これは実験です。実に危険なギャンブルです。目を楽しませるほどの写真はなく、べた文字の本文は今までで一番長いからです。読まれるか、読まれないかは、24時間経過して、「編集画面」の「アクセス解析」を開けば一目瞭然、読者の審判の結果がそこに出ているでしょう。失敗だったら、もうこのやり方は使えません。失敗でなかったら、時々こんなブログの書き方も使えるということでしょうか?
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世の終わりは近いのか(その-3)
-あなたの死から復活までの時間は?-
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このブログを書いているわたしは、人の子の種が拡散すべき宇宙の広大さと、宇宙空間を旅することのできる速さの限界から考えて、世の終わりは何億年も、それ以上も経たなければ来ないだろうと考えています。
とにかく、人類の歴史が数万年、長くても25万年ぐらいしか遡れず、文明らしいものが花開いてからでは4-5千年がせいぜいであることを思えは、世の終わりは途方もなく遠い未来のことのように思われます。
しかし、世界はそうであっても、私の寿命の残りがそう長くはないのは疑い得ない現実です。長くてもあと5年か10年。明日知れぬ命です。
心を入れ換えて最後だけはまじめな日々を、と頭では思っても、それも物憂く先送りしている間に、突然死神に追いつかれ、心ならずも浮世に「あばよ」を告げるのがせいぜいのような気がしてきました。
ままよ、その時はその時。死んでから冥土でゆっくりと世の終わりの日に神の前でする釈明、命乞い、の準備をすればいい。どうせ、死んでから世の終わりが来るまでには、気の遠くなるような時間があるのだから・・・・、と言うところで前回は終わりました。
ところがどっこい、そうは問屋が卸さないらしいぞ、と言うことに最近ハッと気が付いたのです。どういうことでしょうか。
この夏に私は日本で手術を受けました。手術室に入る前に、看護婦さんが、点滴や場合によっては輸血やらのために右腕の静脈に太い針を刺してくれたはずでした。手術室に入ると、手術台の上の大きな照明が印象的でした。麻酔薬はマスクからではなく例の針から静脈に入るらしく、執刀医と麻酔のドクターとの会話が聞こえてきました。
「麻酔が効いてきませんね?!」
「アッ、腕がパンパンに腫れてきた。針がちゃんと入っていないんじゃない?」
(静脈に入るべき麻酔液が組織に溢れているな、と思いました。)
「急いで左に差し替えましょうか?」(やや動揺した麻酔医の声でした。)
「いや、今やったら痛むから、麻酔が効いてきてからのほうがいい。」
(そして、その次に聞こえた言葉が)
「谷口さん、気が付かれましたか?」
と言う看護婦さんの声でし。見ると点滴の針はいつの間にか左腕に差し替えられていて、そこは手術室に行く前の元の病室でした。
聞いたら、約2時間が経過していました。しかし、私は麻酔が効いてから覚めるまで、時間の経過を全く意識していませんでした。
あらためてあの時の会話を正確に思い返してみると、
① 「急いで左に差し替えましょうか?」
② 「いや、今やったら痛むから、麻酔が効いてきてからのほうがいい。」
③ 「谷口さん、気が付かれましたか?」
この3つのセリフは、全く中断のない一つながりで、①→②→③へとよどみなく推移し、②と③との間に2時間の時間の経過があり、手術がおこなわれていたことを示す何の痕跡も介在していません。
全身麻酔によって一時的に5感が機能を停止すると、その間、人は完全な眠りに入り、夢も見ないし痛みも感じない。時間の経過を全く経験しない。そして、麻酔から醒めると、意識を取り戻し、感覚を取り戻し、再び時間の中に生きはじめる。
今回、麻酔から醒めるまでの時間はわずか2時間でしたが、これが大手術で7、8時間かかっていたとしても、結果は全く同じだったに違いありません。5感が封じられると、人間は時間の経過を知覚しません。麻酔が効いた瞬間と醒めた瞬間は一つに重なる同じ瞬間で、そこには飛躍も不連続もありません。SF未来冒険小説の主人公のように、人間が冷凍されたまま何万年も宇宙旅行をして、目的の星に近づいてから解凍されて意識が戻る時も、全く同じ体験をするでしょう。麻酔された肉体は覚醒を待って生きたまま待機しているが、心肺停止の冷凍冬眠状態でも肉体が保存されている点では似たようなものです。
他方、人間が死ぬと、肉体は機能を停止し、その後焼かれて煙と灰になるわけですが、死の瞬間からあとは、全身麻酔が効き始めたときと同じように、外界を知覚せず時間を全く経験しないでしょう。意識は消滅し何も経験しない。自我そのものも消滅したと言ってもいい。全くのブラックアウトです。これが、死の冷酷な現実なのではないでしょうか。そして、肉体が滅びてしまったら、その状態から醒める手だてもはや永久に失われてしまいました。
人間の意識は脳のうちに働き、外界や時間の認識は五感に全面的に依存しています。人間には不滅の霊魂があるなどと宗教は(キリスト教も)教えるが、霊魂が機能するのは肉体あってのことでしょう。肉体がなんとか無事でも、たかが麻酔一つで私の自我は、意識は、世界は、時間は完全にブラックアウトしたではありませんか。なんと儚いことでしょう。そのとき、主観的には私は完全に消滅し、無に帰したのではなかったでしょうか。死は肉体の単なる一時的機能停止などと言う生易しいものではありません。それは肉体の崩壊、肉体の喪失、魂と肉体の永遠の別れです。しかも、魂の自我も意識も一方的・全面的に肉体に依存しているので、肉体の機能停止と崩壊に伴って完全に無力化され、つまり、無に帰してしまうのです。魂だけがあったとしても無きに等しく、事実上無と化してしまったも同然です。その意味で、死んだら魂など当てにならないと言ったほうがよさそうです。
唯物論者、無神論者、科学的経験主義者の生死観はその意味で全く正しいのです。死ねば終わり、何にもなくなってしまって、ハイ、それまで。オ・シ・マ・イ!一巻の終わりです。
心中(しんじゅう)ものの田舎芝居ではないが、主人公が「ドボン!」とばかりに大川に身を投げる時のあの滑稽なセリフ「死んでも命がありますように。ナンマイダブ、ナマイダブ、ナマイダブ・・・・」は、生者の楽観的な期待を反映してはいるが、現実はそんな甘いものではありません。死んだら、黄泉に下ってのんびり、なんて悠長な話どころではないでしょう。黄泉なんて空想の産物。実在すると証明されたわけではありません。
リーマンなどの華やかな銀行業を去って、神父修行の道をうろうろ模索していた不安定な時代に、離婚して幼い息子を二人抱えた、若く美しいS・ゆり子さんと言う女性と知り合いました。才色兼備にパトロンがついて、中央線の沿線に画廊を任されて成功していました。しかし、早くに癌を発症し、長い入院生活を強いられました。私は彼女を洗礼まで導いたのですが、彼女は死を恐れ、特に肉体的苦痛を極端に恐れました。しかも、彼女の癌の末期には、その恐ろしい痛みが避けがたいものと予測されたのです。
幸い、小金井にある桜町病院のターミナルケアーホスピスに入ることができて、医師と本人の合意のもと、寿命を極端に縮めることのないぎりぎりの量までモルヒネを増やし、彼女は痛みをほとんど感じない朦朧とした意識の中で最後の日々を過ごすことになりました。
病院のチャペルでミサをして、聖別した小さい丸いパンを持参して、枕元で「ゆり子さ~ん!」と呼びかけると、閉じた瞼の裏で眼球が動いて、「は~い」と言う可愛らしい返事が、遠くの森の奥から響いてくるような細い声で返ってきました。全身麻酔と弱い意識状態との境界線上を彷徨っているかのような印象でした。そして、ある日、彼女のかすかな意識も死と共に無の世界へと消えていきました。
私の友人に理科系の頭脳の持ち主の自称無神論者がいます。彼は、身体機能が緩慢に死に向かって低下していく難病を抱え、それと上品に仲良く付き合いながら、「死は全く怖くない」と言います。私の全身麻酔が効いた瞬間から始まったあの状態が終りなく続くことを指して「死」と定義すると仮定すれば、今の私はその考えに完全に同意できます。むしろあんな楽なことはありません。
仮に、麻酔で眠っている状態の終わりのない延長と死とが同質のものだとすれば、そんなもの恐ろしくも苦しくもなんともありません。
「なんともない」、と言うのさえも正しくありません。なんとも「ない」、とか「ある」とか言う主体そのものもないからです。もうそこには何も存在しない、その状態を敢えて言葉にすれば、無、虚無、空と言うべきでしょうか。私もない、他者もない、世界もない、明るくもない、暗くもない。
しかし、彼は言います。死は全く怖くはないが、死を思うとき言い知れぬ「寂寥」を感じる、と。私もその彼に共感します。それはそうでしょう。死と共に私が無に帰するのなら、今まで生きてきた意味はどうなるのか。私の歴史は、私が存在したという証しは、その痕跡は全く無意味なものだったのか。私が愛していたもの、執着していたもの、心配したことも、煙のように消え去って何も残らないとしたら・・・・。今生きていること自体、なんと空しいことではないでしょうか。
もし私が死んで肉体が滅びるということが、麻酔によって五感が封じられるということ以上ではないとすれば、死は即ち私にとってすべての終わりで、その後は「無」のみがあると言わざるを得ないのでしょうか。そうです。「死」のあとには、全くぶっきらぼうに「無」があるのみです。
これが神父=谷口幸紀がたまたま手術の機会に経験した全身麻酔の体験から導き出した「死」の全理解とその最終結論でした。
建前上、「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」と説き、「隣人愛と赦し」を説き、「永遠のいのちの約束」を説いてきたカトリック神父の本音です。
八方から、この嘘つきめ、ペテン師、詐欺師、いかさま野郎、・・・・と言う罵声が飛んできそうですが、ここは、こそこそと舞台の袖に逃げ込みを決めるしかないようです。では、ごめんなすって!
そういえば、東京にM・七郎氏という友人がいます。彼は、私を彼の知人・友人に紹介するとき、大真面目な顔をして、彼独特のユーモアと照れを交えて、あたりかまわず「気を付けて下さいよ。こいつは似非神父、詐欺師、大ペテン師ですからね!」と、一言添える癖があるのです。私は、この場面では全くお手上げで、ただ苦笑いをかみ殺してその場をしのぐしかないのですが、いまこうして自分の本音を吐いてしまってみて、「はてな?彼はもしかして真実を語っていたのではなかったか?」とふと思い当たる次第です。
しかし、どうかお願いだからここで躓かないで頂きたい。話はまだ終わったわけではないのですから。是非とも次回をお楽しみに。見事な舞台のドンデン返しを見極めるまで、どうか最終評価をお控え願いたいのです。
(つづく)
コメントいろいろ出てきました。もっと増えるかもしれません。↓
躓きかけています(涙)
はやく続きを投稿してくださいね!
「我有り 故に 我思う」だったら大分違ってくるけどなぁ
J. K.
急いで次を書かなければなりませんね。責任を感じています。
ちょっと待ってくださいね。
きっと、希望を差し上げますから。
谷口
我あり 故に われ思う
ちょっと当たり前すぎませんか?
谷口
P. S. 我無くなれり いかにして思うを得ん?
が今問題になっています。
興味を持って文面を追っています。
生死観については、少なからず興味をいだいて、
色々な本を読んだ時期がありました。
私のイメージは、
見守っている家族が医師より死の宣告を受けいよいよとなった、
臨終の際は、自分の魂が部屋の天井に浮き、
横たわっている自分の肉体と、悲しんでいる家族を
第3者の立場から見られ、
自分がここにいるのに声を出しても、誰にも届かず、
やっと自分が死んだと気づく。
目の前にきれいなお花畑があり、
過去に逝った身近な人が迎えてくれたり、
死の瞬間、自分の一生の生い立ちが、フラシュバックして蘇ってくる。
仏教、キリスト教も、生前の善悪で地獄に行くか、天国に行かれるか、
はたまたエジプトの絵にも描かれているように・・・。
然し最近思う事は、
一旦は死刑の判決が出て、最高裁で無実になった人もいれば、
無実なのに死刑にあった人も、世界にはきっと沢山あった事でしょう。
真実は神のみぞ知るですが、結局は、
死んでからの神のお裁きに委ねるほかないということでしょうか・・・。
続きを早くね、
文中に子持ちの綺麗な女性が登場、どきどきですよ。
神父は体調がよくなかったんですか。
(T. A.)
それなら、死んで体が滅んで、五感を失ったら、何も知覚しなくなる。何億年の時の流れも知覚しない。そして、復活して五感を取り戻したら、また世界を知覚し自我も目覚める、と言うことを言ったのです。ベーダのことは知りませんが、私の言っていることは協議の擁護ではなく論理的帰結です。