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バーチャルとスピリチュアルの挾間で
ホイヴェルス師の追悼ミサは無事行われました
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第43回の追悼ミサはコロナウイルス騒ぎのさ中にも関わらず、つつがなく執り行われました。
東京のカトリック教会では、不要不急の三蜜を避けるために、教会でミサが行われなくなってからすでに4か月目に入っています。
日曜日のミサに与かることは信者の義務であり、重大な理由なく日曜のミサに与からないことは罪であるとカトリック教会は教えてきました。今は司教の通達で信者はその義務から一時的に免除された状態です。
さて、私は、ローマの大学院で神学教授資格を取得する期間中、市内の教会でアルバイトしていましたが、ただメシ食いの居候神父の主たる仕事は、ミサのあいだ教会堂の後方左右にある告解部屋に長時間座って、善男善女の懺悔を聴くことでした。
教会堂の一方の告解部屋にはイタリア人のひげのお爺ちゃん神父が陣取っています。反対側の告解部屋に籠った私のほうには、ご贔屓の男性の信者さんたちが長い列を作ります。理由?それは、50才からイタリア語を習い始めたばかりのアジア人の神父(私)は、イタリア語がよくわからないから、難しい言葉を並べて煙に巻けば、何でもメクラ判ですぐに赦しをくれる、と考えたからです。
ところがどっこい、私は内心「バーカ!人間の犯す罪は7種類で、どこから入っても必ずそのどれかに辿り着く。どんなに難しい言い回しを使っても、人を殺したのでなければ、人の奥さんと浮気をしたとか、ストリートガールと寝たとか、若い娘に手を出したとか、マスターベーションに耽ったかぐらいは、経験豊かな日本人の年寄り神父には見え透いている!第一神様はすべてお見通しではないか!」と内心つぶやきながら、寛大に、たっぷり神様の赦しを大盤振る舞いでお分けして、あとは誰が何を言ったかケロッと忘れる。
話は脱線したが、私はおバーチャンたちの懺悔には手を焼くことがあった。5人に4人までが、開口一番、「神父さん、ワタシャ日曜のミサの務めを怠りました!」と言うなり、あとは亭主の罪をあれこれとあげつらう。」そこで私は言う。「あのネ!おバーチャン!旦那の罪はいいから、自分の犯した罪を告白しなさい!」「だから言ったでしょ!日曜のミサの務めを一回怠りました!」「それだけ?」「はい、それだけ!」と言って動じない。「では聞くけどネ、寝坊したの?」「いいえ、あたしャこれでも早起きで知られてるよ。」「じゃ、何かい?近所の男ヤモメと遊びにいったのかい?」「いえいえ、滅相もない!日曜の朝から教会にも行かずにそんなこと、とんでもない!」「じゃ、一体どうしたの?」「孫が熱出したもんで・・・!」「あのねー、おバーちゃん。熱のある孫を家に残して教会に来たもんなら、それこそ罪と言うものだ。罪にもならんことを最初に懺悔するから、自分の本当に罪にまで思いが届かなくなるんじゃない?!」「≪ミサに行きませんでした≫と告白するのを今後一切禁じます。嘘をついたとか、意地悪したとか、お金くすねたとか、嫁とケンカしたとか、他に何か言うこと思いつかないの?」・・・いやはや、これは、もうほとんど戦争です。
話を戻しますが、旧約聖書のモーゼの十戒の第3戒(出エジプト記20章8-11節)に「安息日を聖とすべし!」というのがあります。
小池都知事が言い出した「三蜜」を避けて、カトリックの教会でもミサが行われないと、信者の信仰生活の中心的な活動が停止してしまいます。それで、私は週に2回、ズームというアプリを使って信者さんたちにバーチャルなミサや聖書の言葉を届けることにしました。すると大きな変化がありました。日頃、体調がすぐれなかったり、教会が遠かったりして日曜のミサから久しく遠ざかっていたおばあちゃんたちが、スマホを頼りに嬉々としてズームミサに参加し始めたのです。
ところで、カトリックのミサの中では、後半に聖体拝領というのがあります。白くて丸くて薄いお煎餅のようなパンとぶどう酒の上に、神父がキリストの最後の晩餐で唱えた聖別の言葉を吐くと、それがキリストの肉と血に聖変化すると信じて、信者はそれを拝領します。ところが、ズームのミサではその聖体拝領に物理的に与かることができません。
しかし、教会というのはうまくできていて、そう言う場面を想定して、「霊的聖体拝領の祈り」というのを用意しています。要するに物理的にパンの形で聖体拝領をすることが出来ない場合は、この祈りを唱えることによって霊的にキリストの体を拝領することが出来るとしたのです。しかも、そこではバーチャルではあってもスピリチュアルには確かにキリストの体をいただいて神と一致できるという教えです。
ところが、普段熱心に共同体に参加し、手の上に物理的にキリストの体を戴いてそれを食べていた連中は、やっぱりバーチャルでは物足りない、早く物理的にキリストの体を頂きたい、そうでないと満足できない、と言い張ります。私は内心、あなたは物理的に聖体拝領しても、霊的にはうわの空でスピリチュアルにキリストと一致しなければ意味がないよ、と言いたかった。
前にもブログに取り上げたが、「コロナのロックダウンで神父のところに告白(懺悔)に行けない、どうやって罪の赦しを貰ったらいいのか」と文句を言う信者に対して、フランシスコ教皇は、「心配するな、そう言うときは直接神様に罪の赦しを願いなさい。そうすれば神様は直ちに赦して下さる」と言った。これは、罪の赦しについて、カトリックとプロテスタントが論争した時、プロテスタント側の教会が主張したことではなかったか?カトリックのトップの元イエズス会の教皇様がプロテスタントの見解に同調されたか、と私は内心意地悪くニヤリとした。従来カトリックの教会は、神父に直接懺悔しなければ罪は許されないー電話でもテレビ電話でもだめーと頑なに主張してきたのだから・・・。
コロナ騒動でバーチャルにしか聖体拝領できなくても、祈りを通してスピリチュアルに神と一致出来ればいいではないか。口ではフィジカルにパンを食べても、霊的に、つまり、スピリチュアルに神との一致が自覚されなければ虚しくはないか、と私はつぶやいた。
それはとにかくとして、去る6月9日のホイヴェルス神父様の43回忌の追悼ミサは、ソーシャルディスタンスをたっぷりと保ちながら行われ、皆さん久々に心行くまで物理的に聖体拝領をしてー願わくはスピリチュアルにも満たされてー満足して家路につきました。
緊急事態宣言は解かれ、あらゆるレベルの自粛要請もまもなく解除されます。カトリック教会も、久々に主日のミサの義務免除を停止することでしょう。しかし、今時どれだけの信者が、日曜日にミサに与からないことは教会の教えでは罪に相当する、ということを真剣に自覚しているでしょうか。
だから、ローマのおバーチャンのように、開口一番「ワタシャ日曜のミサに一回与かりませんでした!」と懺悔して、その後、延々と旦那の罪を神父に告げ口するよりは、全く罪の意識無しに教会の日曜のミサに来ない方がはるかにましかもしれません。
ああ、こんな時、ホイちゃんならーホイヴェルス神父様ならーなんと言われたことだろう、とその弟子を自任するする私は、甘える思いでつぶやいてみるのでした・・・。
というところにプロテスタントの私はニヤリとしました。
バーチャル云々ということはさておいて、要はコロナ禍のような危機の時こそ「ことの本質」が問われるのだなと思いました。
あっちでニヤリ、こっちでニヤリ、ですね。
危機の時こそ「事の本質」が問われる、仰る通りです。
これからも私の拙いブログ、ご贔屓に!