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「二人の女中」
ホイヴェルス著 =時間の流れに=
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晩さんに招かれた私たち十三人の学生と学者は食卓につきました。主婦と手伝いの二人の女中はお給仕で一心でした。黙ってお給仕です。二人の女中は主婦の目と手を見て、何を命令し何を依頼するかを悟り、てきぱきと処置してゆくのでした。この二人はいんぎんであるばかりでなく、美しく給仕するためにお祭りの晴着をきていました。
私たちは彼女たちの給仕を当然のことにして別に注意もせず、世界宇宙の意義や存在の悲劇的状態やプラトン哲学とその「饗宴」など、相当大きな問題について論じあっていました。
その間、二人は謙遜な心で、私たちにお吸物を供し、ご飯を渡し、いろいろな品をとって来てはお辞儀をして私たちに差し出しました。そして自分のしていることはよいかどうかと、いつも気にかけ、あるいは動悸していたのかも知れません。食事が終わってからも、始めから終わりまですべてしたことを顧みるのでしょう。これはもっと早くしたらよかった、それは違った方法で供したらよかったのに、来賓の方々は満足なさったかしら、咎むべところはなかっただろうか、奥様は不満だったかしら、食事中、奥様の顔を見てどちらともわからなかったことが幾度かあった、などと。
それから、大分おそくなって、私たちは別れを告げました。ご主人も奥様も玄関まで見送り、二人の女中は門まで庭を走り出て、私たちが門の脇のくぐり戸で身を屈めないように、大門の扉を開いてくれました。そして深く挨拶して、給仕させていただけた事に心からのお礼を述べました。私たちはそのような深い挨拶もせず、ありふれたお礼の言葉を述べて帰りました。
でも二人の給仕は忘れません。どうしてご恩返しをしたらよいのでしょう。王様や神様にでもするように私に仕えたのでした。ああ、私が二人の心で、あんなに注意深く、あんなに動悸した心で、自分の務めが神のお気に召すかどうかと案じながら、神に仕えられたなら。
どうして二人はこの奉仕の心になったのでしょう。二人は喜んで仕えます。念をいれて仕えます。うやうやしく真剣に奉仕するのです。世の中では二人のする仕事は下等なものと思われていますが、今私には最上級の仕事だという気がします。
帰り道、じっと星を仰ぎ見て、二人のための望みを星空のかなたへ吹き上げるのでした。人間というものは何と珍しい、奇妙なものでしょう。二人の心にもゆる奉仕への熱望などは奇蹟のようではないでしょうか。また二人の心のなかの寛仁の泉。二人はこの心の動きに従って真によい人間、完全な人間になるのです。
只今、二人の気持は、蜜蜂が始めて巣をたち、花の方へ飛び、蜜を集める、その楽しい働きさながらです。蜂はその後も毎日毎日飛び立っては働き、翼の切れるほど働き、どこかで斃れるまで忠実に働くのです。
人生の途上、常に働いている二人は、手が固くなろうとも、心はかたくならないように。そして心の寛仁の泉は決して決して渇れないように。いつもいつも今日の気持で仕えるように。
戦前の日本の裕福な家庭には、女中さんがいるのは普通のことでした。二人いることも例外ではなく、加えて、下男と呼ばれる下働きの男性がいることもありました。
今日「女中」という言葉は、人によっては差別用語とみなして嫌われる向きもあるかもしれませんが、ただの『お手伝いさん』と呼ばれている職掌とは全くニュアンスを異にするものであったことは、ホイヴェルス師の上の随想を注意して読み返せばすぐにお分かりの通りです。また、その点を深く理解しなければ、せっかくの「二人の女中」の意味を全く読み違えることにもなりかねません。ホイヴェルス師の原文を壊さないためにも、ー問題の所在を承知の上でー 敢えて原文のままにしたいと思います。
さて、私の父は東北各県の警察本部長を歴任していましたが、当時の警察部長と言えば、知事に次ぐナンバー2の役人で、勅任官と言って、直接天皇に任命される内務省の高級官僚でしたから、官舎に女中さんと下男がいるのは当然と言えば当然でした。父が部下をひき連れて宴会を張ったあとは、たいてい官舎で仕上げをするのですが、母と女中たちはその都度さぞかし大変だったことでしょう。こういう生活は、敗戦後占領軍のマッカーサー総司令長官の命令で父が公職追放になるまで続き、その後は戦後の混乱の中て惨めな転落失業者一家として、社会の最低辺の生活を長く経験しました。母が小さい私たち3人の子どもを残して、栄養失調と結核でまだ二十歳台の若さで他界したのもそのためでした。
私の記憶する女中さんたちは、みんな優しい働きものでした。大抵は地方のいい家庭の賢い子女たちで、都会の教養のある上流家庭に数年間、嫁入り前の行儀見習いとして住み込むもので、決してお給金目当ての貧しい労働女性ではありませんでした。女中さんという言葉のひびきの蔭にこのような古き良き時代の社会的背景があったことを知ることは、ホイヴェルス神父様のこの一編を読むうえで非常に重要なことだと思います。
そしてもう一つ、戦前の一高から八高までのナンバーのついた高校をはじめ、全国各地にあった旧制高等学校は、まだ進学するものが限られたまさにエリート校で、非常に学力が高く、特に外国語の読解力に関しては、戦後の新制大学卒が足元にも及ばない高水準が当たり前でした。私が20才台の頃、左翼運動に共感してデモやゲバルトのはなしを得意になってしていたら、父から「生意気なことを言うな、そもそもお前は ダス・カピタル(マルクスの資本論)をちゃんと読んだことがあるのか?俺たちはドイツ語で読破したものだ!」と一活されて、言葉を失ったものでした。その彼らが旧東大の法科を優等で卒業すれば、官僚や政治家として40才台でもう国家の屋台骨を背負う気概をもっ指導者になったものでした。
さらに、蛮カラな大学生たちの間で熱唱された
デカンショ、デカンショーで 半年暮らす ア、ヨイヨイ ♫
あとの半年ャー、寝て暮らす ヨーオイ ヨーオイ デッカンショ! ♫
というデカンショ節が、ドイツの近代哲学者デカルト、カント、ショーペンハウエルのことであることからもわかるように、当時の大学生の間には、まじめに人生の意味を問い、哲学を研究する学生たちも多く、哲学教授と学生たちの交わりはプライベートにも及んでいました。ホイヴェルス師が女中を二人かかえた上流社会の裕福な家庭に13人の学生を引き連れて行ってご馳走になり、高尚な哲学・宗教談義に時を忘れると言うようなことが日常的にあったことも、この短編の時代背景にあります。
それにしても、わき役、端役の女中さんたちを、主役のように光を当てて語るホイヴェルス師は、流石に劇作家ならではと納得しました。さらに、神様の前に、師がご自分の司祭職をこの女中たちほどに真剣に生きているだろうかとわが身を糺すところなど、さすがは謙遜な聖なる司祭ならではと恐れ入ります。
どうかこの短編「二人の女中」を、このような背景に重ねてもう一度味わってみてください。ホイヴェルス神父の彼女たちの一挙手一投足と内心の心理に対する細やかな観察と、彼女らに対する師の暖かい思いが、一層強く迫って来るのではないでしょうか。