れは一体どうなってしまったのでしょう?
元来キリスト教の神は、幾らお金を積んでも、人間の都合に合わせた現世の富、安楽、健康、長寿などの保証を一切してくれない、ある意味では実に「つれない」神様のはずでした。
キリスト教の神様は、この世では安楽よりもむしろ試練を与えます。甘やかす宗教ではなく、叱咤激励する神です。際限なく人の罪を赦す憐みの神でもあります。その代り、死後には永遠の命を、しかも、愛の源である神に抱かれて永遠の喜びのうちに生きることを確約する宗教であり、この世の終わりに肉体の復活と宇宙の再生を教える唯一の宗教です。
新型コロナウイルスは戦争でもテロでもありません。COVID-19 は、人類を無から創造し、ご自分の愛で育み、永遠の幸福に入るよう招いておられる神ご自身が、人類を覚醒させるために明白な意図とメッセージを込めて我々に贈られた試練であります。
「アベノマスク」を考案し、黒川をモリカケ疑惑からの守護神にしようとした「アホノミックス」の総理も、一つだけ賢い預言的なことばを吐きました。「新しい生活様式への招き!」というのがそれです。これは、コロナショックの後は、人類はもはやそれ以前と同じ生活様式には戻れない、いや戻ってはいけない、という意味深い真実を語っています。
では、我が愛するカトリック信者さんはどうでしょうか。かれらは「主よ、どうかコロナウイルスの禍を遠ざけて下さい。一日も早く安全な普段の生活を取り戻すことが出来ますように!」「アーメン!」と祈ります。つまり、「あなたとは関係のない外敵から禍がやって来ました。人類の保護者である神様!もし私を愛してくださるのなら、どうかこの禍を取り去ってください。」という内容で、まさに典型的な自然宗教型の祈りです。
禍は御免だ、ご利益が欲しい。そのためにはお祈りをする、お布施を払う、金も出す。しかし、神様のおかげで禍が去ってあとは、ぬくぬくとこれまで通りで居るのが心地良い。これが「自然宗教」レベルに並んだキリスト教の姿です。
COVID-19 は得体の知れない脅威ではなく、人類を愛する創造主なる神が ーキリスト教の神ご自身がー 今この時を選んで敢えて送られた「天使」であることぐらい、カトリック信者ならいち早く気付くべきでしょう。そして、神様からのメッセージは何か、神様は私たちがどう変わることを望んでおられるのか、を真剣に読み解こうとしなければなりません。そうしないと ー私の大好きなー「ボーっと生きてんじゃねーよ!」というチコちゃんのお叱りを受けることになります。
世界はコロナ禍を機に、社会は既に在宅でのテレワーク、テレビ会議、教育現場ではタブレット授業などに大きく舵を切りました。これからは、大企業が一等地に巨大なオフィスビルをかまえる時代ではなくなる、というトレンドをいち早く察知して、三菱地所も三井不動産もその対応の検討に入ったに違いありません。これは、コロナが去っても元には戻らず、さらに進化を続けるべき新しい生活様式への挑戦です。
カトリックも時代の波に後れを取ってはいられません。習慣として残っていたほとんど唯一の活動だった日曜日のミサが一斉に止まると、教会は初めのうちは方向感覚を失って、ただ呆然自失状態に陥りました。
しかし、ユーチューブでミサが放映され、次第にズームなどのアプリを使った双方向参加型のミサが模索され始めました。私の家でも、ズームを使って毎週二回共同体のメンバーに「感謝の祭儀」(ミサ)と「みことばの祭儀」を始めました。私の同僚の外国人司祭たちは、祖国の共同体のために時差に合わせてコスタリカやスペインに向けてズームミサを日本から発信し始めました。一万キロの空間的隔たりも時差も超越した新しい司牧活動の試みです。
足元では、在来型の教会の機構、つまり地上の全ての地域をくまなく司教区に分割し、その司教区を小教区に細分化して、各小教区に一人の主任司祭を配置して信者を司牧するという、古代ローマ帝国の統治システムを模した構図は、もう久しい以前から崩壊して機能していません。
今どきカトリックの神父を志すような奇特な若者はほとんどいませんから、司祭職への召命の枯渇と高齢化で各小教区に一人の牧者(司祭)を確保できる時代はとっくに終わっているのです。
末端の司祭を小教区のテリトリーに縛り付けたり、反対に複数の小教区の掛け持ちを強いて疲弊させたりするのをやめて、小教区制度そのものを解体し、全ての司祭が各自の創造的才覚に応じて、ITを駆使して世界中の信者を相手に自由に宣教・司牧する道を選ぶ可能性にも道を開くべき時が来ているのではないでしょうか。
神様が COVID-19 を通して教会に求められれているものとは、キリスト教が自然宗教に埋没することをやめて、現世利益を度外視した本来の「超自然宗教」としての面目をとりもどすための「新しい様式」を模索せよ、と言う強烈なメッセージなのではないかと、私は思います。
1965年に幕を閉じた「第2バチカン公会議」は紀元4世紀から続いたコンスタンチン体制を清算したが、あのカトリック教会の大改革は、半世紀以上たった今日でもまだ東の最果ての島日本には届きかねている。
しかし、その間に世界はさらに大きな変貌を遂げた。日本のカトリック教会はすでに「第3バチカン公会議」を必要とするほどに時代から取り残されているのではないだろうか。コロナに触発されて、その危機的な状況にいま気付くことに成功しなければ、日本の教会に生き延びる展望はない。
【祈りましょう】
天地万物の創造主である全能永遠の神さま
コロナウイルスはあなたの愛の御心から
わたしたちに送られた天使であることを知っています
あなたの聖霊を送って
あなたからのメッセージを正しく理解させてください
それを忠実に実践する
開かれた心と素直さをお与えください
わたしたちの心から拝金主義の偶像崇拝を取り除き
あなたの愛と赦しのメッセージを述べ伝え
地の塩として社会を腐敗から守り、味をつけ
世の光りとしてこの世界の闇を照らすことが出来ますように
イエスキリストの復活の命にあずかり
あなたの懐に抱かれて永遠の喜びに生きることが出来ますように
アーメン