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日本の貧困について
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(グアム島に自生するブーゲンビリアの茂み)
昨日の晩、クリスマスパーティーを兼ねたある小さなサロンの集まりで、大切な話をしたついでに、今の日本の「貧困」の問題にもちょっと触れました。
その脱線の発端は、その日、青山の会場に向かうべく東海道線の各駅停車に乗ったら、川崎の手前の線路上で突然停止し、車内放送では、人が線路内に立ち入ったためとの説明があったことでした。とっさに、「アッ、また人身事故か」、と思ったのです。その昼は、ドイツ人の彫刻家と、その奥様のきれいな日本人のピアニストとワインを飲みながら、日本の自殺の異常な多さについて話してきたばかりでしたから。カールさん-と、彼はいいますが-は、日本の人口に対して自殺者年間3万人強は、恐らくドイツの3倍以上ではなかろうかと言いました。(その大づかみな彼の感想の正確さを私はまだ検証してはいませんが・・・。)
私は、小泉・竹中の新自由主義経済改革以来、日本の憲法に定められた「人間らしい最低の生活」を保障するセーフネットが、あの頃からほころび始め、その破れ目からこぼれおちていく人がにわかに多くなっているのではないかという持論を持ち出したところ、あとで、いろいろな角度から反論が相次ぎました。私は敢えて弁明しませんでしたが、反論の主たちは、自分の才能と努力でセレブの道を切り開いたエリートたちだという印象を拭えませんでした。
そして、私の心の中では、私の親しい信者さんが、意欲もあり、ささやかな技能もあり、正直に真面目に働いているにもかかわらず、生活が苦しく、結婚も、自分の家を持つことも叶わず、老後の展望も立たない、と言う厳しい日々送っているのを見守りながら、祈ること、言葉をかけること、寄り添うこと以上に何もしてあげられないでいるつらさが疼いていました。
私の知るY子さんのような愛すべき魂が、長年契約社員として、そして、名前だけ正社員に昇格した今も、十分な休暇も無く、正当な残業手当も無く、展望の無い日々の生活苦の中で、過重労働に疲れ、体調を崩し、精神を蝕まれて欝になり、それでも心療内科の世話になりながら、使い捨てられていく恐怖に怯えつつも、薬を飲み飲み必死で働いている姿を目の当たりにして、いたたまれない気持ちから、一体何が悪いのか、どうすれば彼女を助けられるのか、という素朴な疑問が生まれたのでした。
いわゆる「小泉改革」などに象徴される、無制約な弱肉強食と経済格差の助長策が、新しい貧困層を生み出し、それを情け容赦なく切り捨てようとしているのに対して、私は怒りすら感じます。日々東京の地下鉄を止めている3万人余りの自殺者達の多くは、いつやってくるかも知れぬ生活の破綻の悪夢に怯えながら、危うい日々を綱渡りしてきた挙句に、ついに行き詰って、孤立無援の中で人生に悲しい決着を付けざるを得なかった人たちではないのでしょうか?
実は、以前にも同じ会でこの点についてもう少し突っ込んで意見を交わしたことがありました。その時のことを思い出しながら再録することをお許しください:
(A)さんが、まず「北九州市で、生活保護を辞退するように追い込まれ、結果として死んで行った人のケースなんかもそうですよね」とフォローしてくれました。(あの事件、まだ覚えておられる方も多いでしょう?)
私には、弱者を省みない資本主義より、マルクスの経済理論のほうが、より進んだ解決策を提起してくれる可能性があるのではないか、と言う、無知から来る素朴な期待もありました。
私なりに、自分の身の丈に合った解決の鍵を見つけているように思ってもいますが、それを提唱する前に、先ず人は一体どう考えているのかを知りたいと思いました。
すると、私の提起した問題のポイントを突く質問がすぐに返ってきました。
(B)さん曰く「あなたは、小泉・竹中の改革それ自体が悪い、間違っていると言いたいのか、それとも、ただ単にその結果生まれた富の再配分がうまく行っていないところが問題だと言うのか、どちらなのかをはっきりさせなければ」と言う鋭い指摘です。
私は、はじめからそのような点を明確に区別して考えていたわけではありませんでしたから、一瞬はたじろぎました。Bさんによれば、経済を成長させ、発展させ、国際競争力を高めるには、小泉改革は有効である、自分は大いに評価し、支持していると言うことのようでした。
私は、ただY子さんのような人が、大企業並みの休暇が与えられ、残業をすれば正当な手当てが支払われ、定年まで働けば、その老後は慎ましい生活が出来るよう福祉で約束されさえすれば、それで良かったのです。
(C)さんは「人生のスタートの段階で安易に流れ、将来のために我慢して努力しなかった人間が、後になってまともな仕事にありつけない、十分な収入が得られない、老後の不安が解消しない、と嘆いても手遅れ、そんなことは自己責任の範囲で解決すべきもの」自業自得で同情の余地なし、と突き放しました。
先の(B)さんは「単に富の再分配の問題なら、累進課税を強化するなり、福祉制度を見直したりすればいいわけだが、再分配の面で手厚い社会主義や共産主義では、誰も経済を成長させ、国際競争力を高めるために意欲を燃やさないだろう。だから、グローバル化した国際社会の中で、飽くなき利潤の追求に走る企業は、資本家は、お金は、税率と福祉負担のより低いところへ逃げて行くから、一国、一地域での社会保障の充実は、必ずしもその地域の貧困の問題の解決には繋がらないだろう」と言います。
(D)さんは「みんなが同じように能力を発揮し、努力をし、自由に競争するとすれば、勝負は最初の出発点でどれだけの資本 (例えば親から受け継ぐ財産、教育、機会等) を持っていたかで決まる。それは、本人の問題以前の要素で、貧困を単に個人の自己責任に帰してしまうことは出来ないだろう」といわれました。
ブログでこの会を知ったパリ在住の(F)夫人は、たまたまの一時帰国を利用して初めて参加されましたが、「文字通りの空中楼閣(集まった会場は東京の都心のデラックスな高層マンション上層階で実に素晴らしい眺望)で、おいしいご馳走の数々とアルコールを頂きつつ、貧困を論じるのには、なんだか後味が悪く空しく感じました」と率直に言われました。
私は、世俗の社会制度がY子さんのような例を救えないのなら、様々な階層のキリスト教信者がランダムに集まって、35人~50人の単位で親密な共同体を作り、各共同体において、みんな自分の所得の十分の一を目処に拠出して、それを必要なメンバー、不足している家族に再分配すれば、その共同体の中ではいわゆるワーキングプアーの問題はたちまち解消すると提唱しました。それは、たとえば、手取り月15万円の派遣社員は1万5000円を、月収300万円の人は30万円を拠出し、以下同様に皆が10%を出しあって創ったプールから、先の派遣社員は、例えば新たに10万円をもらって25万余りで生活する、子供が7人いて住居費や教育費が自分たちの給料で足りなければ、必要額をこのプールから汲み取る、老人を介護しているメンバーにもその中から足りるだけ補助をするといった具合です。
すると(E)夫人から、「神父様がおっしゃった小さな共同体で、それぞれが収入の一割を醵金、再分配ということ。そんなこと、日本で可能とお思いになりますか?出し渋る人が多いだろうし、受け取る側も施しを受ける気がして辞退するとか・・・・アラブ社会、フランスだったらできそうですが」というコメントがありました。
私は、アラブ社会やフランスには、もともと神がいる社会だからやりやすいには違いないが、日本でも、キリスト教の教えを正しく理解し、福音的な回心の道を受け入れた人々の間でなら、不可能ではないと思うし、同じ回心を前提とすれば、受ける側も、それを施しとして恥じることなく、家族的な共同体からの当然な支援として受け止めるしなやかさが期待できると思いました。現に、少数ながらこのような実験は日本でも始まり、機能し始めています。
E夫人は付け加えて、「ご出席の方々は、所詮恵まれた勝者ですもの、死ぬまで決して落ちこぼれることは無いでしょう。けれど、それをわきまえつつ、時々彼らの考えを聞くのは大変興味あるとは思います」といって、パリへ帰っていかれました。
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〔私なりの結論〕
資本主義的無神論も、社会主義的無神論も、共産主義的無神論も、本当の神を否定するからこの世に貧困の無いユートピアを築くことは決して出来ないだろうと思います。なぜなら、そこで君臨する神は、私の言葉で言えば、「マンモンの神」、「お金の神様」、「悪」の力でしかないからです。そこで働く法則は、どんなにうまくカモフラージュしても、結局は「貪欲」と他者を踏みつけて省みない「利己主義」です。
ローマ皇帝を神とし、その圧制をローマ軍の暴力装置で維持し、反抗する分子には十字架の恐怖で臨んだ2000年前の地中海世界で見られた奴隷制社会と、今の社会とは、基本構造においてそれほど変わっていないように思います。救いの見えない状態にあえぐ多数の貧困者を生み出しそれを切り捨てていく社会では、現状を根本的に変えるだけの力は、内部からは決して湧いてこないでしょう。
しかし、「隣人を自分のように愛すること」を学んだキリスト教徒の共同体の内部でならば、この世において貧しい人のいない社会を実現することはなんとか出来そうに思われます。その意味で、実践的キリスト教は、決して現実逃避の「阿片」ではなく、実効性のある貧困問題の解決策でもあると思うのです。
とは言え、現実のキリスト教会は、その理想からはあまりにもかけ離れては居ないでしょうか。いま日本のカトリックの教会に熱心に通っている現役の信者さんや教会指導者の聖職者たちにこの話をしても、先のパリからのご夫人のように、日本のカトリック教会の中ではそんな夢みたいな話、先ず無理でしょうね、と軽くいなされるのが落ちかもしれません。
しかし、ナザレのイエスは、回心して彼の福音を信じるように我々を招いています。もちろん、先ず私から始めなければならないでしょう。その上で、それに共鳴する人が続くなら、小さな福音的共同体の形成は可能かもしれません。そこでは、食べられない貧しい人、打ち捨てられた老人はいないはずです。
そうした、キリスト教的ミニ共同体が、細胞が分裂して増殖するように増えていくならば、多くの貧しい人が救いを求めてそこに集まってくるかもしれません。キリストから300年の間の初代教会も、実はそのようなものとして広がっていったのでした。
お金の神様に身も心も売り渡し、「マンモン」の奴隷としてこの世の栄華を誇る強者たちの目には、そのような集団の出現は、社会の秩序を覆す恐ろしい癌細胞のように映るかもしれません。だから、彼らからの迫害もあるでしょう。初代教会がまさにそのような状況にありました。キリスト教は、今また、そのような姿に帰るべき時だと思います。
上のような実験に参加している日本人のカトリック信者は、まだせいぜい数百人か、多くてもまだ1000人には達していないでしょう。しかし、世界10億のカトリック人口の中では100万人をはるかに越えているのではないかと思います。
60億の中の100万人は大海の中の一滴にしかすぎないかもしれません。しかし、私が近い将来テーマとして取り上げようと考えているアメリカのアーミッシュは全部集めても19万人ほどで、それでいて世界のキリスト教に強いインパクトを与えているのですから、それに比べれば決して小さい集団ではありません。
《 つづく 》
私はそんな知識豊でも何でもないので、とりあえず、自分が出来るマザーテレサの活動から初めています。神父様の案は、他の方々が話していた批判内容よりずっと分かりやすかったです。1割払う人はいるはずです。ですが、本来は教区教会に払っうべきものですから、教区から貰うのはどうでしょうか?
先日わたしたが出会った救済事業による共同体について書かせていただきます.以前,ある病院の院内学級の生徒が描いた Ophelia の模写のことを書かせていただきました.先日,その病院の同じ廊下で障碍のある方々の作品を観て感動し,その病院の近くにある児童福祉施設のことを思い出して,そこに歩いて行きました.新しい住宅地が並ぶところに出て,おかしいなと思い少し引き返して,施設にたどり着きました.以前から不思議だったことは,その施設も隣にある小中学校,病院,老人ホームも他の自治体のものであることです.偶然,施設から出てきた方がおられたので,その小中学校に地元の子供は入学できるかどうか尋ねたところ,できないとのこと.施設には建て替えの工事の予定が貼ってありました.また病院は大変老朽化していました.その一体の出入り口にはゲートがあることも以前からぼんやりと知っていました.不思議に思い,家に帰って調べると,次のようでした.明治時代に,ある市に大きな火災がおこり,御下賜金や寄付金が集まり,残ったお金で基金をつくり,やがて病院等の公共の事業になり,要救護者の激増などにより,その市からかなり離れた現在の地に病院を中心とした施設ができていったそうです.戦前のことです.当時はその地の所在地である市はまだなくおそらく相当の田舎だったようです.また,児童福祉施設の隣にある学校はその施設の児童のためのものでした.新しい宅地は,廃止された特別養護老人ホーム(現在は民間移管され近くに新設)の跡地にできたものでした.この地の病院と認知症のある人のための特別養護老人ホームは廃止されるそうです.この事業の初めには大手の新聞社二社も加わったそうです.ようやくこの一帯は共同体のようなものであったことを知りました.児童福祉施設は,軽度の情緒障害の子供も短期間入所する園でもあるそうです.このことを知り深く感銘を受けました.その市がある広域の地方公共団体には親と共に暮らすことができない子供も多く(3000 人程),委託された民間の事業所が養育里親を募集しています.先日,家の近くでその養育里親の案内のポスターを見ていた幼い少女がいました.かなり長い時間食い入るように見ていました.
無関心の罪から離れることができますように.