伝・織田信長公の首塚(でん・おだのぶながこうのくびづか)。
場所:静岡県富士宮市西山671。富士川沿いを北上し、JR身延線「芝川」駅付近から県道75号線(清水富士宮線)で北へ約5km。「富士山 本門寺」(通称「西山 本門寺」)境内。駐車場有り。
「西山 本門寺」は、康永2年(1343年)、日代の開山になる寺院で、法華宗興門流の本山。日蓮を宗祖とし、本尊は「日蓮聖人御真筆」とされる。第18代日順のとき、後水尾天皇の姫君常子内親王の帰依を受け、当寺に後水尾天皇の尊牌(位牌)を納めたため、下馬下乗の禁札を門前に立てることを許されたという。
さて、当寺本堂の裏手に「織田信長公の首塚」がある。織田信長は、明智光秀の謀反により、天正10年(1582年)、京都・本能寺で殺害された(本能寺の変)。遺体が発見されなかったこともあって、本能寺では死なずに脱出したのではないかとの説もあるが、「彼(信長)はどのように死んだかは判っていない。・・・毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかった・・・」(ルイス・フロイスの「日本史」(松田毅一・川崎桃太訳))というのが史実のようである。
英雄が志半ばで亡くなるのを惜しむのが世の常なのだろうが、有名なところでは、源義経が大陸に逃れてチンギス=ハンになったとか、信長を討った明智光秀が南光坊天海僧正となって徳川家康公を助けたとか、比較的最近でも、西郷隆盛やアドルフ・ヒトラーにも生存説があった。流石に、信長の場合、生存説には何ら根拠はないが、信長公の廟所・墓所は各地にある。現代人の感覚だと、墓所には当人の遺骨が納められていると思うのが当然だが、かつては故人の縁のある場所などに立てた供養塔も墓所と称するケースが多かった。信長が焼き討ちしようとした「高野山 金剛峯寺」(和歌山県高野町、高野山真言宗総本山)境内にも「信長の墓所」があることは比較的知られているのではないかと思うが、これは供養塔である。一方、「蓮台山 阿弥陀寺」(京都市上京区、浄土宗)には「織田信長公本廟」があり、信長の首が埋葬されているという。これは、信長が生前帰依していた「阿弥陀寺」の清玉上人が、本能寺の変を知って駆けつけたが、既に信長は切腹していた。そこで、清玉上人が首だけを寺に持ち帰り、埋葬したものとされる。後に、豊臣秀吉が、信長の遺骨が「阿弥陀寺」にあると聞いて、法事を行うように求め、法事料として300石の朱印が下されたが、清玉上人が受取りを拒否したため、秀吉は怒り、「龍寶山 大徳寺」(京都市北区、臨済宗大徳寺派大本山)の塔頭寺院「総見院」内に信長廟を建立させた、という。ほかにも、「本能寺」(京都市中京区、法華宗本門流大本山)、「正法山 妙心寺」(京都市右京区、浄土宗妙心寺派大本山)、「神護山 崇福寺」(岐阜県岐阜市、臨済宗妙心寺派)、「高岡山 瑞龍寺」(富山県高岡市、曹洞宗)などにも廟所・墓所がある。また、信長が建造した安土城二の丸跡(滋賀県近江八幡市)にも廟所がある。これは、信長の死後、安土山には埋蔵金があるとの噂が立ち、山に入るものが多かったが、武士の亡霊に襲われて奇怪な死に方をする者が続出した。このため、秀吉が安土山への入山を禁止し、信長の霊を供養するため、安土城に廟所を建てたものという。
さて、長々と書いてきたが、「西山 本門寺」の首塚には次のような話が伝えられている。即ち、本能寺の変で討死した信長の首は、囲碁の名人・本因坊日海の指示により、原志摩守宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ち出し、当寺に納めて首塚を築き、傍らに柊(ヒイラギ)を植えたというもの。このヒイラギの木は、根回り4.6m、高さ17m、樹齢は推定500年という大木(静岡県指定文化財)である。ヒイラギの葉にはトゲがあるのが特徴だが、老樹になるとトゲがなくなるといい、この木にはトゲがない。
上に書いたように、信長の首が埋まっているとは思えないが、黒門前の禁札などにみるように、京都とのつながりが深かったことが窺われる。
参考文献:信長の首塚については、志村有弘著「神ともののけ」(平成11年9月)ほかに依る。
写真1:「西山 本門寺」黒門(写真が小さく、見難くて恐縮)。下馬下乗の禁札がある。ここから、緩やかだが上りの長い参道があり、本堂まで約800m。
写真2:本堂。境内で落ち葉焚きしていて、その煙が漂っていた。
写真3:本堂裏の「信長公首塚」の石碑とヒイラギ
写真4:信長公廟所
場所:静岡県富士宮市西山671。富士川沿いを北上し、JR身延線「芝川」駅付近から県道75号線(清水富士宮線)で北へ約5km。「富士山 本門寺」(通称「西山 本門寺」)境内。駐車場有り。
「西山 本門寺」は、康永2年(1343年)、日代の開山になる寺院で、法華宗興門流の本山。日蓮を宗祖とし、本尊は「日蓮聖人御真筆」とされる。第18代日順のとき、後水尾天皇の姫君常子内親王の帰依を受け、当寺に後水尾天皇の尊牌(位牌)を納めたため、下馬下乗の禁札を門前に立てることを許されたという。
さて、当寺本堂の裏手に「織田信長公の首塚」がある。織田信長は、明智光秀の謀反により、天正10年(1582年)、京都・本能寺で殺害された(本能寺の変)。遺体が発見されなかったこともあって、本能寺では死なずに脱出したのではないかとの説もあるが、「彼(信長)はどのように死んだかは判っていない。・・・毛髪といわず骨といわず灰燼に帰さざるものは一つもなくなり、彼のものとしては地上になんら残存しなかった・・・」(ルイス・フロイスの「日本史」(松田毅一・川崎桃太訳))というのが史実のようである。
英雄が志半ばで亡くなるのを惜しむのが世の常なのだろうが、有名なところでは、源義経が大陸に逃れてチンギス=ハンになったとか、信長を討った明智光秀が南光坊天海僧正となって徳川家康公を助けたとか、比較的最近でも、西郷隆盛やアドルフ・ヒトラーにも生存説があった。流石に、信長の場合、生存説には何ら根拠はないが、信長公の廟所・墓所は各地にある。現代人の感覚だと、墓所には当人の遺骨が納められていると思うのが当然だが、かつては故人の縁のある場所などに立てた供養塔も墓所と称するケースが多かった。信長が焼き討ちしようとした「高野山 金剛峯寺」(和歌山県高野町、高野山真言宗総本山)境内にも「信長の墓所」があることは比較的知られているのではないかと思うが、これは供養塔である。一方、「蓮台山 阿弥陀寺」(京都市上京区、浄土宗)には「織田信長公本廟」があり、信長の首が埋葬されているという。これは、信長が生前帰依していた「阿弥陀寺」の清玉上人が、本能寺の変を知って駆けつけたが、既に信長は切腹していた。そこで、清玉上人が首だけを寺に持ち帰り、埋葬したものとされる。後に、豊臣秀吉が、信長の遺骨が「阿弥陀寺」にあると聞いて、法事を行うように求め、法事料として300石の朱印が下されたが、清玉上人が受取りを拒否したため、秀吉は怒り、「龍寶山 大徳寺」(京都市北区、臨済宗大徳寺派大本山)の塔頭寺院「総見院」内に信長廟を建立させた、という。ほかにも、「本能寺」(京都市中京区、法華宗本門流大本山)、「正法山 妙心寺」(京都市右京区、浄土宗妙心寺派大本山)、「神護山 崇福寺」(岐阜県岐阜市、臨済宗妙心寺派)、「高岡山 瑞龍寺」(富山県高岡市、曹洞宗)などにも廟所・墓所がある。また、信長が建造した安土城二の丸跡(滋賀県近江八幡市)にも廟所がある。これは、信長の死後、安土山には埋蔵金があるとの噂が立ち、山に入るものが多かったが、武士の亡霊に襲われて奇怪な死に方をする者が続出した。このため、秀吉が安土山への入山を禁止し、信長の霊を供養するため、安土城に廟所を建てたものという。
さて、長々と書いてきたが、「西山 本門寺」の首塚には次のような話が伝えられている。即ち、本能寺の変で討死した信長の首は、囲碁の名人・本因坊日海の指示により、原志摩守宗安が信長と共に自刃した父胤重と兄孫八郎清安の首と共に炎上する本能寺より持ち出し、当寺に納めて首塚を築き、傍らに柊(ヒイラギ)を植えたというもの。このヒイラギの木は、根回り4.6m、高さ17m、樹齢は推定500年という大木(静岡県指定文化財)である。ヒイラギの葉にはトゲがあるのが特徴だが、老樹になるとトゲがなくなるといい、この木にはトゲがない。
上に書いたように、信長の首が埋まっているとは思えないが、黒門前の禁札などにみるように、京都とのつながりが深かったことが窺われる。
参考文献:信長の首塚については、志村有弘著「神ともののけ」(平成11年9月)ほかに依る。
写真1:「西山 本門寺」黒門(写真が小さく、見難くて恐縮)。下馬下乗の禁札がある。ここから、緩やかだが上りの長い参道があり、本堂まで約800m。
写真2:本堂。境内で落ち葉焚きしていて、その煙が漂っていた。
写真3:本堂裏の「信長公首塚」の石碑とヒイラギ
写真4:信長公廟所