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菩 提 樹
西のふるさと、東のふるさと
(その-1)
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私は今年の2月中旬香港のお隣のマカオに行ってきました。1964年にフランスの貨客船に乗ってインドへ旅する途中、初めて寄港し上陸した「外国」が香港でした。その時に強烈な印象は、私のブログの「インドの旅から」シリーズでお読みいただけます。
しかし、マカオは今回が初めてでした。そこで私は、思いがけず菩提樹という札を下げた巨木をたくさん見ました。日本では大きくそびえる楠(くすのき)を知っていますが、菩提樹はあまり見たことがなかったような気がします。
幹には「假菩提樹」のエチケット 同じエチケットを付けた街路樹
菩提樹と言えば、すぐ心に浮かぶのはホイヴェルス神父様です。師はさまざまな機会に結構な美声で、シューベルトの菩提樹の歌を歌ってくださったからです。昭和の最後の雲水と呼ばれた曹洞宗の澤木興道老師にホイヴェルス師をお引き会わせしたときも、師は老師に菩提樹の歌を歌って聴かせ、二人はたちまち旧友のように親しくくつろがれたのを今も忘れることは出来ません。
そのホイヴェルス師は、「菩提樹」という題の一文を残しておられます。短いものですので、味わってお読みください。
「菩提樹」
ホイヴェルス著「人生の秋に」から
百科事典を見ますと、菩提樹を三つの点でほめています。第一に、その樹の勇ましい姿のために。菩提樹は、たまに25メートルから30メートルまでもそびえるのです。第二は、その花から取れるおいしい蜂蜜のために。第三は、そのやわらかい材質のために。木彫師は菩提樹の材質を好んで、聖母の御顔を掘るためには最もふさわしい材質だといいます。
私の父親も菩提樹が好きでした。父親は青年時代に、家の東に一本、南に二本、西に一本、菩提樹を植えました。西に植えた樹は特に繁っていました。私はギムナジウムのとき、その樹と生家を水彩で描き、その絵を遠方のウルスラ会の寄宿舎にいた妹に送りました。それは妹のホームシックを癒すためだったのです。また学校では、菩提樹の歌も学びました。“Am Brunen vor dem Tore・・・” この歌は私の一生の道連れになり、日本にまでついてきました。はじめ私は、日本には菩提樹もその歌もないものと思っていました。しかし今からほとんど半世紀も前のこと、ある日、立川駅のプラットホームで、ハイキングに行く若い人たちがこの歌をうたっているのを聞きました。私はとても嬉しく思いました。
昭和のはじめ頃、方々の大学で講演会がはやり、私たちも全国をめぐって唯物論の魅力とその矛盾について話をしました。ときどき話がうまくいかないと、結びにリンデンバウムの歌をうたいましょうかと、私は聴衆にききました。皆、急に嬉しそうな顔をして、どうぞよろしくお願いいたしますと言い、私がうたうと皆もいっしょにうたいました。このことは数年もつづいて私の習慣になりましたが、いつも同じ歌ですから、私はすこし恥ずかしく思いました。たまたま二、三年前、ベルリンのフィルハーモニーの団員三人が知人からのよろしくを伝えにやってきて、いろいろ話をしていました。その中の一人が、「人々はよく私たちにドイツの歌曲をうたってほしいと頼むが、そんなとき、一体何をうたったらよいだろうか」と言いました。いま一人が、「さあ “Am Brunen vor dem Tore …" はどうだろう」と答え、三人とも賛成しました。私はこれを聞いて、ちょっとびっくりしました。有名な音楽家でも、このような単純な歌をうたうなら、私がうたってもおかしくはないはずだと思いました。三人の音楽家はすぐに鞄をあけて、この歌の楽譜があるかないかを調べました。私はこれをみて、私なら楽譜がなくても困らないと思いました。ともかくこれから後は、安心してこの歌をうたうつもりになりました、声のつづくかぎり。
しかしその声が問題になったのです。あるとき聖堂で、ミサの説教中に突然声がでなくなりました。私はルカ伝の、ザカリアの話を思いだして彼の真似をしました。手をあげて口をさし、声が出なくなったと合図し、説教壇をおりて低い声でミサを終わり、また唱えました。そして、これで “Am Brunen vor dem Tore・・・” も終わりになると思いました。しかし不思議なことに、それからしばらくして、ふつうの話は嗄れた声のままでしたが、 “Am Brunen vor dem Tore ・・・” は、たぶん一生涯で一番きれいなはっきりした声でうたえたのです。
およそ二十年前のことです。桜町病院に勤めていたプンスマン神父は、樹木の専門家でしたので、菩提樹の種を播き、一年経った苗木を私に贈ってくれました。ちょうど秋の頃で、鉢に植えられた一本の苗木は春を待っているところでした。ところが、春になってもなかなか芽を吹きません。夏になってもそのままです。もうなかばあきらめていましたが、ようやく秋のはじめに芽を吹きました。ヨーロッパの種でしたから、日本の気候に慣れるのに時間が余計にかかったのでしょう。しかし、その後なかなか一本の幹も伸びてこず、小さな枝ばかり出していました。けれども、今年になってやっと一本の幹らしいものがのびてきました。大きさは一メートルにも及びませんが、盆栽のようなものです。満足な菩提樹になるまでには、あと二百年も三百年もかかるでしょう。その時には、私の西のふるさとドライエルワルデと、東のふるさと東京で、“Am Brunen vor dem Tore ・・・” が社会の中にこころよく響いたら幸いだと思っています。
この短編を読んで、シューベルトの歌曲「冬の旅」から、フィッシャーディスカウの憂いを秘めた「菩提樹」の歌声が聞こえてきませんか。ホイヴェルス師はこのドイツ民謡を、講演会で、学生を集めた勉強会で、素敵な声で何回も何回も歌われたものです。
Am Brunen vor dem Tore 泉に添いて
Da steht ein Lindenbaum 茂る菩提樹
Ich träumt in seinem Schatten したいゆきては
So manchen süßen Traum うまし見つ
Ichi schnitt in seine Rinde 幹には彫(え)りぬ
So manches liebe Wort ゆかし言葉
Es zog in Freud’ und Leide うれし悲しに
Zu ihm mich immer fort 訪(と)いしその陰
目を閉じると、ホイヴェルス神父様のなつかしい歌声が心に響きます。
さて、私が師の「菩提樹」について書く気になったそもそものきっかけは、今回のマカオへの短い旅でたくさんの「假菩提樹」の樹を目にしたからでした。
それにしても、なぜ私が急にマカオへ行く気になったのか、気になりませんか。それは、次回のブログ「菩提樹」(その-2)であらためてお話しすることにいたしましょう。