:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ タイガーロック女史=ホイヴェルス師から洗礼を授かった人の証言

2020-07-01 00:00:01 | ★ ホイヴェルス師

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タイガー・ロック女史

ホイヴェルス師から洗礼を授かった人の証言

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ある日、携帯が鳴った。わたくし、トライワと申します。タイガー・ロックでございます。

初めての電話で開口一番、自分の名前を名乗り、漢字で何と書くかを英語で言ってのけたこのご婦人に特別な興味を抱いた。

彼女の名前は、ホイヴェルス師の追悼ミサの参加者名簿にあって、今年の追悼ミサの案内には私の携帯番号があったのを見て、電話してこられたのだ。

 

 

94歳。清瀬の老人ホームに入っている。以前は時々ホームから片道1万円以上かけてタクシーを飛ばして目白のカテドラルまでミサに与かりに行っていたそうだが、最近は施設の職員が一人外出を制限して、出してくれなくなった。訪ねてくれる司祭もいなくて孤立していた。

ホイヴェルス神父様の追悼ミサには是非とも出席したいが、一人では出してもらえないと言うので、往き帰りは私が車で同伴するからと言えば許可が下りるかもしれませんね、と言ったが、それでもやはりだめだった。

69日の第43回追悼ミサは、万全なコロナ対策のもとで、四谷の主婦会館の広い会場を使ってつつがなく行われた。

ミサ後の懇親会では、94歳の虎岩さんと言うご婦人が強く出席を望まれたが、施設側の許可が得られなくて断念されました。皆さんによろしくとのことでした、と報告すると、あら、虎岩さん?まだお元気かしら?と、彼女のことを知っている人がおられた。

数日後、私は追悼ミサの様子を伝え、彼女の告白を聴き、ミサの時に聖別しておいたご聖体を届けるために彼女をホームに訪れた。

 

聖家族ホームの入り口わきの聖母子像

 

コロナ対策で私はホームの玄関から中へは一歩も入れてもらえなかった。

外の車寄せで待つほどに、虎岩女史は職員に導かれて私の前に現れた。広場のベンチに並んで腰をおろすと、問わず語りに彼女は自分の歴史を語り始めた。

 

ベンチの後ろの植え込みの紫陽花

 

大正15年、虎岩冨美子は京橋に8人兄弟の末から二人目として生まれた。帝国海軍の軍艦の電気系統の艤装に特化した虎岩電機は、当時は新橋に大きな店を構えていたが、彼女が10歳のころに倒産。母親の衣装箪笥にまで差し押さえの札が貼られたことを子供心におぼえていた。

大崎の島津山で空襲に遭い、足を怪我した。友達がホイヴェルス神父さまに引き合わせてくれた。神父様は「こんな時代、何があるか分からないから貴女も洗礼を受けなさい」と言われてその気になった。イエズス会の建物(上智大キャンパスの中に今もある木造洋館のクルトゥールハイム)二階のチャペルの薄暗い香部屋で、長身のホイヴェルス神父様から洗礼を受けた。「私の他にもう一人大学の先生の男性が一緒だった。その先生が洗礼を受けるとき滂沱の涙を流しておられたのを見て、私も何もわからないまま、生まれ変わるような気がして思わず泣いた」と言った。

空襲警報が鳴るとホイヴェルス神父様は二階の部屋に逃げなさいと言われた。犬飼道子さんがいつも一緒で二人して机の下にもぐりこんだ。5.15事件で青年将校に殺された昭和の宰相犬養毅の孫でカトリック作家になった犬飼道子は冨美子さんの友達だった。

空襲の後、聖路加病院に入院していた兄を見舞いに行くときは、そこここに転がる死骸を跨ぐようにして行った。

当時冨美子は東大の地震研究所に勤めていたが、ホイヴェルス神父様は東大生を相手にカトリック研究会を開いていて、彼女も参加した。

終戦の日、皇居前の広場で玉音を聴いて泣いた。割腹自殺をした将校もいた。終戦の日彼女は20歳だった。

兄たちは優秀な一中、一高、東大生で、長兄は朝鮮の三菱製鋼に、次男は地質学者に、三男は化学者に、四男は哲学者に、だが5男は健康に恵まれず一高を落ちて水戸の高校に進んだ。兄たちはみな病弱で、当時流行っていた結核で、若くして相次いで病死し、冨美子は彼らの看病に青春を捧げた。 

30台で修道女になった。ホイヴェルス神父様に修道院に入ることになりましたと報告に行くと、どの修道会に入るのかね、と問われたので、「藤沢のみその」の修道会に入りますと答えると、神父様はひと言「有難う」と言われた。

「御園の聖心愛子会」と言えば、ホイヴェルス神父様と同郷のウエストファーレン出身の女性、御園のテレジアが創立した修道会で、神父とテレジアは特別に親密な関係だったから、彼女がその会に入ることを知って、神父は自分のことのように喜ばれたのだろう。

 

タイガーロックこと虎岩冨美子さん

 

御園の会のシスターになった冨美子は、藤沢の本部から広島の呉に、また秋田に宣教に派遣されるが、1964年に豊島区関口に東京カテドラル・マリア大聖堂が丹下健三の設計で建てられると、そこの香部屋係(聖堂の祭壇世話係)に選ばれ、以来45年間そこで働く。

宮様か誰かの葬儀がカテドラルであった時、テレビのカメラが入って、私は嫌だったのに、隅っこに映ってしまったとか、脇祭壇のところには美智子妃殿下の実家の正田家の皆さんの姿がしばしばあったとか、同世代の白柳枢機卿とは一緒に食事に行くなど、親しく付き合わせてもらったなどの思い出を、懐かし気に話してくれた。

カテドラルでの奉仕を終えたとき、彼女はみそのの修道会を退会して今の清瀬市の聖家族ホームに入ったということだった。

さらに、冨美子さんはまだ人に話したことはないが、と断って、私にホイヴェルス神父様に関わる秘密のエピソードを語ってくれた。

ある日、彼女が上智のクルトゥールハイムの二階の聖堂の窓から、イエズス会の修道院の中庭を見るともなく見下ろしていると、ホイヴェルス神父様がひと気のない庭に入って来られた。庭の中ほどまで進んだ時、何かに躓いてばったりと倒れられた。よっぽど打ちどころが悪かったか、しばらく立ち上がれず、ようやく身を起こして、自分をいたわりながらゆっくりと庭の別の方角に姿を消された。

翌日、ホイちゃん(と皆に親しみを込めてそう呼ばれていた)は彼女に会ったが、怪我のことは何も話されなかった。彼女も転んだのを見てしまったことをホイちゃんに言えなかった。

そして、心の中で思った。ああ、ホイちゃんも日本での長い宣教生活の間に、時には仕事の上で、あるいは信仰生活の中で、また人間関係で、人知れず孤独に躓き、ばったり倒れることもあっただろうに、いつも一人で立ち上がり、誰にも告げず、再び黙々と今日まで歩み続けてこられたのだな、と思うと、その後ろ姿が何とも神々しく有難かった。

 

冨美子さんに洗礼を授けてホイちゃん

 

彼女の最期の望みは自叙伝を書くことだが、私の見立てでは、もうそれだけのエネルギーと時間は彼女に残されていないように思われる。

 

 

コメント (2)
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