神が宿るところ

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補陀落山 鉄舟寺(駿河七観音・その5)

2011-02-04 22:02:20 | 寺院
補陀落山 鉄舟寺(ふだらくさん てっしゅうじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡市清水区村松2188。県道198号線(駒越富士見線)沿い、「竜華寺」交差点(清水第四中学校の角)の北西、約300m。駐車場有り。なお、宝物殿入場は有料。
寺伝によれば、推古天皇の治世(在位:593~628年)、秦川勝の子、久能忠仁が有度山に狩に出かけたとき、杉の大木から光を発しているのが見えたので、これを射落としたところ、黄金製の五寸余の千手観音像であった。これを山中の平地(現・「久能山東照宮」の鎮座する場所)の小堂に祀ったのが最初である。養老7年(723年)、行基菩薩が7体の千手観音像を作り、そのうちの1体を「久能寺」本尊とし、再興した。黄金製の千手観音像は、その本尊の胸の中に納められた、という。その後の詳細は不明だが、少なくとも中世には、園城寺(三井寺)末の天台宗寺院「補陀落山 来迎院 久能寺」となっており、最盛時には寺中360坊という駿河国を代表する大寺院となっていた。因みに、1223年成立?の紀行文「海道記」にも当寺の様子が描写されており、「三百余宇の僧坊・・・」とも記載されているので、まんざら大袈裟でもないようだ。また、山号も、かなり古くから「補陀落山」と称していたようで、梵語のポータラカ=観音が住む南方浄土の信仰があったらしい。
当寺も学問道場として有名で、「東国の叡山」と呼ばれ、後の聖一国師(京都の臨済宗大本山「東福寺」開山。1202~1280年)は、5~18歳の間、当寺で修行した。また、文治2年(1186年)には西行法師が鎌倉に下る途中に当寺に立ち寄り、「涙のみ かき暮れさるる 旅なれや さやかに見よと 月は澄めども」という歌を残している。
しかし、永禄11年(1568年)、武田信玄が駿河国に侵攻すると、当寺を有度山東麓の現在地に移転させ、跡地に駿河支配の拠点として「久能城」を築いた。その後、徳川家康公の支配に移り、その死後は「久能山東照宮」の神境となったため、当寺が元の場所に戻ることは不可能になった。また、武田信玄により、当寺は真言宗に改宗させられたという。江戸時代を通じて存続はしていたが、次第に寺勢は衰え、明治初年の廃仏毀釈によって打撃を受けて廃寺同然となった。これを惜しんだ山岡鉄舟が、明治16年に臨済宗「鉄舟寺」として再興した。
「久能寺」という名は無くなってしまったが、秦氏の創建という伝承があること、観音堂本尊の千手観音像は奈良~平安時代初期のものとされること(静岡県最古クラス)など由緒の古さは確か。また、国分尼寺が衰退した後、書写された「大般若経」が当寺に施入されたことなど、中世には、駿河国で最有力の寺院であったと思われる。また、その「補陀落山」という山号からしても、「駿河七観音」の中心であったことがうかがわれる。


写真1:「鉄舟寺」山門


写真2:境内の山岡鉄舟像


写真3:山上の観音堂(行基菩薩ゆかりの千手観音を祀る。)


写真4:観音堂からの清水港~富士山の眺め
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