神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

玉桂山 華陽院 府中寺

2010-11-16 23:20:57 | 寺院
玉桂山 華陽院 府中寺(ぎょくけいさん けよういん ふちゅうじ)。浄土宗。
場所:静岡市葵区鷹匠2-24-18。静岡鉄道「日吉町」駅の南西、約50m。北側は静岡鉄道の線路に接し、東側と南側で面する道路はいずれも一方通行なので、注意。駐車場なし。
「華陽院」は、永正9年(1512年)に智短上人が開基した真言宗の寺院で、元は「智源院」と称していた。徳川家康公(幼名「竹千代」)は、8歳から19歳まで今川義元の人質とされ、駿府(現・静岡市)の式内社「小梳神社」の門前、少将井宮前町(現・静岡市葵区鷹匠町)に住まわされていた。日常生活の世話を祖母(生母の母)である源応尼(於富の方)から受けるとともに、住まいの近くの「智源院」で智短上人から文筆を学んだという。永禄3年(1560年)に源応尼は亡くなり(このとき、家康公は今川義元の尾張攻めに参加するため浜松にいた。)、「智源院」に葬られた。後年、家康公が大御所として駿府に引退したあと、源応尼の法名である「華陽院殿玉桂慈仙大禅定尼」から、寺の名を「玉桂山華陽院」と改め、あるいは「府中寺」と呼ぶようにさせた。また、このとき、宗派も真言宗から浄土宗に改宗したとされる。一時は、寺内に塔頭7宇(徳養院、鳳龍軒、正見庵、永林庵、一照院、智源院)があったという。境内には、源応尼(華陽院)の墓と並び、7歳で没した家康公の6女・市姫(一照院殿)の墓などがある。慶長14年(1609年)には、源応尼(華陽院)の50回忌が盛大に営まれ、以後参勤交代の際には各大名が必ず参詣をしたという。
こうしたことから、江戸時代には、当寺の境内地は広大(寺は南安東村にあった。)で、門前(当時の東海道)も賑わったといい、横田町の1丁を区分して「華陽院門前町」がつくられた。なお、明治5年には、町内にあった「誉田神社」に因んで「誉田町」と改称されたが、昭和15年に伝馬町と日吉町に分割された、という。


「静岡見て歩き」さんのHPから(玉桂山華陽院):http://www.asahi-net.or.jp/~kw2y-uesg/jiin/keyouin/keyouinn.htm


写真1:「華陽院」本堂。境内には保育園(「日吉町保育園」)がある。


写真2:徳川家康公の外祖母である源応尼(於富の方・華陽院)の墓


写真3:同6女の市姫の墓


写真4:境内にある「誉田八幡大神」の石祠。この地にあったという「誉田神社」の跡だろうか?
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