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お待たせしました。キコの二冊目の著書が翻訳出版されました。
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キコ・アルグエヨ著 「覚え書き」 谷口幸紀訳
イタリア語版 "Annotazioni" の表紙
写真は貧しき人々の間に住んでいた若いころのキコ
私は、新求道共同体というカトリック教会の中の新しい動きより前に、その創始者であるキコ・アルグエヨという男に個人的興味を抱いた。
フランシスコ教皇は、彼のことをどう思うかと記者に問われて、「彼についてはいろいろなことが言えるが、一つ確かなことは彼が聖人だということだ」と言い放ってしまった。私は、思わず両手で耳をふさいで、「教皇様、あなた、それを言っちゃあお終いだよ」と叫びたい、衝動にかられた。
だってそうでしょう!ローマ教皇と言えば、非常に厳格な特殊な条件のもとでとは言え、その人の語ることは聖霊(つまり神)に護られて、決して誤ることはない(教皇の不可謬性)と教義で定められているのだから。棺桶の蓋に最後の釘が打たれ、死が確定する前の生身の男「キコ」について、私が「彼は聖人だ」と思うというのとは重みが違う。それを、教皇の地位にある人が、軽く口にしてもいい言葉だろうか、と思った。
かく言う私は、かれの人柄に触れ、近しく観察して、もしかしたら、こういう人を「聖人」というのかもしれない、という感慨に浸ったことは度々ある。しかし、それにしても、全く型破りの聖人だ。
タバコは吸う、ワインも結構たしなむ、美味しいご馳走を喜んで食べる。およそ禁欲主義的な聖人のイメージからは程遠い。宣教のためなら、そして支援者が提供してくれるなら、ためらわずプライベートジェットで世界の空を飛び回る。絵を描く、大壁画も描く、まあ、それは、もともとプロの画家だから当たり前だが、評論家やジャーナリズムから酷評されると、哀れなほど落ち込む。人間味丸出しだ。旺盛に多数の歌を作曲をする、オーケストラ用のシンフォニーまでも作曲する、楽譜が読めないくせに・・・。建築を手掛ける、彫刻もする、本を書く。まさに、ルネッサンス期の巨匠を彷彿とさせる総合的芸術家である彼は、教会の今日までの聖人の系譜からは、全く逸脱した、異色中の異色な「聖人」というべきだろう。
その彼が、密かに自分のために霊的な内面を綴った「覚え書き」(Annotazzione) を書きとめていた。もともとは、公表、出版を意図して書かれたものでなかったことは、そこここを読めばすぐわかる。それが本になって出版されることになったとき、私はまだローマを生活の拠点としていた。そんなある日、キコは私の寝起きしているローマの神学校にやってきた。改装・増築なった神学校の聖堂正面に、バチカンのシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの「最後の審判」の大フレスコ画よりさらに大きい壁画を描くためにやってきたのだ。その機会に私は、直接彼に会って、一冊目の「ケリグマ」に続いて、今度の本も私が訳したいと思うがいいか、と申し出た。そして、彼は快諾してくれた。
こうして、私のこの本との取り組みは始まった。途中、一年ほどのスランプがあって中断したが、この春から気を取り直してようやく完成にたどり着いた。
キリスト者であるとは、真の回心とは、神との霊的一致、自分の罪人であることの自覚、愛することの奥義、キコの魂の内面の光と闇、愛、・・・私は訳しながらーそのために繰り返し読み返しながらー祈りながら、個人的に多くを学び、照らされた。翻訳に没頭していると、まるで自分が彼と同じ心境、同じ霊的状態に溶け込んだような錯覚を覚えた。 506の短い断章、その3分の1は詩の形で書かれている。初めから順を追って読むようにはなっていない。むしろ、手にするたびに、ランダムにパッと開いて目に留まった番号から読むがいいだろう。
十字架の聖ヨハネなどに代表されるカトリック霊性文学の古典の一冊として、末永く歴史に残るものになることは疑いない。
イタリア語版もスペイン語版も定価20ユーロだった。 それは、今日のユーロ=円のレートの中値で2347円だから、消費税が10%になったとしても、定価2000円+税 はいい値段ではないか。
ハードカバー B5版 352ページ。フリープレス刊
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〒195-0055東京都町田市三輪緑山1-5-12 谷口幸紀 まで。
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返信をありがとうございます。
意識にとらわれていないと思われるキコ先生の「覚え書き」を少しずつ読んでいきます。意識にとらわれないように、ということは押田成人神父様の生涯を通しての教えだと思います。
上記の本の p. 129 の 241 の番号が付されていることばが目に留まり、自身に対する肯定的言明と否定的言明に触れたように感じます(詩篇のようにその先もありますが)。また、上に引用いたしました 376 のことばと結びつくように感じました。このことから次を思い起こしました。全くの的外れであれば正教会の方々にも許しを請わなければいけません。
「正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方 主教カリストス・ウェア [著] (大阪ハリストス正教会 長司祭 ゲオルギイ)松島雄一 [訳] The Orthodox Way Bishop Kallistos Ware 新教出版社(2021)」の、第一章 神秘としての神、の、神秘としての神、に、
「畏れと驚異の感覚はしばしば『ヌミノーゼ(戦慄)』と言われる。ここから出発しないかぎり、人はほとんどその『道』を進めない。
・・・。
『既知』から『未知』へ出て行き、光から闇へ前進する。単純に、無知なる暗闇から知恵の光へ赴くのではなく、部分的なものに過ぎない知識の光から、途方もない深みであり、『無知の暗闇』としか描写し得ないはるかに深遠で偉大な知識へと進む。
・・・。
『戦慄すべき神秘(misterium tremendum)』を指し示すためには、肯定的言明とともに否定的な言明、ー 『神は~である』ではなく、『神は~でない』という言明 ー が必要である。否定という方法、否定神学的アプローチと呼ばれるものだが、この方法を使わなければ、神についての言明は全くお門違いの迷路に人を導いてしまう。神についての肯定的言明はどんなに正確でも、生きた真実には遠く及ばない。」 cf. pp. 13-14.
日本語の古語を辞書で調べると、しばしば口語による説明では正反対に近い意味を持つことがあることを知りました。例えば、「あはれ」。先日、YouTube で、ウクライナから避難してきた方の 3 歳の娘さんが
初めて幼稚園に行くときの動画を観ました。お母さまと叔母様は、娘さんがバスに乗って不安そうに行く姿を見て、うれしいけれども悲しい、という意味(実際にはことばでは表し難いようです)のことを仰っています。無理に古語で表すと、例えば、「いとほし」が思い浮かびます。キコ先生のことばは深くかつ意識的でないのかもしれないと感じます。
神父様のブログの記事「★ 私の『インドの旅』総集編 (9)田川批判ー2 2022-01-31 00:00:01 | ★ インドの旅から」に、02/03/2024 のコメントで引用いたしました、「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋 171 アントニー・M・コニアリス [著] 松島雄一 [訳] (2017)」を読んでいて、上の方のコメントのことを思い出して、上記の本を少しだけ読んでみました。
p. 234 の 376 と番号がある文が目に留まりました。カルメンさんの極度の鬱状態、健康に不安のあるマリオ神父様の大変な疲労。「そして私は・・・罪人だ。私には神の友情を失ってしまったように思われた。・・・」。承認された規約に対することば。et cetera. 大変激しく生々しいことばであると感じます。pp. 261-263 の 404 と 406 には「異邦人への宣教」についてのことがあることを見つけました。かって、プロテスタント教会の信者の方は聖書を携えて家族や仲間と異邦人の地に向かったと聞いています(詳しくは知りませんが)。彼らの信仰の強さには驚嘆いたします。そのことを思い起こしました。
魂の叫び、神との一致、人間の罪、苦悩、宣教への情熱、人間への愛、神への賛美、・・・多面的な祈りだとは思われませんか?
送金先はもうお伝えしてあったでしょうか?
ゆうちょ銀行 記号 番号
16380-2 02313551
タニグチ コウキ
又は、ゆうちょ銀行以外の金融機関からの場合は、
ゆうちょ銀行 店番:638
普通預金 口座番号:0231355
タニグチ コウキ
です。よろしくお願いいたします。
読み始めての印象は、どのページから開いても読みやすく、哲学書・神学書と言うよりは、《感じる本》(例えば、尾崎豊の『誰かのクラクション』のような)だと思いました。