カトリック東松山教会報「マラナタ」2022年11月号に、以下のような記事があることを知りました。
ホイヴェルス師の追悼ミサの主催者として興味があったので、筆者の山下征子さんの承諾を得て、このブログに転載いたします。
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第45回ヘルマン・ホイヴェルス神父追悼ミサに参加して
山下征子
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去る6月、参加者50名を超える方々が四谷の主婦会館に集い、師の追悼ミサが捧げられた。
帰天後45年間一度も途切れることなく「偲ぶ会」が続いていることに感動し初めて参加した。
ミサ後の懇親会では、生前の師を記憶する世代、師を知らない若い世代の方々が師への思い出を語られた。共通する思い出は、師はこよなく日本を愛されたこと。
『日本文化が持っている深い精神性はキリストの伝える愛と深く結びついている。日本人の心を表わす「いただく」「捧げる」「落ち着く」の3つの言葉が人の人生の歩みを表している。人はまずいただく仕事をしなければならない。赤ちゃんはまず親からいただきます。そして、学生たちは学校で知識をいただいて心を養います。その後家庭や社会で自分を捧げなければならない。そうして人間の心は満足し落ち着いて神のみこころに至る』
と師は語られていたとか。
師は決して過去の人ではない。今の時代にもその魂は引き継がれるべき人だと思った。そして、しおりの最後の頁に「最上のわざ」が記されているのを見つけて、あっ!と。13年まえに帰天した夫は余命を告知されてからの数カ月、この「最上のわざ」のカードを枕元に置き、常に合掌していた。このカードは今、家庭祭壇の夫の写真の傍らに置かれ、私の信仰の在り方のヒントとなっている。「最上のわざ」を唱えると‟加齢も死も怖くない”。と、思えてくる。
【最上のわざ】
この世の最上のわざは何か?
楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、けんきょに人の世話になり、弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であることを。老いの重荷は神の賜物。
古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことのふるさとへ行くために。
おのれをこの世につなぐくさりを少しずつはずしていくのは、真にえらいしごと。
こうして何もできなくなれば、それをけんそんに承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人のうえに。神の恵みを求めるために。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。
「来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ」と。
H・ホイヴェルス神父の言葉より
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プロフィール:ホイヴェルス神父はドイツで生を受け。イエズス会宣教師として1923年33歳で対日。上智大学で教鞭を執り、聖イグナチオ教会の初代主任司祭として司牧に献身、32年にわたり戦況と司牧に従事し、1977年87歳で天国に旅立たれた。師から洗礼を授けられた人は3千名を超え、日本を愛した宣教師の心は、今も上智大学や聖イグナチオ教会をはじめ、各地で息づいている。