:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私の「インドの旅」総集編(7)遠藤批判

2021-12-11 00:00:01 | ★ インドの旅から

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私の「インドの旅」総集編 (7)遠藤批判

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     (1)導入

     (2)インカルチュレーションのイデオロギー

     (3)自然宗教発生のメカニズム

     (4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神

     (5)「超自然宗教」の「自然宗教」化

     (6)神々の凋落

       a)自然宗教の凋落

       b) キリスト教の凋落

       c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体

     (7)遠藤批判

     (8)田川批判

     (9)絵に描いた餅は食えない

               (10)超自然宗教の復権

 

 

若き日の遠藤周作

 

(7)遠藤批判 

 去る11月6日と11日に

NHK心の時代 ~宗教・人生~

遠藤周作没後25年

遺作「深い河」をたどる(前編・後編)

という番組を私は見た。

 遠藤周作というカトリック作家の没25周年記念にNHKが作成した番組である。

 NHKは、放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設置された総務省所管の放送事業者で、実質的には日本の政権与党に忖度する国営放送局ということが出来るだろう。

 今回の特集番組は、周到な構成と金のかかった映像の素晴らしいもので、さすがはNHKならではの出来映えであった。

 若松英輔(批評家、随筆家)と山根道公(日本の近代文学研究者)の対談を軸に展開する番組は、対談場所として遠藤ゆかりの—そして、私にとっては学生時代の懐かしい日々の祈りの場であった—上智大学の古い木造洋館二階の和風チャペル「クルトゥールハイム」を使っている。

               

若松英輔        山根道公

 もし、この番組に問題があるとすれば、それは、対談者の話が遠藤周作流のキリスト教理解、つまり、キリスト教の日本固有の精神文化・風土への土着化という特異な「イデオロギー」の全面的肯定と、キリスト教の本来の教えを知らない日本の一般市民に、「キリスト教とは遠藤が小説の中で展開したような世界なのだ」、という偏見を植え付けてしまう危険性だと言えよう。

 天下の公器であるNHKがそういうキリスト教の正統信仰から遠く離れた解釈を敢えて取り上げるということは、結果的にキリスト教に対する誤った理解をNHKの暖簾の力で広く世に浸透させる効果を生むことになるのではないかと私は危惧する。

 だから、誰かが「それは違うよ!」という批判的意見を述べて、カトリックの正統信仰は別のところにある、ということを世に知らしめなければならないと思った。

 遠藤が時流に乗って「カトリック作家として世の脚光を浴びたのは事実だが、彼が信仰の真面目さと伝統の重さに配慮することなく、自分の心の赴くままになんでも自由に書き放ったことや、カトリックの伝統神学の立場からも、まじめな聖書学や歴史研究の立場からもとても容認され得ないようなことを乱暴に書き連ねたことについては、厳しく批判され糺されなければならないだろう。

 私はすでに、2021年7月17日の「田川建三の遠藤周作批判」というブログを書いている。ここでは、その記述を反芻し、要約しながら、あらためて問題点を明らかにしたいと思う。

  

田川建三

 私より4才年上の田川建三は、東京大学宗教史学科から、同大学院博士課程3年目にストラスブール大学に留学し、そこで宗教学博士号を取得した碩学である。田川の遠藤批判は、私の厳しい遠藤評価に、論理的かつ聖書学的な裏付けを与えてくれて実に胸がすく思いがする。

 田川は先ず、遠藤のイエス像を、「ずぶの素人がいわば出版資本の要請に応えて書き流したものに過ぎない」と切って捨てる。

 そして、「それにしては既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまったし、そこに含まれた実に数多い欠陥は、それぞれ、イエス伝を描くという行為にまつわる諸問題を典型的に示しているので、取り上げて論じる意味は十分にあろうかとおもわれる。」と付け加えている。

私がNHKの先の「心の時代~宗教・人生~遠藤周作没後25年」の特別番組を見て危惧するところは、まさに田川が言うように、「既にあまりにも多く売れて人々に読まれ、数多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまっている」点に関わっている。

 つまり、NHKが遠藤周作の描くキリスト教観を肯定し、礼賛する2名を対談者として選ぶことによって、遠藤の実に欠陥の多いイメージをNHKの権威を持って肯定し、さらに広く喧伝する結果を招いているということだ。

 日本のカトリックの教会は、ここに重大な問題が潜んでいることを指摘し、正統なキリスト教の教えを擁護し主張しなければならない立場にありながら、現実には、教会の指導部自体が既に遠藤流のキリスト教観に深刻に汚染されていて、NHKの果している役割の危険性を指摘し正統信仰を擁護する機能がすっかり麻痺しているのではないかと危惧される。

 田川は聖書学者の緻密な分析に基づいて、私の力ではとてもなし得ないほど深く、適格に、遠藤の作品の問題点を指摘しているので、田川による遠藤批判をもう少し辿ってみよう。

 田川は「作家が良く知らないことに関して知ったような顔をして口を出し、しかも、作家の書くことが不当に多く評価されすぎる今の日本においては、作家の書きなぐる無責任な著述が人々の『知識』の内容を形作ってしまう、という世相に対して、一つの警鐘をならしておく必要があろうかと思われ。」(P.171)(注)と指摘する。

 さらに、「実際『イエスの生涯』は駄作である。『キリストの誕生』には例の遠藤周作特有の甘ったるい『弱者の論理』があちらこちらの頁に散りばめられている。(P.172)」と続く。そして、

 (人は)イエス像を描くときには、自分の期待する理想的な人間像を思い入れたり、無自覚のうちに自分の未熟な思いをそのまま投影してしまう。それは、自分の現在のあり様を何らかの意味で肯定してくれる権威で、直接的にお前はそのままでいいのだぞ、と肯定してくれる場合もあるし、お前のような奴はダメだが、ダメなままで我慢して救ってやろう、という形で、「だめ」な自分は「だめ」なままでいいのだ、と居直ることになるので、ずぶずぶの自己肯定に終わることは間違いがない。(内容のない自己卑下は、一般に日本人がやたらと好む奇妙な道徳である)しかも、「自分はだめだ」と言い立てることによって、その「だめな自分」を肯定することができるのだから、二重の自己満悦に耽ることができる。遠藤の「弱者の論理」は、世のなかにはそういう自己満足に耽りたがる人間が大勢いるから、その分だけよく売れることになる。(P.274)

「イエスの生涯」は歴史記述の力量がまるでないのに歴史記述に手を出したから、イデオロギーのみがむき出しに露出してしまった。しかし、遠藤はイデオロギーで勝負できるような著者ではない。遠藤周作はただ彼のセンチメンタルな「負け犬」の信条に原始キリスト教の歴史を引き付けて「解釈」することができればそれでよかった。「犬のように」、「弱さ」「惨めさ」「ふかい自己嫌悪」、「生涯は無意味」、「恥ずかしさに震えんばかり」――遠藤ブシの得意の語り口である。 「キリストの生涯」P. 27) 

 「普通、人は自己嫌悪していることにはふれたがらない。ところが、遠藤の書くものを読んでいると、『弱さ』『惨めさ』『空しさ』の『自己嫌悪』がやたらと大量にどの頁にも出てくる。こんなに嬉しそうに自慢げに語られる自己嫌悪が自己嫌悪であるはずがない。弟子たちは『イエスの受難の意味、その惨めな死の謎を解き明かそうと、もがき苦しんだ』あげく、イエスの死の意味付けに到達した」と言うのが遠藤の結論であるが、これも田川には「絵空事に思える」 しかし、遠藤ブシが歴史記述に支えられない間違いだらけであることを知らずにこの本を通俗本として読めば、(人は)遠藤ブシまでも歴史記述の一環なのではないかと思い違いしてしまう。」(P.198)

 遠藤は自分の遠藤ブシを学問的スタイルと歴史記述の体裁で展開し、「お前の『弱さ』はそのままでいいのだと現実における居直りをすすめてくれる宗教的愛の場を説く。そこには現代日本人の生活の、ゆがんではいるが執拗な、現実に居直りたい日本人の心に共鳴する心地よい響きがある。それは、ゆがんだ社会の現実に何の変更も加えさすまいとする現実の力にとって、大いに役立つ。」(P.201)

 「遠藤は、いかにも歴史的知識があるかの如くに学問的スタイルで、断言的に正反対の間違いを言い張って、知られている事実を捻じ曲げてまで作り話をする。それを、歴史記述のスタイル、しかも断定的な文体で書いている。知らないくせに、よく調べて知っているかの如き文体で書くのは正しくない。」(P.202)

 「遠藤は福音書の文章を自分の気に入ったものだけは無批判にそのまま歴史の事実とみなして引用する。しかし遠藤は、福音書の引用であると言いながら、全然正反対の意味に内容を変えたりする。これは、他人の文章に言及する著者の最小限のモラルに違反している。著作権によって保護されている現代の同業者であろうと、福音書の著者であろうと、同じことなのだ。」(P.206-7)

 「何故遠藤がおよそ初歩的な文章の読み違いをやらかしたかというと、そもそも文章に書いてあることを読もうとしなかったからである。この著作の全体がほとんど読まずに読んだふりをしている思い入れ、に満ちているのだ。(P.207) 

 田川は続いてもう一つだけ、いかに遠藤が福音書の記述を平気で作り変えるか、という実例を挙げる。それはこう始まる。「『エマオの旅人』という話がある。レンブラントが絵にしたので、キリスト教徒でない日本の読者にもよく知られていよう。」(中略)「遠藤はこれをそのまま歴史的事実とみなす。ところが遠藤は素朴に史実として信じているかの如きスタイルで書きながら、肝心なところで、ルカ福音書のテクストとはおよそ異なる我田引水をやらかしている。」(P.210)「この話のどこにも、二人の弟子が『イエスを裏切り、自責の念と絶望とに苦しんでいた』(『生涯』P.39)などと言うことは書いていない。」(P.210)

 長い記述を要約すると、福音書によれば、「義人イエスをユダヤ教当局(とローマの官憲)が死刑に処した」のに、遠藤の描く弟子たちにとっては、イエスの十字架とは、「自分たちがイエスを裏切った『卑劣な』事件、ひたすら自責の念に駆れるばかりの事件」であり、「イエスの直弟子がイエスを殺したかのごとくである。」それはまさに、「事柄の責任者を追及することなく、一億総ざんげ的に自責の念に駆られる、まさに日本体制多数派の心情である。だからイエスの復活とは、お前たちは『卑劣』であっても赦してやるよ、というおなじみの遠藤ブシの宣言に収斂されてしまう。」それは「自分たちの卑劣な裏切りに(イエスが)怒りや恨みを持たず、逆に愛をもってそれに応える」(P.248)ことなのだそうだ。一億総懺悔は、責任の所在をあいまいにし、そして、懺悔したものがみな赦されて、元のもくあみに終わる。遠藤の「弱者の論理」は一見、弱い人間のための思想のようでありながら、実は日本ファシズムの体質を戦後にもそのまま保存した日本国民の思想体質が、そのままイエス記述に名を借りて表現されているのである。(P.211)

 ルカの福音書のキリストは「苦難を受けたのち、栄光にはいる」が、それは決して遠藤の言う如く、イエスが永遠の「同伴者」としていつでも自分達の「卑劣さ」を「いいよ、いいよ」と言って赦してくれる、などというけち臭いことではない。近代日本人文学者好みの、ただじめじめと、「自分の卑劣さに対する自責の念」などにとじこもるのとわけが違う(本当は自責の念ではなく、それでいいのだよと自ら赦す居直りの念なのだが)。(P.212)

 しかし、「全体としてマルコの描くイエスは、生き生きと自信に満ちて活動する一人の人間の姿であり、じめじめと『無力』に居直って、無力こそ本物の『愛』だ、などとうそぶく退廃した人間の姿ではない」。(P.220)

 田川はこれだけ正反対の像を提供しつつ、しかもそれを福音書を資料とした歴史記述であるかの如きスタイルで書くのは詐欺である。と言い切っている。(P.220)

 残る問題は、どうして遠藤のこういう『愛の無力さ』のイデオロギーが現代日本では俗受けするか、ということである。こういう退廃した思想がはやるのは、現代日本の大衆社会の病的状態の一つの兆候であろう。

 どこが間違っているかというと、我々の毎日の生活も、一つ間違えば病気や飢えの危機に転落しかねないこと(コロナ騒ぎを観よ!)、また、我々の毎日の平穏な生活が、地球の半分の人々に常に病気と飢えの中に生きることを強いる抑圧の構造に支えられているという現実を捉えることができなくなっているということだ。食って寝る生活はけち臭い目先の『現実』として抽象化され、それとは別に『精神的』な側面が意味ありげに尊重される。そこに現代の日本人の精神生活の歪んだ病的な状態がある。そして、この状態は広く蔓延しているので、誰も自分は歪んで病的だとは思わない。こういう病的な精神状態にうまく乗って俗受けしたのが遠藤周作の『弱者の論理』なのだ。(P.224)

 要約すると、[遠藤の書いていることは福音書の記述そのものとも、またその背景にある歴史的事実ともおよそ合致しない、しばしば正反対の無茶苦茶] (P.224)だということになる。

 田川は遠藤の「イエスの生涯」と、「キリストの誕生」を中心に遠藤批判を展開している。田川が「宗教とは何か」で上の遠藤周作批判を書いたときには、遠藤の最期の長編小説とされる「深い河」はまだ出版されていなかった。

 田川がもし「深い河」を読んだ上で遠藤批判を書いていたら、それはもっと辛辣なものになっていたであろう。私はそれを読んだし、その映画も見たが、それは、遠藤が半ば燃え尽きて小説家としての力量も二流、三流作家のレベルに落ちてしまったか、と目を疑う駄作になっている。遠藤の中に未消化のまま残っていた幾つかの素材の脈絡のない陳列と、カトリック作家の知名度にものを言わせて、キリスト教の中に何とか「輪廻転生」の概念をどさくさに紛れて強引に持ち込もうとした意味不明の駄作であると言って切って捨てれば足りるだろう。自然宗教の「輪廻」と、キリスト教の「復活」という超自然宗教に固有な概念とは、遠藤が釈迦力に頑張ってもどうにもならない対立概念なのだ。

 遠藤は少年時代にたまたまカトリックの洗礼を受けたことを売りにして、文壇に「カトリック流行作家」として躍り出たが、死ぬまでイエスが誰であったか、イエスの死と復活の本当の意味が何であったかを深く理解することなく逝ったことを明白に告白した確かな証拠として「深い河」を残して死んで行ったといえば、実態を正確にとらえたことになるだろう。

 これで、長かった私の「インドの旅」シリーズも、ようやく終わりを迎えられる目途が立ったのではないかと思う。

今年も「万物の贖い主」イエス・キリストの 降誕祭 が近づいた。

 しかし、銀座のクラブのママは、クリスマスは赤頭巾に白髭のサンタクロースを祝う稼ぎ時のお祭りだと信じているように、遠藤の描くキリスト教は女々しい転びや棄教を礼賛する典型的自然宗教の一つとして日本人に刷り込まれた思想であり、「沈黙」がスコセージ監督のハリウッド版になって世界中を駆け巡ると、ローマの進歩派の神父たちやカトリックインテリたちに、斬新なキリスト教解釈としてもてはやされる危険な効果を遺憾なく発揮している。世俗主義はキリスト教の多くの祝日を商業主義のチャンスに転嫁していくが、さすがにキリスト教最大の祭りである 復活祭 にだけは手が付けられないでいるらしい。それは、キリストの「死者の中からの復活」の教えだけは、何とこじつけようとも、自然宗教化を寄せ付けない「超自然宗教」の本質部分が硬く露出した史実だからに違いない。

(注)(P.○○)は田川建三著「宗教とは何か」の引用ページを指す。

   文中の文字の色分けは、筆者(私)のランダムなアクセント付けです。

(つづく)

コメント (32)
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