真昼山三輪神社(まひるさんみわじんじゃ)。
場所:秋田県仙北郡美郷町浪花字一丈木2。秋田県道50号線(大曲田沢湖線)沿い、千畑小学校の東、約850m。県道から「一丈木公園」方面に分岐する道路に入って直ぐ。駐車スペースあり。なお、「真昼岳」山頂に奥宮がある。
社伝によれば、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が、蝦夷の賊・魁王を退治する祈願のため、「真昼岳(真昼山)」山頂(標高1059m)に一宇を建立したのが創始という。「真昼岳(真昼山)」という名も、田村麻呂が山頂に立った時刻が真昼であったことに因むとされる。寛治5年(1091年)に再建、善知鳥(うとう)3坊・真昼大沢6坊の9坊を擁し、中世以降は小野寺氏、本堂氏の信仰が篤く、「真昼山大明神」と称されたという。「真昼岳」の高さは尺貫法時代には3,739尺といわれ、これを「ミナサク」と読んで、稲が病害虫の害に遭わずに「皆作」という語呂合わせで農民の信仰を集め、仙北郡は勿論、平鹿郡・雄勝郡からも参拝登山の講があったという。
「延喜式神名帳」に登載された官社を「式内社」といい、それには漏れているが古代に既に存在した神社を「式外社」、中でも国の正史である「六国史」に名が見える神社を「国史見在社」(それが今も現存する場合、「国史現在社」)という。出羽国の式外社は一説に11社とされるが、このうち「日本書紀」に見える「齶田浦神」以外は、「日本三代実録」の神階授与の記事にある。このうち、「齶田浦神」と「高泉神」が現・秋田県秋田市の「古四王神社」であるという説が有力であることは以前に書いた(「古四王神社」:2015年8月15日記事)。「日本三代実録」貞観4年(862年)の記事に「出羽国の正六位上・熊通男神、石通男神、真蒜神に従五位下を授ける。」とあり、「熊通男神」・「石通男神」には諸説ある(というか、不明とするものが多い。)が、「真蒜神」は当神社に比定することでほぼ一致している。「真昼岳」を主峰とする真昼山地は陸奥国との国境(現在も秋田・岩手の県境)となっており、「善知鳥」・「峰越」など峠越えの道があったという。こうしたことから、「真昼岳」自体が神とされたものだろう。田村麻呂が真昼に山頂に立ったというのは伝説に過ぎないだろうから、「マヒル」の語源は植物の「蒜」に由来するという説が有力。「蒜」は、ネギ(葱)・ニンニク(大蒜)・ノビル(野蒜)など、食用となるユリ科の多年草の古名である。禅宗寺院の門前にある「戒壇石」に「不許葷酒入山門」と書かれている「葷」も、ネギなどの臭いの強い野菜で、修行の妨げとなるため酒とともに持ち込み禁止とされたものであり、ほぼ同じものを指す。ニンニクが典型だが、「修行の妨げになる」くらい精力増進等に効能があることが古代にも知られていたのかもしれない。「記紀」にも、ヤマトタケルが白鹿に化けた悪神を「蒜」で打ち倒したという逸話も記されている。
さて、当神社の祭神は大物主神であるが、何故そうなのかは、社伝からはよくわからない。ただ、当神社の西、約5km(奥宮である「真昼岳」山頂からは直線距離で約11km)に「払田柵」(2015年11月28日記事)があり、その性格は明らかではないが、もし「河辺府」(=「出羽国府」?)または「(第2次)雄勝城」という国の官衙であれば、大和国の「大神神社」を信奉する人々が関わった可能性もある。「雄勝城」跡の可能性がある「足田遺跡」(2015年11月7日記事)の近くに古社の「三輪神社」(秋田県羽後町杉宮:2015年11月14日記事)が鎮座していることにも何か関連があるのかもしれない。
なお、当神社境内を含む「一丈木公園」は、現在は桜の名所でもあるが、縄文時代中期の竪穴住居跡・祭祀場跡等が出土した「一丈木遺跡」もある。また、明治29年に「真昼山地」の地下4kmを震源とする「陸羽大地震」が発生している。この大地震により秋田県側に「千屋断層」、岩手県側に「川舟断層」の2つ大断層が出現、秋田県側では死傷者205人、重軽傷者736人、家屋の全壊4300軒という大きな被害が出ている。
秋田県神社庁のHPから(真昼山三輪神社)
秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図情報(一丈木)
「真昼岳」登山については、こちら : 倉田陽一さんのHP(和賀岳・薬師岳・真昼山登山情報)
写真1:「真昼山三輪神社」。立派な一の鳥居。
写真2:同上、二の鳥居
写真3:同上、社殿
写真4:「県指定 一丈木遺跡」の石碑(場所:当神社の道路を隔てた北側)
写真5:同上、縄文時代中期の竪穴住居跡
写真6:「真昼山(真昼岳)」登山途中で山頂を見る。
写真7:同上、山頂
写真8:山頂にある「真昼山三輪神社」社号標?
写真9:「真昼山三輪神社」奥宮。この建物は、神社の覆屋兼避難小屋らしい。
写真10:同上。覆屋の中に小祠がある。
写真11:「真昼山」から仙北の平野(西側)を見る。
場所:秋田県仙北郡美郷町浪花字一丈木2。秋田県道50号線(大曲田沢湖線)沿い、千畑小学校の東、約850m。県道から「一丈木公園」方面に分岐する道路に入って直ぐ。駐車スペースあり。なお、「真昼岳」山頂に奥宮がある。
社伝によれば、大同2年(807年)、坂上田村麻呂が、蝦夷の賊・魁王を退治する祈願のため、「真昼岳(真昼山)」山頂(標高1059m)に一宇を建立したのが創始という。「真昼岳(真昼山)」という名も、田村麻呂が山頂に立った時刻が真昼であったことに因むとされる。寛治5年(1091年)に再建、善知鳥(うとう)3坊・真昼大沢6坊の9坊を擁し、中世以降は小野寺氏、本堂氏の信仰が篤く、「真昼山大明神」と称されたという。「真昼岳」の高さは尺貫法時代には3,739尺といわれ、これを「ミナサク」と読んで、稲が病害虫の害に遭わずに「皆作」という語呂合わせで農民の信仰を集め、仙北郡は勿論、平鹿郡・雄勝郡からも参拝登山の講があったという。
「延喜式神名帳」に登載された官社を「式内社」といい、それには漏れているが古代に既に存在した神社を「式外社」、中でも国の正史である「六国史」に名が見える神社を「国史見在社」(それが今も現存する場合、「国史現在社」)という。出羽国の式外社は一説に11社とされるが、このうち「日本書紀」に見える「齶田浦神」以外は、「日本三代実録」の神階授与の記事にある。このうち、「齶田浦神」と「高泉神」が現・秋田県秋田市の「古四王神社」であるという説が有力であることは以前に書いた(「古四王神社」:2015年8月15日記事)。「日本三代実録」貞観4年(862年)の記事に「出羽国の正六位上・熊通男神、石通男神、真蒜神に従五位下を授ける。」とあり、「熊通男神」・「石通男神」には諸説ある(というか、不明とするものが多い。)が、「真蒜神」は当神社に比定することでほぼ一致している。「真昼岳」を主峰とする真昼山地は陸奥国との国境(現在も秋田・岩手の県境)となっており、「善知鳥」・「峰越」など峠越えの道があったという。こうしたことから、「真昼岳」自体が神とされたものだろう。田村麻呂が真昼に山頂に立ったというのは伝説に過ぎないだろうから、「マヒル」の語源は植物の「蒜」に由来するという説が有力。「蒜」は、ネギ(葱)・ニンニク(大蒜)・ノビル(野蒜)など、食用となるユリ科の多年草の古名である。禅宗寺院の門前にある「戒壇石」に「不許葷酒入山門」と書かれている「葷」も、ネギなどの臭いの強い野菜で、修行の妨げとなるため酒とともに持ち込み禁止とされたものであり、ほぼ同じものを指す。ニンニクが典型だが、「修行の妨げになる」くらい精力増進等に効能があることが古代にも知られていたのかもしれない。「記紀」にも、ヤマトタケルが白鹿に化けた悪神を「蒜」で打ち倒したという逸話も記されている。
さて、当神社の祭神は大物主神であるが、何故そうなのかは、社伝からはよくわからない。ただ、当神社の西、約5km(奥宮である「真昼岳」山頂からは直線距離で約11km)に「払田柵」(2015年11月28日記事)があり、その性格は明らかではないが、もし「河辺府」(=「出羽国府」?)または「(第2次)雄勝城」という国の官衙であれば、大和国の「大神神社」を信奉する人々が関わった可能性もある。「雄勝城」跡の可能性がある「足田遺跡」(2015年11月7日記事)の近くに古社の「三輪神社」(秋田県羽後町杉宮:2015年11月14日記事)が鎮座していることにも何か関連があるのかもしれない。
なお、当神社境内を含む「一丈木公園」は、現在は桜の名所でもあるが、縄文時代中期の竪穴住居跡・祭祀場跡等が出土した「一丈木遺跡」もある。また、明治29年に「真昼山地」の地下4kmを震源とする「陸羽大地震」が発生している。この大地震により秋田県側に「千屋断層」、岩手県側に「川舟断層」の2つ大断層が出現、秋田県側では死傷者205人、重軽傷者736人、家屋の全壊4300軒という大きな被害が出ている。
秋田県神社庁のHPから(真昼山三輪神社)
秋田県教育庁のHPから:秋田県遺跡地図情報(一丈木)
「真昼岳」登山については、こちら : 倉田陽一さんのHP(和賀岳・薬師岳・真昼山登山情報)
写真1:「真昼山三輪神社」。立派な一の鳥居。
写真2:同上、二の鳥居
写真3:同上、社殿
写真4:「県指定 一丈木遺跡」の石碑(場所:当神社の道路を隔てた北側)
写真5:同上、縄文時代中期の竪穴住居跡
写真6:「真昼山(真昼岳)」登山途中で山頂を見る。
写真7:同上、山頂
写真8:山頂にある「真昼山三輪神社」社号標?
写真9:「真昼山三輪神社」奥宮。この建物は、神社の覆屋兼避難小屋らしい。
写真10:同上。覆屋の中に小祠がある。
写真11:「真昼山」から仙北の平野(西側)を見る。