日本民族の広がりと神道の広がりがピッタリ重なるように、ユダヤ教も、もっぱらユダヤ人のための宗教であって、一民族一宗教と言う点で、両者には非常に似通ったものがあります。
かつて、軍国主義日本が占領地に赤い鳥居を立ててまわったことを例外とすれば、もともと神道は日本固有の民族宗教であって、外国人を同じ信仰の恵みに招こうと熱心に努める宣教精神を欠いている点で、神に選ばれた選民意識の強い排他的ユダヤ教と共通するものがあります。
そして、このような特徴を持ったユダヤ教を信じる人々のことを総称して、古くから「イスラエルの民」と言われてきたのです。
イスラエルの民の成立
むかし、今のイラクのあたりにアブラハムと言う金持ちの老人がいました。彼はたくさんの家畜やそば女や奴隷たちに囲まれ、物質的にはなに不自由ない身でありながらも、この世的には最も不幸な男でした。なぜなら、彼には、遊牧民の常として、自分を葬ってもらうべき土地が無く、その上、自分の遺産を譲るべき血を分けた息子もいなかったからです。
万物を無から存在界に呼び出し、百数十億年の長い進化の過程の末に、愛を込めて今のような美しい世界を創造された神は、そんなアブラハムを選んで、個人的に語りかけました。恐らく人類史上初めての出来事だったでしょう。
神はアブラハムに「ウルの町を出て、自分ガが導き入れる場所へ行くなら、土地と息子を与えよう」と約束したのです。アブラハムはその約束を信じて旅に出ました。そして、約束の土地、今のパレスチナに入り、夫婦そろってすでに高齢であったにもかかわらず、神に対する信仰のゆえに、そこで奇跡的に一人息子のイザークを授かりました。
しかし、神は、一旦は待望の跡取りを恵んでおきながら、やっと育て上げたその一人子を、神への生贄として自分の手で殺して焼き尽くせと命じたのです。神のこのやり方は、一見したところ極めて理不尽に思われます。
それでも、アブラハムの神への信仰と従順は揺るぎませんでした。神のなさることは常に全て正しいとして、命じられた場所に祭壇を築き、彼の望みの全てであった息子を縛って短刀で刺し殺し、薪の上で焼き尽くす生贄として捧げようとしたのです。と、その瞬間、神の天使が現れ、「お前の信仰は神に嘉(よみ)された」と言って、押し止めました。(そのとき、アブラハムの心の中に、神は息子を蘇らせて必ず返してくださる、という復活信仰が、既に芽生えていたかどうか私には分かりません。)
危うく命を救われたイザークから、やがてヤコブ(後にイスラエルと名を変える)が生まれ、そのヤコブからイスラエルの12部族の族長となる息子たちが生まれました。その子孫は、神が約束したとおり、空の星、浜辺の砂のように増え、ユダヤ民族、すなわちイスラエルの民、を形成するに至りました。
新約のイスラエルの民
今から2000年余り前に歴史に登場したイエスは、ダビデ王の血筋の由緒正しいユダヤ人であり、イスラエルの民の一員でした。
イエスは、それまでモーゼの律法を厳格に、しかし、形式的に、守ってきたイスラエルの民の中にあって、その律法の真髄にあるものは天の父なる神の愛と憐れみであることを看破し、それを新しい教えとして説いたのですが、彼の前には、律法を旧態然とただ形式的に守ってきた民の指導者たち、つまり、ファリサイ人や律法学士たちが、立ちはだかったのです。
彼らの偽善を鋭くあばいたイエスは、公衆の面前で、歯に衣を着せぬ火を吐くような激しい口調で、時の宗教的指導者や権威者たちを「偽善者」、「蝮の裔(まむしのすえ)」と糾弾し罵倒しましたが、その結果、怒りに燃えた彼らは結束してイエスを十字架に追いやり、罪人として刑死させました。
一方、復活したキリストを神の子、待望のメシヤ、救い主、として信じた一部のユダヤ人達は、人種・民族の枠を超えて、次第にローマ人やギリシャ人を信者に加え、キリスト教を形成して行ったのであります。そして、それまでのユダヤ人と同じアブラハム、イザーク、ヤコブの唯一の神を信じるキリスト教徒の群れは、「新約のイスラエルの民」と呼ばれるようになりました。
神道やユダヤ教が排他的な民族宗教であったのに対して、キリスト教は、キリストの十字架の救いは、全人類、全民族に及ぶと説く、開かれた普遍的(カトリックの名はここから来る)宗教として広がっていきました。ですから、第三千年紀に生きる世界中のキリスト教徒は、人種、国籍、宗派を問わず、全てこの新約のイスラエルの民に属しています。
それに対して、キリストの時代までのユダヤ教を信じる一民族一宗教のユダヤ人達のことを、「旧約のイスラエルの民」と呼ぶことが出来ます。
「旧約」とはシナイ山の上で、モーゼが神から「十戒」の律法を授かったときに、神とイスラエルの民の間で結ばれた「契約」のことであり、「新約」とは、キリストが最後の晩餐のときに12使徒(イスラエルの12部族を象徴する)とその教えを受け入れキリスト教徒となる全ての人類との間で交わした「新しい契約」のことです。
ユダヤ教徒、つまり、旧約のイスラエルの民の場合、男の子は誕生からまもなく割礼を受けることになっていました。割礼とは、男根の包皮を切り取る宗教的儀式でした。それに対して、新約のイスラエルの場合は、男女を問わず、洗礼を受けてキリスト教に改宗した人のことを指します。
旧約の割礼に相当するものが新約の洗礼で、何れもユダヤ教、又はキリスト教に入信する加入(イニシエーション)儀礼と言われます。
不思議な思い違い
そこに私は、奇妙な思い違いがあることに気付きました。
つまり、旧約のイスラエルの民の場合、多くの人は割礼を受けたユダヤ教徒であるだけで、選民として自動的にヤーヴェの神の前に義とされ、救いに約束されたと錯覚している傾向が見られたことです。その錯覚は、取り分け民の指導者、宗教的権威を帯びた人たちの間で顕著だったようです。それは、新約のイスラエルの民の場合、多くの信者が洗礼を受けてキリスト教徒になった途端に、救いが確定し、天国の指定席券をあらかじめ手に入れたと錯覚するのと同じです。そして、そのことは、ユダヤ人が持っていた強烈な選民意識、優越感を、キリスト教徒たちがそのまま受け継いでいることと、無関係でないのかもしれません。私自身、半世紀以上前に、神戸のミッションスクールで洗礼を受けた際に、そのような刷り込みを受けたことをいまも記憶しています。
しかし、それは大変な思い違いではないでしょうか。
確かに、ユダヤ教集団に帰属すると言うことは、黄金の牛(お金の神様)やその他のもろもろの偶像を拝んでいた場合より、救いのドラマに一歩近づいたと言えるかもしれません。その意味で、洗礼を受けてキリスト教の教会に加入すると言うことも、キリストの約束した救いに預かる可能性を強く示唆するものではあるでしょう。たとえて言えば、救済劇の客席の傍観者の立場から、舞台でその劇を演じる配役の一人に加わったようなものです。
しかし、それはまだ救いの確定を意味していません。救いと言うものは、各自がその舞台の上でどんな役柄を自分で選び取り、いかに演技するかにかかっているのです。
そして、どうやらこのパターン、すなわち、「錯覚の構図」には普遍性があるらしく、いつの時代でも、何処でも、したがって、今日の日本でも、全く同じ図式に嵌ってしまうもののようです。
救いのドラマの舞台回し
ナザレのイエスの誕生から、3年間の宣教活動、そのクライマックスの十字架上の苦しみと、死と、葬りと、復活にいたるまでの壮絶なドラマは、偶像崇拝の異民族に取り囲まれたイスラエルの民を歴史的背景として展開されました。
その登場人物は、一方では、イエスと母マリア、そして12人の弟子、イエスに付き従う貧しい人々、病人、障害者を含む大勢の群集・・・・、他方では、王様、ユダヤ教の宗教指導者、祭司、ファリサイ人、サドカイ派、律法学士たち、さらに、ローマ帝国の総督、兵士たち、と言った具合です。
さて、第三千年期の曙、21世紀を生きる我々「新約のイスラエルの民」が登場する舞台はといえば、ここでも、その環境、登場人物の役回りなどにおいて、キリストの時代と全く同じものがあると言えましょう。
決定的違いは、前者がユダヤ人と言う一民族とパレスチナと言う一地域に限定されていたものが、現在は洗礼を受けたキリスト教徒と神々を拝む異教徒との対峙と言う舞台と客席の構造を保ちながら、配役は全世界の全民族に拡散した点にあります。とは言え、過去2000年の新約のイスラエルの民の歴史を通して、ドラマの舞台回しは、全てキリストの時の縮図である点では全く変わりありませんでした。
全ての役回りの者たち、すなわち、地上の権力者、宗教指導者、祭司、もろもろの教派、教団、律法主義者、ファリサイ人、貧しい大衆、病人、障害者など社会的弱者たちが、キリストの時代と全く同じように、どの時代、どの地域の教会においても、必ず一通り全員そろっています。
いつの時代にも、イエスの弟子としてイエスの教えを命がけで生きる信者のことを、もう一人のキリスト、姿を変えてその時代に生きるキリストと呼ばれてきましたが、アシジのフランシスコなどもキリストの生まれ変わりと見なす人たちがいました。キリスト教の歴史を通して、聖人と呼ばれた人たちは、何らかの形でその部類に属すると言っていいでしょう。
ですから、いつの時代にも、どの地域教会においても、もう一人のキリストが現れると、たちまち2000年前と全く同じドラマが展開するのです。
聖書を読むと、キリストを十字架に追いやって人たちは、その時代のユダヤ教社会では、神から正当に権威を委ねられ、民衆の指導的立場にあり、義しい人たちとして人々から尊敬されていました。彼らこそ、社会の制度を維持し、秩序を保つ使命を託されたものと自負している人たちだったと言えましょう。
ところが、その彼らが、本能的に自分たちとは違うと直感したキリストを前にしたとき、普段は互いにいがみ合っているのに、キリストを亡き者とする企みでは、その違いを超えて一致協力したのです。しかも、彼らは皆、自分達は神の前に正しいこと、なさねばならぬことを忠実に実行していると確信しているのです。
そして、自ら正しい、義しい、と信じて疑わない人たちが、神の霊からの新しい芽、時のしるし、希望の兆しを前にするとき、ほとんど本能的にそれを抹殺するために一致団結し、全勢力を投入することになるようです。
決定的なこと
イスラエルの民を舞台として展開されるのは、神の救済史のドラマです。そこで誰が救われ誰が救われないかの決定的な鍵は、当時のユダヤ教の場合で言えば、形式的に偽善的にモーゼの律法を守るだけに終わるか、イエスが招く回心を遂げ、良い実を結ぶか否かにかかっていました。キリスト教の場合も、ただ洗礼を受け、日曜日に教会に行くだけでよしとするか、キリストの山上の垂訓を真剣に受け止め、回心してキリストの教える福音の勧めを愛を込めて実践するかどうかにかかっているのです。
つまり、キリスト教への入信の加入儀礼としての洗礼を受けるということは、形式的には新約のイスラエルの民の一員になることを意味してはいますが、だからと言って、洗礼を受けた人が皆、自動的にお金の神様やその他の偶像崇拝の奴隷状態から解放され、迷信や淫祠邪教をきっぱりと棄てたことを意味しないということです。
キリストをめぐって、当時のユダヤ人社会は分裂し、激しく対立しました。彼は時の逆らいの徴でした。不思議なことに、特に、当時の社会において人々から尊敬されていた宗教指導者、有力者たちが厳しくキリストと対立したと伝えられています。
このように、いつの時代にも、新約のイスラエルの民の中に、新たに神の霊に導かれてキリストの精神を呼び覚ますものが現れると、その時代の指導者、有力者は、一致結束してそれを排除抹殺するために血道をあげるという構図の嵌ってしまうもののようです。
キリスト自身がその時代の対立のしるし、分裂の原因、躓きの石となったのですから、その例でいくと、今の時代においても、私たちの身近に、何が躓きの石、分裂の種、対立の徴として問題にされているかを探せば、そこにキリストの魂、新しい聖霊の息吹を発見し確認すことが出来るのではないでしょうか。