:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ある神父の告白

2017-01-06 21:27:40 | ★ ローマの日記

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 ある神父の告白

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「福島」のテーマばかりでは飽きられてしまう。ここらが話題を変える潮時ではなかろうか。

 

 

信者の告白

カトリックの神父は、信者の告白(懺悔)を聴くことになっている。今の教皇フランシスコも、聴罪司祭に一定のリズムで告白して、神に罪の赦しを願っているはずだ。聖教皇ヨハネパウロ2世は確かにそうしていた。

 

 

人は日に何度罪を犯す?

聖人でも日に7度罪を犯す、と昔の人は言う。では、我々凡人はいか程だろうか?70回?まさかそれ程でもあるまい。凡人も日に7度なのだそうだ。では違わないではないか?いや、そうでもない。聖人は自分が7度罪を犯したことを反省して神に赦しを願ってから床に就く。凡人は罪を犯したことにさえ気付かず、さっさといびきをかいて寝る。良心の鋭敏さの違いだ。

アンドレオッティ元イタリア首相もカトリック信者だった。だから懺悔をして見せていた。彼の聴罪司祭は神学校で私の同級生のホセ・カサス神父だった。大悪党の罪の聴き役にふさわしい聖なる若者だった。彼の謙遜な物腰と内面を見透かすような澄んだ瞳に、私は嫉妬を感じたものだった。

 

 

場末の教会の告解場(懺悔部屋)

神父になったばかりの頃、ローマの場末の教会で、論文を書きながら学生神父をしていたことがある。日曜の午前中は窮屈な薄暗いブースの中で、信者たちの懺悔をひたすら聴き続けるのが仕事だった。聖堂の反対側のブースにはイタリア人のベテラン神父が座っているのだが、私の人気は抜群で、男たちの多くは私のところにやってくる。アジア人の新米神父はイタリア語に弱いから、難しい言葉で遠回しに告白すればわからないだろう、という浅はかな計算だ。ところがどっこい、人間の犯す罪は7つのカテゴリーのどれかと相場が決まっている。どんな言い回しで煙に巻こうとしても、すぐばれることに気付かないのだろうか。この酔っ払いの、女たらしの、盗人の、噓つきの愚か者めが!

しかし、そういう私は「やれやれ、やっと俺より罪深い男の懺悔を聴いたわい!」と密かに溜飲を下げたことがまだ一度もない。この善良な人たち、なんと些細な罪を正直に告白するものか、とひたすら感じ入ってその日のお勤めを終える毎日だった。

 

 

「共同告解」または「集団懺悔式」

特別な仲間内の信者の共同体では、頻繁に共同告解(集団懺悔式)をやる。薄暗いブースの中で格子越しにヒソヒソやるのではない。

四角い部屋で、司式司祭と2-3人の手伝いの神父を一辺にして、一同は壁を背にしてコの字型に席に着く。聖書の朗読や説教や祈りが終わると、司祭は互いに距離を置いて部屋の中心にばらばらと立つ。信者たちはその司祭の一人に近づいて立ったまま対面で罪の告白をして、終えると司祭に前に跪いて赦しを受けてから席に戻る。衆人環視の中の告白だが、見ている側はギターに合わせて讃美歌を歌い続けるので、告白の内容はかき消されて聞き取れないように工夫されている。

 

 

 

私はこの共同告解式が大の苦手だ。私には人の懺悔を聴きながら、突然涙を流し始めるという、実にバツの悪い癖があるからだ。みんなの見ている前で、初老の神父に、若いきれいなお嬢さんが、肩触れ合うほどの距離で耳元に何かささやくと、私の目からツーッと涙が流れ落ちる。その娘もつられてポロポロ泣き始める。二人の間に何が起こったのか。悪い神父が彼女をいじめたのではないか。見守る周りの信者たちはそのスキャンダラスな光景に気が気ではない。

 

 

この突然の涙腺故障のメカニズムは、およそ次の通りだ。 

ふつう、人の良心の奥深い聖域はプライドと羞恥心に固くガードされていて、他人の前に曝されることはない。それが、私の前で、まるで神の前におけるかのように、彼女の良心の秘密、隠された罪があからさまになることがある。神父の服を着ているが、私はただの俗物にすぎない。その厳かで神聖な出来事を前にして畏怖の念に打たれる。その瞬間、神の霊が下ってその蔭が司祭と信者を覆うのを感じる。見えない神の手が、私と彼女に触れている、と言う確かな感触に感極まって私の涙腺が壊れてしまうのだ。 

彼女の魂もこの瞬間に神の恵みに満たされて、悪魔の呪縛から解かれて、涙と歓喜に包まれる回心の厳粛な瞬間だ。無限の憐みと、赦しと、愛である神の現存に触れ得た時のおののきと言えば伝わるだろうか。

誠に神父冥利に尽きる瞬間なのだが、人の懺悔を聴きながら神父が泣いているなんて、何が起きているのか見当もつかない傍観者を前にして、現象としてこんなにテレ臭い、絵にならない話もないものだ。

  

 

ある神父の告白

ところで、表題で「ある神父の告白」と言いながら、人の告白のことばかり書いていては片手落ちではないか?そろそろ自分の罪を告白して話を終わらせねばなるまい。

わたしがローマで老々介護をしていることは以前にもブログに書いた。私は77歳。相手は92歳の老司教様。普段100人からの若い学生で賑わう神学校に、クリスマス・正月休暇中は二人きりで籠城する。不便だが、冬場に高齢で足の弱った司教様の環境を大きく変えることはリスクを伴う。広い幽霊屋敷で3度の食事の世話は私の仕事。買い出しから皿洗いまで、主婦(夫)業の大変さが身に染みる。

食事の他に午後のお茶の時間も欠かせないセレモニーだ。司教様は一日中私以外に口を利く相手がいない。日本茶と羊羹でしばらく間を持たせる。たいていは私が司教様の思い出話の聴き役で時が流れる。実に心楽しいひと時なのだ。

だが、この冬、一度だけ、外出を理由にそのお茶の時間に失礼したことがあった。彼は何処へ何しに?とは尋ねなかったが、私が何か秘密を持ったことを感じたに違いない。以来、彼と一緒に居て、良心にとがめるところがあるが、今さら面と向って白状するわけにもいかない。だから、ブログの読者に告白しようと思う。

 

実はあの日、私はサーカスを見に行ったのだった。

たまたま、車で食料の買い出しに普段より遠出したとき、偶然サーカスのテントを見てしまった。私はこの手の誘惑に対しては並外れた弱さを自覚している。しかし、司教様にサーカスに行くからお茶の時間に付き合えないとはどうしても言えなかった。彼は自分の年齢と体力を忘れて、好奇心と負けん気だけは人一倍強い。自分もぜひ見たいと思ったら我慢が出来ない人なのだ。だからと言って連れて行くのは危険だ。杖にすがって立ち続けるのは5分が限界なのだが、車椅子は断固拒否するから始末が悪い。子供連れの母親やお爺ちゃんたちと一緒におしゃべりで暇をつぶしながら、切符を求めてのんびり冷たい風の中で長蛇の列に並べば、彼は5分と立っていられないし、慢性気管支拡張症で咳と痰の切れない彼は、痰を詰まらせて急性肺炎を起こしかねない。また、そのあと2時間もテントの中に座り続ければ疲労困憊して命取りになる危険性が現実にある。そんな彼を暖かい部屋に一人残して、行く先を告げずに私は出かけた。サーカスのテントの中で子供たちに交じって孤独にショーを眺めながら、良心は疼いた。司教様ゴメンナサイ。ああ、神様ゴメンナサイ!

 ( お・わ・り )

 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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ありがとうございます (田邉潔)
2017-01-07 22:06:33
谷口様
寒中お見舞い申し上げます
はじめまして
鎌倉在住の田邉と申します
ローマでは七草粥はお食べになりました
でしょうか
暖かいお人柄が伝わってきます
ありがとうございます

寒さ厳しく
くれぐれもご自愛下さい
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有難うございます (谷口幸紀)
2017-01-08 05:09:28
田邉潔さま
こちらこそありがとうございます。
七草粥、懐かしい言葉ですね。
ローマではなかなか機会がありません。
今日たまたま教皇の夏の宮殿、カステルガンドルフォに行ってきました。
寒くて噴水が凍っていました。
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