若宮八幡宮(わかみやはちまんぐう)(正式には、単に「八幡宮」)。主祭神:誉田別命。
場所:静岡市葵区浅間町1-40。「静岡浅間神社」の「神部神社」・「浅間神社」の北東、約100m。「石鳥居」正面の道路(通称:長谷通り)のすぐ北側だが、いったん約150m東に進み左折(北へ)、すぐまた左折(西へ)して正面。駐車スペースあり。
社伝によれば、崇神天皇7年(91年)、志貴家(大和国磯城郡出身)が式内社「神部神社」の神主を命じられ、この地に赴任した際、屋敷(私邸)内に稚日女尊(ワカヒルメ)と大己貴命(オオナムヂ)を勧請したのを創祀とする。その後、誉田別命(ホムタワケ)を併せて奉祭し、「若宮八幡宮」と称されるようになったという。「若宮八幡宮」と称する神社は多いが、①八幡宮の若宮、即ち応神天皇の子の仁徳天皇を祀るものと、②八幡宮の本宮(「宇佐神宮」・「岩清水八幡宮」等)から勧請した新宮、従って応神天皇を祀るものがあるとされるが、当神社は後者ということになる。創祀時期はともかく、明治21年(1888年)までは、志貴家が式内社「神部神社」の神主を世襲していた。
ところで、大和国磯城地方(現・奈良県桜井市)といえば、大和国一宮「大神神社」があり、大神(大三輪)氏の本拠地である。志貴家が大和国磯城地方の出身なら、当然、大神氏の一族と思うのが自然だろう。また、「静岡浅間神社」が鎮座する賤機山の西側には、広く「美和地区」と呼ばれる地区がある。式内社「神部神社」の祭神が最初から大己貴命であったかは不明であるが、もし志貴家の伝承が正しいなら、「大神神社」の祭神は大物主命、即ち大己貴命の別名であるから、式内社「神部神社」の祭神が最初から大己貴命だったかもしれない。もし、そうなら、「神部神社」という名は「ミワベ」であったかもしれない。
さて、現在、当神社の境内で目を引くのは大きな楠の木で、幹周囲約10m、推定樹齢は千年以上(当神社では2千年としているが。)とされる。徳川家康も、鷹狩り等の途中でたびたび訪れ、木陰で休んだという。静岡市の指定天然記念物。
写真1:「若宮八幡宮」正面
写真2:境内の大クスと社殿
写真3:「駿河国総社宮内神社」。「若宮八幡宮」の南隣にあり、「長谷通り」に面する。詳細不明だが、同じ敷地にある美容院「しき」は、式内社「神部神社」旧社家の志貴家の方が経営されているらしい(第90代とか。)。
場所:静岡市葵区浅間町1-40。「静岡浅間神社」の「神部神社」・「浅間神社」の北東、約100m。「石鳥居」正面の道路(通称:長谷通り)のすぐ北側だが、いったん約150m東に進み左折(北へ)、すぐまた左折(西へ)して正面。駐車スペースあり。
社伝によれば、崇神天皇7年(91年)、志貴家(大和国磯城郡出身)が式内社「神部神社」の神主を命じられ、この地に赴任した際、屋敷(私邸)内に稚日女尊(ワカヒルメ)と大己貴命(オオナムヂ)を勧請したのを創祀とする。その後、誉田別命(ホムタワケ)を併せて奉祭し、「若宮八幡宮」と称されるようになったという。「若宮八幡宮」と称する神社は多いが、①八幡宮の若宮、即ち応神天皇の子の仁徳天皇を祀るものと、②八幡宮の本宮(「宇佐神宮」・「岩清水八幡宮」等)から勧請した新宮、従って応神天皇を祀るものがあるとされるが、当神社は後者ということになる。創祀時期はともかく、明治21年(1888年)までは、志貴家が式内社「神部神社」の神主を世襲していた。
ところで、大和国磯城地方(現・奈良県桜井市)といえば、大和国一宮「大神神社」があり、大神(大三輪)氏の本拠地である。志貴家が大和国磯城地方の出身なら、当然、大神氏の一族と思うのが自然だろう。また、「静岡浅間神社」が鎮座する賤機山の西側には、広く「美和地区」と呼ばれる地区がある。式内社「神部神社」の祭神が最初から大己貴命であったかは不明であるが、もし志貴家の伝承が正しいなら、「大神神社」の祭神は大物主命、即ち大己貴命の別名であるから、式内社「神部神社」の祭神が最初から大己貴命だったかもしれない。もし、そうなら、「神部神社」という名は「ミワベ」であったかもしれない。
さて、現在、当神社の境内で目を引くのは大きな楠の木で、幹周囲約10m、推定樹齢は千年以上(当神社では2千年としているが。)とされる。徳川家康も、鷹狩り等の途中でたびたび訪れ、木陰で休んだという。静岡市の指定天然記念物。
写真1:「若宮八幡宮」正面
写真2:境内の大クスと社殿
写真3:「駿河国総社宮内神社」。「若宮八幡宮」の南隣にあり、「長谷通り」に面する。詳細不明だが、同じ敷地にある美容院「しき」は、式内社「神部神社」旧社家の志貴家の方が経営されているらしい(第90代とか。)。