古代東海道は、「横走」駅を過ぎて、駿河国と相摸(相模)国の国境である「足柄峠」を越えた。「足柄峠」は「足柄坂」とも呼ばれ、「足柄坂」の東の東海道(この場合は、行政区画(国)の意味)を「坂東(ばんどう)」といった。また、古事記によれば、日本武尊が東征からの帰路、足柄峠から東を向いて、東征の途中で失った妻・弟橘姫(オトタチバナヒメ)を偲んで、「吾妻(あづま)はや」(ああ、我が妻よ…)と慨嘆したというところから、足柄峠より東を「あづま」と称するようになったとされる。なお、日本書紀では、この逸話は碓氷峠でのこととしている。
「足柄路」は延暦21年(802年)の富士山の噴火で通行不能になり、一時的に「筥荷(箱根)路」が代替したが、僅か1年で旧に復した。駅家制度が廃絶した後も、紀行文などでみると、「更級日記」(1020年頃)と「海道記」(1223年頃)では「足柄路」を通っているが、「東関紀行」(1242年頃)と「十六夜日記」(1278年頃)では「箱根路」を越えている。江戸時代になると、距離を短縮できる「箱根路」が整備され、こちらがメインルートとなった。
写真1:JR御殿場線「足柄」駅にある「足柄山 金太郎」像。金太郎は坂田金時の幼名といい、「金時神社」(小山町)の社伝によれば、金太郎の生誕は天暦10年(956年)5月だとする。
写真2:足柄峠の登り口。自動車は右へ(県道78号線)、古道は直進。
写真3:峠近くの「足柄古道」
写真4:「足柄峠」の案内板。日本武尊の「吾妻はや」の伝承も記載されている。
写真5:「足柄峠広場」(足柄城の一の郭だったところ)。毎年9月の第2日曜日に、小山町(駿河国)と南足柄市(相模国)とで「領地争奪綱引き合戦」が行われ、勝者が1年間この広場を領地とする。このときは、広場は駿河国領だった。この広場から見る富士山は絶景だが、あいにく訪問日には雲がかかって見えなかった。
「足柄路」は延暦21年(802年)の富士山の噴火で通行不能になり、一時的に「筥荷(箱根)路」が代替したが、僅か1年で旧に復した。駅家制度が廃絶した後も、紀行文などでみると、「更級日記」(1020年頃)と「海道記」(1223年頃)では「足柄路」を通っているが、「東関紀行」(1242年頃)と「十六夜日記」(1278年頃)では「箱根路」を越えている。江戸時代になると、距離を短縮できる「箱根路」が整備され、こちらがメインルートとなった。
写真1:JR御殿場線「足柄」駅にある「足柄山 金太郎」像。金太郎は坂田金時の幼名といい、「金時神社」(小山町)の社伝によれば、金太郎の生誕は天暦10年(956年)5月だとする。
写真2:足柄峠の登り口。自動車は右へ(県道78号線)、古道は直進。
写真3:峠近くの「足柄古道」
写真4:「足柄峠」の案内板。日本武尊の「吾妻はや」の伝承も記載されている。
写真5:「足柄峠広場」(足柄城の一の郭だったところ)。毎年9月の第2日曜日に、小山町(駿河国)と南足柄市(相模国)とで「領地争奪綱引き合戦」が行われ、勝者が1年間この広場を領地とする。このときは、広場は駿河国領だった。この広場から見る富士山は絶景だが、あいにく訪問日には雲がかかって見えなかった。