本堂城跡(ほんどうじょうあと)。
場所:秋田県仙北郡美郷町本堂城回字館間150ほか。「払田柵跡」(前項)・「秋田県埋蔵文化財センター」から秋田県道50号線(大曲田沢湖線)を東に約350m進み、左折(北へ)。「払田柵」の東端を通って道なりに約1.5km進むと、「本堂城跡」の案内標示があるところで左折(北へ)、約370mで「西門址」付近。駐車スペースあり。
「本堂城跡」は、中世に陸奥国和賀郡で勢力を持った和賀氏の庶流・本堂氏が出羽国山本郡(仙北郡)に進出して築城した平城の跡で、内堀跡など保存状態が良いことから、秋田県指定史跡となっている。本堂氏は、元は和賀山塊に山城を築いていた(「元本堂城」)が、天文4年(1535年)頃、当地に「本堂城」を築き、城下町を整備したとされる。城は、北~北西側の矢島川の水を利用して幅約10mの内堀を廻らしており、この内堀を含めた規模は東西約182m×南北約273mに及ぶ。慶長19年(1614年)銘の古絵図「本堂城廻絵図」が現存しており、それによれば、東西約436m×南北約405mという外堀もあったらしい。その後、本堂氏は江戸時代まで存続して当地を支配したが、慶長5年(1600年)に常陸国新治郡志筑(現・茨城県かすみがうら市)に転封となり、「本堂城」は廃城となった。
ところで、「本堂城跡」の場所に、平安時代の定額寺「安隆寺」があったという説がある。「定額寺(じょうがくじ)」というのは、諸説あるが一般に、「本来は私寺であるが、国分寺など官寺に準ずる寺格を有するものとして公認された寺院」とされる。律令制下では、僧侶には課税されなかったため、僧侶になるには官許が必要だった。寺院も国家鎮護の目的があったから、国家からの経済的支援があったが、そのかわり、官許を得た僧侶が派遣され、国家による統制が行われた。皇族の勅願寺や豪族の氏寺などの大きな私寺は、その存続のために国家の公認と支援を受けるために定額寺になったと考えられている。出羽国には、史料に6つの定額寺が見え、指定年代順に「法隆寺」(斉衡3年:856年)、「観音寺」(貞観7年:865年)、「瑜伽寺」(貞観8年:866年)、「長安寺」(貞観9年:867年)、「霊山寺」(貞観9年:867年)、「安隆寺」(貞観12年:870年)となっている。ただし、いずれも、ありふれた(というと語弊があるが)寺号で、特に前4者には所在地の記載がなく、特定が困難となっている。後2者のうち「霊山寺」には最上郡、「安隆寺」には山本郡という記載があるので、所在地探求の手がかりにはなる。ということで、出羽国山本郡「安隆寺」であるが、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事にあるのだが、実は、これが出羽国「山本郡」の初出になっている。古代の「山本郡」は近世の「仙北郡」に当り、式内社「副川神社」も「山本郡」鎮座である(2015年6月20日記事)。ただ、近世「仙北郡」に「安隆寺」という寺院はなかったようだ。現在、秋田県仙北郡美郷町(旧・千畑町)に「安城寺」という地名があり(「本堂城跡」の南、4~5kmの距離)、これが「安隆寺」から訛ったものという説がある。観応3年(1352年)の古文書に「阿条字郷」という地名が出てくることから、元は「阿条字」で、「安隆寺」から変化したというのを否定する説もあるが、地元では、中世には「安隆寺」は既に退転していて、寺から城になったので、「安隆寺」が「安城寺」に変わったという説を立てている。
なお、同じ美郷町(旧・六郷町)に浄土宗「東光山 本覚寺」を「安隆寺」の後身とする説がある。「本覚寺」は、元は天台宗で、弘治3年(1557年)に浄土宗に改宗した。本堂城主・本堂伊賀守吉隆の菩提寺で、旧・千畑町元本堂にあったが、佐竹義重の命により慶長8年(1603年)、近在の寺院を集めた際に、六郷地区に移された。「定額寺」というのは国家から「額」を授与された寺院であると言う説に基づいて、その額を「御額(おんがく)」と称したとして、それが「本覚(ほんがく)」に変わった、というものである。そもそも「本堂」というのは、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」の総本堂である「根本中堂」に由来する、という説もある。因みに、「本覚寺」には「貞観の写経」(秋田県有形文化財)がある。これは、貞観13年(871年)に上野国大目従六位下・安倍小水麿が「大般若波羅蜜多経」600巻を写したものの1巻で、これが当地で写されたものなら大きな物証だが、もともと同国の天台宗「都幾山 慈光寺」(現・埼玉県比企郡都幾町)に納められていたのを、第28世の白雲上人(1764~1825年)が当地に来たときに持ってきたものとされる。
また、似たような寺号として「安養寺」が、「安隆寺」の後身ではないかという説もある。秋田県大仙市大曲浜町にある浄土真宗大谷派「廣栄山 安養寺」は、元は真言宗だったという。伝承によれば、真言宗では、「雄勝城」と「秋田城」の駅路に沿って、雄勝・山本・秋田の3郡にそれぞれ「安養寺」を建立し、布教と連絡の便に当てたという。現在、秋田県横手市雄物川町沼館に現・曹洞宗「安養寺」があるほか、地名のみであるが、秋田市雄和椿川(旧・河辺郡川添村)、横手市増田町荻袋(旧・雄勝郡西成瀬村)などに「安養寺」がある。
「城郭放浪記」さんのHPから(出羽・本堂城)
写真1:「本堂城跡」。「西門址」の標柱が立っている。今は浅くなっているが、「西門」入口の両側は堀の跡らしい。
写真2:「西門址」付近から北東方向を見る。何も無いこともあって、とても広く見える。
写真3:「東門址」
写真4:北東隅にケヤキ(欅)の大木と小祠が2つある。背後に土塁が良く保存されているが、ここが信仰の場で、田畑にされずに残ったようだ。土塁の裏側に矢島川が流れており、北側は川をそのまま内堀に利用していたらしい。
写真5:ケヤキの巨木に、藁でできた人形が立てかけられている。当地では「ショーキ様」と呼ばれる鬼人で、古来より疫病を防ぐ守り神とされてきたとのこと。元は道教系の神である「鍾馗」と思われ、秋田県湯沢市付近でみられる「鹿島(カシマ)様」と同様、道祖神として疫病を村に入れない機能を持ったものだろう。
写真6:「本堂城址記念碑」。築城から400年を記念して昭和9年に建立されたものらしい。
写真7:「東光山 本覚寺」(場所:秋田県仙北郡美郷町六郷字東高方町26。国道13号線「六郷白山」交差点を北へ約750mのところを右折(東へ)、最初の交差点の北側。駐車場有り)。本尊:阿弥陀如来。秋田三十三観音霊場第14番札所(正観音)。
写真8:同上、楼門。六郷地区には26ヵ寺あるが、楼門があるのは「本覚寺」だけという。
写真9:「廣栄山 安養寺」(場所:秋田県大仙市大曲浜町6-59。秋田県道36号線(大曲大森羽後線)「浜町」交差点から東に約130m進み、狭い道路に左折(北へ)。駐車場あり)。本尊:阿弥陀如来
場所:秋田県仙北郡美郷町本堂城回字館間150ほか。「払田柵跡」(前項)・「秋田県埋蔵文化財センター」から秋田県道50号線(大曲田沢湖線)を東に約350m進み、左折(北へ)。「払田柵」の東端を通って道なりに約1.5km進むと、「本堂城跡」の案内標示があるところで左折(北へ)、約370mで「西門址」付近。駐車スペースあり。
「本堂城跡」は、中世に陸奥国和賀郡で勢力を持った和賀氏の庶流・本堂氏が出羽国山本郡(仙北郡)に進出して築城した平城の跡で、内堀跡など保存状態が良いことから、秋田県指定史跡となっている。本堂氏は、元は和賀山塊に山城を築いていた(「元本堂城」)が、天文4年(1535年)頃、当地に「本堂城」を築き、城下町を整備したとされる。城は、北~北西側の矢島川の水を利用して幅約10mの内堀を廻らしており、この内堀を含めた規模は東西約182m×南北約273mに及ぶ。慶長19年(1614年)銘の古絵図「本堂城廻絵図」が現存しており、それによれば、東西約436m×南北約405mという外堀もあったらしい。その後、本堂氏は江戸時代まで存続して当地を支配したが、慶長5年(1600年)に常陸国新治郡志筑(現・茨城県かすみがうら市)に転封となり、「本堂城」は廃城となった。
ところで、「本堂城跡」の場所に、平安時代の定額寺「安隆寺」があったという説がある。「定額寺(じょうがくじ)」というのは、諸説あるが一般に、「本来は私寺であるが、国分寺など官寺に準ずる寺格を有するものとして公認された寺院」とされる。律令制下では、僧侶には課税されなかったため、僧侶になるには官許が必要だった。寺院も国家鎮護の目的があったから、国家からの経済的支援があったが、そのかわり、官許を得た僧侶が派遣され、国家による統制が行われた。皇族の勅願寺や豪族の氏寺などの大きな私寺は、その存続のために国家の公認と支援を受けるために定額寺になったと考えられている。出羽国には、史料に6つの定額寺が見え、指定年代順に「法隆寺」(斉衡3年:856年)、「観音寺」(貞観7年:865年)、「瑜伽寺」(貞観8年:866年)、「長安寺」(貞観9年:867年)、「霊山寺」(貞観9年:867年)、「安隆寺」(貞観12年:870年)となっている。ただし、いずれも、ありふれた(というと語弊があるが)寺号で、特に前4者には所在地の記載がなく、特定が困難となっている。後2者のうち「霊山寺」には最上郡、「安隆寺」には山本郡という記載があるので、所在地探求の手がかりにはなる。ということで、出羽国山本郡「安隆寺」であるが、「日本三代実録」貞観12年(870年)の記事にあるのだが、実は、これが出羽国「山本郡」の初出になっている。古代の「山本郡」は近世の「仙北郡」に当り、式内社「副川神社」も「山本郡」鎮座である(2015年6月20日記事)。ただ、近世「仙北郡」に「安隆寺」という寺院はなかったようだ。現在、秋田県仙北郡美郷町(旧・千畑町)に「安城寺」という地名があり(「本堂城跡」の南、4~5kmの距離)、これが「安隆寺」から訛ったものという説がある。観応3年(1352年)の古文書に「阿条字郷」という地名が出てくることから、元は「阿条字」で、「安隆寺」から変化したというのを否定する説もあるが、地元では、中世には「安隆寺」は既に退転していて、寺から城になったので、「安隆寺」が「安城寺」に変わったという説を立てている。
なお、同じ美郷町(旧・六郷町)に浄土宗「東光山 本覚寺」を「安隆寺」の後身とする説がある。「本覚寺」は、元は天台宗で、弘治3年(1557年)に浄土宗に改宗した。本堂城主・本堂伊賀守吉隆の菩提寺で、旧・千畑町元本堂にあったが、佐竹義重の命により慶長8年(1603年)、近在の寺院を集めた際に、六郷地区に移された。「定額寺」というのは国家から「額」を授与された寺院であると言う説に基づいて、その額を「御額(おんがく)」と称したとして、それが「本覚(ほんがく)」に変わった、というものである。そもそも「本堂」というのは、天台宗総本山「比叡山 延暦寺」の総本堂である「根本中堂」に由来する、という説もある。因みに、「本覚寺」には「貞観の写経」(秋田県有形文化財)がある。これは、貞観13年(871年)に上野国大目従六位下・安倍小水麿が「大般若波羅蜜多経」600巻を写したものの1巻で、これが当地で写されたものなら大きな物証だが、もともと同国の天台宗「都幾山 慈光寺」(現・埼玉県比企郡都幾町)に納められていたのを、第28世の白雲上人(1764~1825年)が当地に来たときに持ってきたものとされる。
また、似たような寺号として「安養寺」が、「安隆寺」の後身ではないかという説もある。秋田県大仙市大曲浜町にある浄土真宗大谷派「廣栄山 安養寺」は、元は真言宗だったという。伝承によれば、真言宗では、「雄勝城」と「秋田城」の駅路に沿って、雄勝・山本・秋田の3郡にそれぞれ「安養寺」を建立し、布教と連絡の便に当てたという。現在、秋田県横手市雄物川町沼館に現・曹洞宗「安養寺」があるほか、地名のみであるが、秋田市雄和椿川(旧・河辺郡川添村)、横手市増田町荻袋(旧・雄勝郡西成瀬村)などに「安養寺」がある。
「城郭放浪記」さんのHPから(出羽・本堂城)
写真1:「本堂城跡」。「西門址」の標柱が立っている。今は浅くなっているが、「西門」入口の両側は堀の跡らしい。
写真2:「西門址」付近から北東方向を見る。何も無いこともあって、とても広く見える。
写真3:「東門址」
写真4:北東隅にケヤキ(欅)の大木と小祠が2つある。背後に土塁が良く保存されているが、ここが信仰の場で、田畑にされずに残ったようだ。土塁の裏側に矢島川が流れており、北側は川をそのまま内堀に利用していたらしい。
写真5:ケヤキの巨木に、藁でできた人形が立てかけられている。当地では「ショーキ様」と呼ばれる鬼人で、古来より疫病を防ぐ守り神とされてきたとのこと。元は道教系の神である「鍾馗」と思われ、秋田県湯沢市付近でみられる「鹿島(カシマ)様」と同様、道祖神として疫病を村に入れない機能を持ったものだろう。
写真6:「本堂城址記念碑」。築城から400年を記念して昭和9年に建立されたものらしい。
写真7:「東光山 本覚寺」(場所:秋田県仙北郡美郷町六郷字東高方町26。国道13号線「六郷白山」交差点を北へ約750mのところを右折(東へ)、最初の交差点の北側。駐車場有り)。本尊:阿弥陀如来。秋田三十三観音霊場第14番札所(正観音)。
写真8:同上、楼門。六郷地区には26ヵ寺あるが、楼門があるのは「本覚寺」だけという。
写真9:「廣栄山 安養寺」(場所:秋田県大仙市大曲浜町6-59。秋田県道36号線(大曲大森羽後線)「浜町」交差点から東に約130m進み、狭い道路に左折(北へ)。駐車場あり)。本尊:阿弥陀如来