神が宿るところ

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下総国の古代東海道(その3・井上駅)

2013-06-08 23:08:47 | 古道
古代の武蔵・下総国境である隅田川を越え、「延喜式」に記された古代東海道の下総国最初の駅は「井上(いかみ)」駅となる。東京低地に残された直線的な道路が古代東海道の痕跡であることは通説であるが、正に下総国府(現・千葉県市川市国府台)に向って真っ直ぐに造られていた。ただ、そうすると、古代には「太日河(ふといがわ、おおひがわ)」と呼ばれた現・江戸川に行き当たり、その先は急な崖になる。市川市国府台地の南側に「真間」という地名があるが、「真間」というのは崖や急な坂を意味した(「真間の継橋」:2013年3月2日記事参照)。現在の江戸川右(西)岸、東京都江戸川区北小岩四丁目付近の標高が約2mであるのに対して、左(東)岸の市川市国府台地の標高は約22mとなっており、崖が江戸川に迫っている。
駅家の屋根が瓦葺であった古代山陽道以外では発掘調査で駅家跡が確認されることは難しいが、特に東京・千葉においては住宅地化が進んでいるため、所在地を特定するのは極めて困難となっている。「井上」駅の比定地も諸説あったが、市川市国府台遺跡から「井上」と墨書された土器が発見されたことで、下総国府付近にあったことがほぼ確実となった。ただし、それが台地上(国府内?)にあったか、台地下の砂洲上にあったかについては、なお説が分かれているようである。駅家は単なる馬継ぎの場所ではなく、国司の宿泊や饗応の場所でもあったとされているから、国府の付属施設とするほうが駅家の運営上は良いと言えるだろう。一方、国府台の台地は、地形上の制約から、国府の標準とされてきた方八町より狭いこと、下総国府に寄らずに上総国に向う旅客にとってはいちいち急坂を上る必要に乏しいこと、中世以降には台地下が「市川宿」として発達することなどを考えると、個人的には、現・市川市市川二丁目~三丁目付近に「井上」駅があったのではないかと思う。
ところで、「更級日記」は、菅原孝標の次女(名前は不明)が、上総国司であった父に従って帰京する場面から始まっている。当時(寛仁4年(1020年))、作者は13歳で、その後老境の52歳頃までが綴られているが、その時々に書かれたのではなく、後にまとめて書かれたのだろうといわれている。そのせいか、上洛までの紀行文は交通史にとっても貴重な文献資料なのだが(国司一行だから、古代東海道を辿ったはず)、事実誤認や記憶違いが多いとされる。また、律令制が崩壊した頃といっても、「延喜式」から100年程しか経っていないのに、駅家らしき記載がないことも特徴の一つとなっている。さて、その「更級日記」では、武蔵・下総国境である太井川を「まつさとのわたりの津(松里の渡りの津?)」で渡ったと書かれている。当時も太井川(太日河)が国境ではないことは明らかであるので、この点は誤りである(ここで上総国から見送りに来た人々と別れているので、国境でないことを知りながら文学上の脚色として「別れ」を強調したのだという説もある。)が、「まつさと」というのは殆どの解説書で千葉県松戸市のことであるとしている。これは、「まつさと」と「まつど」が似ており、「まつさと」が現在の「松戸」になったと考えているようである。しかし、古代東海道の本路は、確かに下総国府から現・松戸市を通っていくのだが、常陸国に向うため北東方面に進路を取るとされているので、太日河(現・江戸川)からは次第に離れていく。また、かなり上流まで台地の崖が続いているため、現・松戸市内で渡河するのに適した場所は見出し難い(「渡りの津」と言っているので、単に渡りやすい場所ということではなく、渡河のための船着場があったということだろう。)。因みに、大ヒットした歌謡曲で有名な「矢切の渡し」(松戸市下矢切)は江戸川両岸に田を持つ農民のために設けられたもので、観光用に現存しているが、現在も交通は不便(北総鉄道「矢切」駅から徒歩約30分)で、渡河のためにこの付近まで遡ってきたとは思えない。と、いうことで、「松里」という地名自体が菅原孝標女の記憶違いだったかもしれないし、渡河したのは現・市川市であったのではないか(「まつさと」は現・市川市にあった?)という説も出てきている。「図説市川の歴史」によれば、地質調査の結果として、国府・国分寺が置かれた頃、砂州や台地上はマツ林だった、という。なお、蛇足だが、市川市の「市の木」は黒松(クロマツ)で、今もJR総武本線、京成電鉄本線の車窓などから散見される。
さて、江戸時代には、江戸川に「小岩・市川関所」が設けられていた。元々、佐倉街道に「市川の渡し」があり、元禄10年(1697年)に道中奉行が直轄することになって、渡しに置かれた番所が関所となったものという。ただし、旅人の吟味を行う建物自体は小岩側のみにあり、市川関所もその後の護岸工事等によって正確な場所がわからなくなってしまったらしいが、現在、京成電鉄「国府台」駅の南、約120mの江戸川堤防上に木の門と説明板が設置されている。この西側辺りに中世以来の「市川宿」があり、古代には「井上」駅家があったのではないかと思われる。即ち、古代には台地上に下総国府があり、台地の下に太日河に開口した「真間の入江」(国府津?)があって、その南の砂州上に駅家があった。こうして、駅家付近は陸路の要衝でもあり、太日河の水運を利用して市が発達し、これが後に宿場になっていったのではないかと思われる。


市川市観光協会のHPから(市川関所跡)


写真1:江戸川左岸は崖で、崖下には川に沿って狭い道路(歩道)が通っているだけ。


写真2:「市川関所跡」


写真3:「市川関所跡」前から国府台地の方をみる。手前の鉄橋は京成本線で、土手の右手に「国府台」駅がある。
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