神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

鷲峰山 霊山寺(駿河七観音・その7)

2011-02-15 22:14:06 | 寺院
鷲峰山 霊山寺(じゅうほうさん れいざんじ 又は りょうせんじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡市清水区大内597。県道67号線(静岡清水線、通称:北街道)沿い、「ヤマザキYショップまつなが酒店」のある交差点を北西に入る。少し進むと、小川(大内観音沢川)沿いのとても狭い道路となるが、かまわず進むと左手に「大内浅間神社」があり、その先に駐車場がある。ここからは石段となる。この石段は、観音の「三十三化現」に因んで三十三曲がり、途中6基ある丁石は「六波羅蜜」を意味するという。
寺伝によれば、天平勝宝元年(749年)行基菩薩の開創で、「駿河七観音」の1体が安置されたという。その後の状況は不明であるが、国指定の重要文化財となっている仁王門(写真1)は室町時代の永正13年(1516年)の建築で、県内で2番目に古い建造物である。元々は現在地より東の山上(「古御堂」という場所)にあったというが、火事で焼失したため村人が用材を用意したところ、いつの間にか峰を一つ越えた現在地に移されていた。これは、当寺本尊の千手観音が現在地への移転を望み、金剛力士(仁王)に用材を運ばせたのだ、という伝説が残っている。また、地元の大内地区には「大木」姓の人が多いが、これは駿河七観音の元になった大楠に因むという。
真言宗寺院となったのは平安時代とされる。いわゆる密教の山岳寺院であるが、山麓に数坊あり、山上の寺は「奥の院」だった可能性がある。慶長5年(1600年)元識法印の再興とされるが、これは山麓に「寿福院」という本坊(別当)があったが、当時の同寺の住持が浄土真宗に改宗してしまったことで、元識法印が入山して再興したということがあったらしい(因みに、その後「寿福院」は「無量院 寿福寺」となったが、駿河大納言忠長改易事件に連座して廃寺となったという。)。現在は古義真言宗、高野山無量光院の末寺であるが、無住のため、「音羽山 清水寺」(静岡市葵区音羽町)が管理している。
当寺は、「駿河七観音」のなかで最も山岳寺院の趣きを残している。南は草薙、東は清水港を見下ろす位置にあり、観音霊場巡礼ばかりではなく、かつては雨乞いにも霊験があるとされて農民の信仰を受けた。また、所在地の山は「帆掛山」といい、昔は山上に一本松があって、沖の漁師の目印になったという。こうしたこともあって、現在も、有度・三保・興津辺りまで観音信仰が広がり、「霊山寺」というより「大内観音」(オーチのカンノン)のほうが通りが良いらしい。
さて、「駿河七観音」を巡拝してきたが、行基開創(または中興)の伝説に由来するが、行基が駿河国を巡錫したという記録はなく、あくまでも伝説に過ぎない。ただ、これらの寺院に伝わる仏像の中には奈良時代~平安時代初期の頃の作というものがあることも事実である。そして、こうした古寺のネットワークがあり、国分寺(=国の仏教統制)が衰退していく中で、替わって自らの権威を高める手段としても、「駿河七観音」の伝説が作られたのだろうと思う。この伝説が作られた時期は不明だが、中村羊一郎氏は「駿河七観音の伝説は、やはり江戸時代になってから現在の形にまとめあげられたのであると思われる。すなわち、行基ゆかりの伝説をもつ古い寺、それも江戸時代に存在したもの(徳願寺と増善寺は中世に衰退したが今川氏の保護で再興)を七つ選び、観音霊場巡りの中核的存在にしたのだろう。これらの寺がいずれも府中(静岡市)周辺部の、それも風景の好い所にあることは慰安を兼ねた霊場巡りにいっそうの楽しみを与えたに違いない。」という「大胆な推測」をしている(「安倍川~その風土と文化~」)。今も昔も風景や桜などの花が美しい場所が多い、ということは間違いないところである。


写真1:「霊山寺」仁王門


写真2:仁王門を入ると右手に鐘楼、奥に本堂。春になると、しだれ桜が美しいらしい・・・


写真3:本堂


写真4:石段の途中にある「仁王の力石」。この石を踏むと、疲れが取れるという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする