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アメリカレポート ボストン-⑦
ペドフィリア(結論)
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前回の「お稚児さん」、「愛童症」の話を終わりにしてから、ボストンでのシンフォニーの開演に入ろうと思います。写真が売りの(それも自分で撮った写真だけで行くのが取り柄の)私のブログですが、今回は例外として「文字だらけ」をご辛抱いただきたい。(最後に借り物の写真一枚だけ添えました。)
仏教の資料を見ているうちに分ったことは、日本の近過去までは、仏教界を中心に、公家の世界でも、武家の世界でも、稚児の名のもとに幼児、少年、美少年を対象とした男色は日本文化の一部、社会生活の一部として受容され、半ば公然と行われてきたということだ。そして、弘法大師や親鸞聖人らの徳と権威を引き合いに出して、恥ずべき悪徳を、尊い仏の功徳の世界にすり替えて開き直ることさえあったということだろうか。(日本社会は、それを「悪」と断ずる確たるモラルの基準を欠いた世界でもあったのかもしれない。)
いずれにせよ、明治ごろからか、仏教では僧侶が妻帯するのが普通になったので、稚児の存在意義が薄まった。今も残っている永平寺型の修行道場はどうか知らないが、それももはや大きな社会問題になるほどの存在ではないのだろう。そして、美化されて形骸だけになったお稚児さんが、お祭りの世界に生き延びている。
ところで、インターネットの日本語のサイトには、キリスト教の世界の男色、愛童症に関する一般的な記事は特に見当たらなかった。英語や、ドイツ語や、イタリア語など、私にも何とか読める言語に範囲を広げれば、おそらくかなりの数がヒットするのだろうが、それまでする熱意も時間もない。(余談だが、「男色」で検索すると、中国語のサイトが圧倒的で、トップに何10件とヒットする。男色に関しては、中国には伝統的に広く深い世界があるのだろうか。)
カトリックについては、私なりに、多分こうでありそう、と思われるところを要約してみよう。
旧約聖書のモーゼの十戒と新約聖書のキリストの福音というモラルの確たる座標軸を持つキリスト教では、仏教の場合のように稚児を菩薩や観音の化身のように神格化したり、超越的なものと見做すような「すり替え」の余地は全くなかったものと思われる。
ヨーロッパ中世の大修道院は、一方では封建領地に小作人や領民男女を多く抱えた荘園を展開しながら、それ自体は女人禁制の、囲いの中の大規模男性集団であったから、男色や稚児寵愛は当然避けられない副産物としてあっただろう。女性が修道士の欲望の対象として密かに引き入れられ、または進んで忍び入ったり、修道僧が人目を忍んで娼館に通ったりも当然あっただろう。
宗教改革以降は、プロテスタントになったキリスト教の半分は、修道院を廃止したし、牧師は妻帯者になったから、表向き愛童症問題は解消したはずだ。
問題は、ローマカトリック教会の場合だ。
16世紀半ばのトリエントの公会議(反宗教改革の引き締め)で、カトリックの聖職者の独身主義は堅持されむしろ強化され、修道僧は清貧、従順、貞潔の3誓願で縛られ、仏教で言う「女犯」は当然罪とされた。しかし、確立された公然の社会風俗として顕在化することはなかったとしても、「男色」や「愛童症」は後を絶たずにあったと考えるのが自然だろう。
犠牲者としては、修道院ならノビス(修道誓願を立てる前の若い修練僧)や、ミサの祭壇で奉仕するアコリトゥス(少年の侍者)、そしてコーラスの歌隊少年らが狙われやすかったに違いない。世俗の司祭の養成過程における神学生、特につい最近まであった小神学校(小学生、中学生の年齢で入れる)の生徒たちも、危うい立場にあったかもしれない。日本でも長崎のキリシタンの末裔の貧しい子沢山の信者の家庭からは、口減らしもあって大勢の少年が「小神学校」に送られた。いずれの国も最近まで事情は似たり寄ったりではなかったろうか。
教会のジクジクした陰湿な翳の部分でありながら、それが長年にわたり大きな社会問題として顕在化することなく来たのに、近年急に “Pedophilia” 「性的虐待」 として大きく取り上げられ、カトリック教会の世界的スキャンダルとして糾弾されることになったのは何故だろうか。
それは、第二次世界大戦の終結後、世界の世俗化と共にグローバル化が急速に進み、伝統的な宗教、特にキリスト教離れ、社会の非キリスト教化が広まったことと無関係ではないと私は思う。
ここで突然「悪魔」の名を持ち出すと、私のブログの読者の良識層は退いてしまわれるかも知れないが、私は悪魔の存在を信じる。
悪魔は神の被造物の中で最高の霊的な存在、即ち、天使が堕落した姿だ。悪魔は自分より下位の人類が、神の愛によって救われていくのを嫉妬し、あらゆる狡知をめぐらしてそれを妨害し、人類を神から引き離そうと、昼夜休みなく働き続けている。
人間社会ではお金の神様「マンモン」として現存し、人々の魂を自分の奴隷にする。現代社会の世俗化、グローバル化も、突き詰めれば彼の働きの成果であり、彼は余勢いを駆って一気に勝負に出ようとしているのだ。
「悪魔」は受けを狙ったマスコミや、金儲け目当ての弁護士、カトリック教会を敵視するマフィアやフリーメーソンなどを総動員して、ボストンのカトリック聖職者による「性的虐待」事件をクローズアップして、ボストンのカトリック教会を経済的破綻、組織的壊滅に追い込み、世界のカトリック教会に打撃を与えようとしたのだと私は睨んだ。
しかし、そもそもアメリカのカトリック教会が腐敗堕落し、無視できないほどの数の聖職者が悪徳に染まり、問題が目に余るものとなっていた事実も否定できまい。
豊かになり、モラルが低下し、宣教の熱意を失い、停滞し、魅力を失って庶民や特に若い層が去って行った教会に、起こるべくして起こった現象ではある。
問題の根は、マスコミと信者たちの攻撃にさらされたロー枢機卿をはじめとし、ローマ教皇までも巻き込んだ、教会の高位聖職者たちの誤った対応、彼らの「罪」にあると私は考える。
個々の司祭の問題が顕在化すると、配置転換し、次の任地で同じことが起これば、また転勤を命じるだけで、なんら効果的な手を打たず、隠蔽し、いたずらに犠牲者を増やすだけの対応が、「行為そのものは容認されている」という空気を生み、それが悪習蔓延の温床となったのだろう。それが「菩薩」や「観音様」と言って良心と社会の目を誤魔化し犠牲者の苦しみを顧みない仏教の「方便」にも匹敵する罪深い対応であったとして、社会から糾弾されるのは当然のことではないだろうか。
修道院のような男だけの集団にとどまらず、およそ男性に結婚を断念させ女性との交接を禁止する司祭・聖職者の独身制=「女犯は罪」を堅持する限り、教会の司祭館に一人で住み、金と時間とプライバシーを十分に享受する独身神父の中に、愛童症の誘惑に負ける者が出てくるとしても、それは避けがたい自然の成り行きだろう。
ペルペトゥアと言う言葉があるが、それは終身奉仕の家政婦・賄さんのことを指す。それを神父が司祭館に住み込ませるのを信者たちが黙認してきた伝統は、イタリアでは今でも生きている可能性がある。私は日本でもその例を知っている。それをなんとも思わないその教会の信徒たちの頭は麻痺しているのだろうか。しかし、それだって、愛童症に比べればははるかに健康で罪が軽い。
モラルが高く、召命も多く、教会が活力に満ちている間は、そのような傾向の司祭志願者がいても、一人前になる前の神学校の共同生活にあるうちに気づかれ淘汰されるメカニズムが働くのだが、召命が激減し、聖職者が不足し始めると、辞められたら困る、辞めさせるなんてとんでもないと、神学校の段階で目をつぶられ、本来適さない性向の者までが聖職者に成れてしまうところに、そもそも問題があった。
「一時はどうなることかと思ったが、今は希望が湧いてきた」という、ボストン空港に着いた時にまず聞いた感想は、そういう背景をよく物語っている。
ロー枢機卿が退任した後を受けてボストンの大司教になったセアン・オマリー枢機卿は、教区の浄化を司直とマスコミの裁きに委ね、新求道期間の道とレデンプトーリスマーテル神学院を誘致し、それを梃に教区の再生と新しい福音宣教に乗り出した。私がローマで神学校生活を数年間共にしたトニー・メデイロス神父は、オマリー大司教の厚い信任を得て、レデンプトーリスマーテル神学院の院長に就任した。
今思い返せば、前教皇福者ヨハネパウロ2世の呼びかけで1993年にコロラド州デンバーで開かれた世界青年大会(World Youth Day)は画期的だった。
カトリックの若者の集いをアメリカで?プロテスタントが主流のアメリカで教皇の企てはきっと失敗するだろう、という大方の予想を覆して、世界中から50万人のカトリックの若者を人里離れたチェリークリーク州立公園の台地に集めた大会は、「新しい福音宣教」と言う言葉を生み出した奇跡の集会になった。私も、日本から新求道共同体の青年たちを同伴して参加し、その群衆の中にいた。
8月15日聖母マリアの祝日に行われた教皇の野外ミサの翌日、雪のロッキーの山並みに抱かれたデンバーのアメリカンフットボールのスタジアムを数万の若者たちで満たしたキコの召命の集会で、数百人の青年が宣教師・神父の道を目指して立ち上がるのを目のあたりにした来賓のデンバーの大司教は、その後でキコを捕まえて言ったという話を今でも思い出す。
文字通りではもちろんないが、「私は私の教区の神学校を閉鎖する。手の付けようもないホモの巣窟になってしまったからだ。そして、それを、キコ、あなたの手に委ねる。どうか、この心身の健康な若者たちでそれを満たして再建してほしい」と言う意味のことを言ったと記憶する。
同じことがその10年後にボストンでも必要になっていたのだ。無差別に志願者を受け入れ、いたずらに放置すれば、神学校はたちまちホモの温床になり、そこを卒業した神父たちの或る者は「性的虐待者」の傾向をはらんだ問題の神父に成長していく恐れがある。しかし、入り口段階で厳選し、ふさわしい健全な青年たちだけを受け入れ、その後も疑問のある不審な要素を養成課程でいち早く識別して排除していけば、そこを巣立っていく司祭たちにおけるホモの傾向を持った逸脱者の割合を、世間の男性の平均値の何十分の一にまで減らすことは現実に可能なのだ。
デンバーやボストンをはじめとして、今や世界の86か所に展開するまでに至ったレデンプトーリスマーテル神学院の姉妹校は、明日の教会の希望を担って今日も歩みを続けている。高松に開かれた7番目にレデンプトーリスマーテル神学院は、今もローマで健在で、いつの日にかその真価が正しく評価されて、日本に再上陸できる日を心待ちにしている。
最後に一言付け加えると、私のいるローマの神学院には、ローマ教区のために60人、日本のために20人弱、将来の中国の宣教に備えて20人余り、の神学生たちがいるが、常に2人一組で起居を共にし、週に2回以上、市内の教会の共同体で若い男女の信者たちと交わって揉まれ、男性だけの孤立閉塞した不自然な生活に陥らないように配慮されている。ホモの危険からは守られ、正常かつ健全な異性への関心と欲情は、祈りと使命感、召命感で制御される。それでも、多くの神学生は本能の欲求抑えがたく、払いのけようとしても、戦っても、不本意にも容赦なく襲いくる悩ましい想像や自慰行為にまみれて七転八倒の日々を送ることになる。
私は、若い神学生たちの告白(懺悔)を日々聞く立場にあるが、廊下ですれ違う時は溌剌とした姿の彼らの惨めな内面を目の当たりにして、痛ましい思いに圧倒されることも少なくない。性欲との戦いで躓き、心ならずも倒れる者もいる。それを励まし慰め勇気づけながら、告白に来て私の前に跪いてうなだれる若い神学生の手を取って、何度引き揚げ、立ち上がらせたことだろう。神様は、なんという過酷な日々をあなたに忠実であろうとする若い司祭、宣教者たちに課されるのですか、と叫び祈る毎日だ。
さて、この件はそろそろこの辺で終りにしたい。書いていて決して心が躍るテーマではなかった。
最後に、ウイキからお借りした写真を一枚だけ添付する。日本の浮世絵風版画の世界はもっとどぎつくいやらしいから、載せたら「ウサギの日記」が穢れると思ってやめた。
私は、この年(72歳)になるまで、話に聞いても、「まさか、嘘だろう、あり得ない」と頭の中で打ち消してきた世界だったが、今回のボストンの「愛童症」を調べるうち、この絵の世界は嘘ではない、現実だと思い知らされて愕然とした。
他の在来型の神学校はいざ知らず、私が養成を受けたレデンプトーリスマーテル神学院を出た神父たちに限って言えば、性欲を抑えきれず神父をやめて女性と結婚する者は稀に出ることはあっても(それは別に罪でも恥ずべきことでもない)、この写真の世界とだけは全く無縁のままいつまでも続いてほしいと祈るばかりだ。
このあと、10行余り間をおいて問題の写真を添えましたが、女性は多分見ない方がいいかもしれません。怖いもの見たさの好奇心の強い方は、自己責任で、どうぞ。ではカウントダウンしますよ。 いいですか~?
★ いーち!
★ にーい!
★ さーん! (やっぱり嫌だ、見られたくない。女性はここで引き返しましょう!)
★ しーい!
★ ごーお!
★ ろーく! (本当に先へ進むのですか?)
★ しーち!
★ はーち!
★ くーう! (もう一度お考え直し下さい!)
---!
★ じゅうーう! (もう、私は知りませんからね!!)
ジャーン!!
ハドリアヌス帝とアンティノウス
ローマ帝国五賢帝の一人に数えられるハドリアヌス帝と、その最愛の寵児アンティノウスの男色関係は、当時から半ば公然のものだった。この絵はハドリアヌスがエジプト視察旅行にアンティノウスを伴ったときの光景を描いたもの。エドゥアール=アンリ・アヴリル画「エジプトのハドリアヌスとアンティノウス」、画集『西洋古典好色文学入門』の第七図。(ウイキペディア「男色」より)
日本のお稚児さんや、美少年の喝食(かつじき=禅寺のお稚児さん)も、ボストンの Pedophilia も、行き着くところ、その内実はこの絵と変わるところがない。なんともおぞましい話ではないか。目を背けたくなるでしょう?
やれやれ(汗)! やっと抜けられた。
これからはシンフォニーツアー一筋です
乞うご期待 !
(終わり)
彼らは別に隠蔽したわけじゃあないと思うよ。
性欲との戦いで躓き、心ならずも倒れる者 が
告白に来て私の前に跪いてうなだれ ているのを
社会に、マスコミに、司直に 公表できるわけないやんか。
J.K.
告白した内容は、神以外には漏れないと思うから彼らは良心の扉を開いて告白する。直司に筒抜けならだれも告白しには来ない。
しかし、被害者の親から苦情が来たら、それ以上被害が広がらないように手を打つべきだったと私は思う。神父職を解いて、独身を護る義務から自由にしてあげる。病的な性癖なら、精神医学的な対応をするなど・・・
M.K.(女性)
単純に理解しがたい事です
悪魔も絵も登場して 終わりましたか
お疲れさん
今はインターネット ポルノの時代ですね
芸術新潮でも 浮世絵春画を特集し
公立の図書館に開架 ・・・
いやいや オジンで良かった
金星通過 別に変わったことはなかった
T.Y.
M.K.
映画公開に合わせて、ボストングローブが一連の記事をまとめた書籍も『スポットライト 世紀のスクープ カトリック教会の大罪』(竹書房)と題して邦訳刊行されました。気分の悪くなる部分もあり読了にずいぶんと時間がかかりました。
聖書者による児童虐待事件はその後も後を絶たず世界的広がりを見せ、2014年にローマ教皇謝罪。また2015年のアイルランドの憲法改正の国民投票での同性婚合法化や、その翌年のイタリアでの、同性カップル権利法成立の背景にも、聖職者の児童虐待による教会権威の失墜があるとの分析が報道に出ていました。
最近アメリカで放送され人気を博したクライムサスペンスドラマ「レイドノヴァン」では、主人公が子供のころ神父にレイプされたという設定で描かれていました。ドラマのプロットにこの問題が使われるというのは、いまだにアメリカではこの一連の事件の余韻が覚めていないことをうかがわせました。因みに製作・主演のリーブ・シュライヴァーは、映画『スポットライト』でも重要な役を好演しています。
いずれにせよ、この問題は約10年を経た現在も、完全に解決を見ているとは思えません。聖職者に子供時代にレイプされ、トラウマを負った人の救済はどうしたらいいのか、宗教とは何か?いろいろ考えると眩暈をおこしどうです。いかがお考えですか。
2017年4月 小金明 拝
谷口神父様
人造人間は?