夷針神社(いはりじんじゃ)。
場所:茨城県東茨城郡茨城町大戸1768。「大戸小学校」の北東端の向かい側にある火の見櫓?のところ(大戸の桜→ という案内板がある)を北へ入る。そこに当神社の鳥居があり、社殿は約400m先。鳥居の右側の狭い道路が車道だが、社殿の近くに駐車場なし(途中の「大戸の桜」前に数台分のスペースがあり、これが利用できるだろうか。)。
社伝によれば、神亀2年(725年)の創建。しかし、その後について六国史などに記事がない。室町時代の応永33年(1426年)、江戸但馬守通房により水戸城が攻められ、落城の時に城主・大掾満幹の家臣・根小屋伊勢守が水戸城の鎮守「武熊大明神」の神璽を持ち出し、当神社に合祀した。このため、以降は、「武熊明神」、「両社大明神」などと呼ばれたという。近世には、寛政9年(1797年)、天保9年(1838年)の裁許状に「夷針大明神 武熊大明神」とあって、両神並列の認識はあったようだが、一般には専ら「武熊明神」と称されていたようで、当神社が「延喜式神名帳」登載のいわゆる式内社「夷針神社」であるとの認識は殆ど無かったようである。明治45年、現社号で村社に列せられる。
現在の祭神は「奥津彦命」・「奧津姫命」で、「武三熊大人」・「興玉命」を配祀する。「奥津彦命」・「奧津姫命」(オキツヒコ・オキツヒメ)は「大年神」の御子神で、竈の神とされる。よって、防火、家内安全、豊作などの御利益があるという。なお、「奧津姫命」の別名は大戸比売神」(オオベヒメ)というので、ひょっとすると、当地の地名は当神社に由来するのかもしれない。因みに、神話では「武三熊大人」(タケミクマ)は「天穂日命」(アメノホヒ)の御子神で、「天穂日命」が国譲りの交渉役に選ばれて出雲の「大国主神」の許へ派遣されたが3年経っても報告しないため、子の「武三熊大人」が遣わされたものの、やはり戻らなかったということになっている。ところで、「古事記」では「天菩比命」(「天穂日命」)の御子神を「天夷鳥命」(アメノヒナトリ)としていて、「武三熊大人」と同神と考えられているらしい。気になるのは、「夷」の文字で、寧ろ、こちらの方から式内社「夷針神社」に繋げたのではないかと勘繰ってしまう。
というのは、常陸国式内社の中で最も比定が困難なのが「夷針神社」だとされていて、現在、旧・常陸国域内で「夷針神社」と名乗っているのは当神社だけのようなのだが、式内社であることを否定する説が多い。実は、当地は、「大化の改新」(646年)以前は「仲国」、その後は「那賀郡」に属し、「茨城郡」内になったのは文禄3年(1594年)の「太閤検地」以降のことだとされている(「茨城町史 地誌編」など)。よって、「延喜式神名帳」の「茨城郡」鎮座というのに反するというわけである。ただ、古代「那賀郡」と「茨城郡」の境界は、当神社の南西、約1kmを流れている現・「涸沼前川」といわれているので、結構微妙かもしれない。平安時代中期の「和名類聚抄」には「茨城郡」に「夷針郷」があると記されており、式内社「夷針神社」もそこに鎮座していたはずだが、「夷針郷」の範囲はわかっていない。そもそも「夷針」を何と読むのかということに諸説あり、「イハリ」、「ヒナハリ」、「ヒラハリ」、「スイハリ」、「イシン」、「イシム」、「イシミ」などが提示されている(当神社の現在の社号は、茨城県神社庁のHPの記載による。)。で、それぞれの読み方に従って遺称地(らしき)場所を探して、それぞれの比定地が主張されているわけである。ということで、混沌としているが、他の論社も必ずしも有力とは思えないので、当神社を式内社「夷針神社」の第1候補としておくことにする。
蛇足。合祀された「武熊明神」は「武三熊大人」とされているが、現・宮城県岩沼市の「竹駒神社」(通称:「竹駒稲荷」。日本三大稲荷の1つともいわれる。)の旧称である「武隈明神」との関係はないのだろうか? はて。
写真1:「夷針神社」一の鳥居と社号標「村社 夷針神社」
写真2:二の鳥居
写真3:境内
写真4:拝殿。実は、参拝時には本殿が無かった。覆屋の下に萱葺屋根の本殿があると聞いていたのだが、建替えになったのだろうか。
写真5:「大戸の桜」。根元周囲約10.4m、高さ約15m、推定樹齢500年超。大正時代には約300坪の範囲に枝を広げていたという。国指定天然記念物。
場所:茨城県東茨城郡茨城町大戸1768。「大戸小学校」の北東端の向かい側にある火の見櫓?のところ(大戸の桜→ という案内板がある)を北へ入る。そこに当神社の鳥居があり、社殿は約400m先。鳥居の右側の狭い道路が車道だが、社殿の近くに駐車場なし(途中の「大戸の桜」前に数台分のスペースがあり、これが利用できるだろうか。)。
社伝によれば、神亀2年(725年)の創建。しかし、その後について六国史などに記事がない。室町時代の応永33年(1426年)、江戸但馬守通房により水戸城が攻められ、落城の時に城主・大掾満幹の家臣・根小屋伊勢守が水戸城の鎮守「武熊大明神」の神璽を持ち出し、当神社に合祀した。このため、以降は、「武熊明神」、「両社大明神」などと呼ばれたという。近世には、寛政9年(1797年)、天保9年(1838年)の裁許状に「夷針大明神 武熊大明神」とあって、両神並列の認識はあったようだが、一般には専ら「武熊明神」と称されていたようで、当神社が「延喜式神名帳」登載のいわゆる式内社「夷針神社」であるとの認識は殆ど無かったようである。明治45年、現社号で村社に列せられる。
現在の祭神は「奥津彦命」・「奧津姫命」で、「武三熊大人」・「興玉命」を配祀する。「奥津彦命」・「奧津姫命」(オキツヒコ・オキツヒメ)は「大年神」の御子神で、竈の神とされる。よって、防火、家内安全、豊作などの御利益があるという。なお、「奧津姫命」の別名は大戸比売神」(オオベヒメ)というので、ひょっとすると、当地の地名は当神社に由来するのかもしれない。因みに、神話では「武三熊大人」(タケミクマ)は「天穂日命」(アメノホヒ)の御子神で、「天穂日命」が国譲りの交渉役に選ばれて出雲の「大国主神」の許へ派遣されたが3年経っても報告しないため、子の「武三熊大人」が遣わされたものの、やはり戻らなかったということになっている。ところで、「古事記」では「天菩比命」(「天穂日命」)の御子神を「天夷鳥命」(アメノヒナトリ)としていて、「武三熊大人」と同神と考えられているらしい。気になるのは、「夷」の文字で、寧ろ、こちらの方から式内社「夷針神社」に繋げたのではないかと勘繰ってしまう。
というのは、常陸国式内社の中で最も比定が困難なのが「夷針神社」だとされていて、現在、旧・常陸国域内で「夷針神社」と名乗っているのは当神社だけのようなのだが、式内社であることを否定する説が多い。実は、当地は、「大化の改新」(646年)以前は「仲国」、その後は「那賀郡」に属し、「茨城郡」内になったのは文禄3年(1594年)の「太閤検地」以降のことだとされている(「茨城町史 地誌編」など)。よって、「延喜式神名帳」の「茨城郡」鎮座というのに反するというわけである。ただ、古代「那賀郡」と「茨城郡」の境界は、当神社の南西、約1kmを流れている現・「涸沼前川」といわれているので、結構微妙かもしれない。平安時代中期の「和名類聚抄」には「茨城郡」に「夷針郷」があると記されており、式内社「夷針神社」もそこに鎮座していたはずだが、「夷針郷」の範囲はわかっていない。そもそも「夷針」を何と読むのかということに諸説あり、「イハリ」、「ヒナハリ」、「ヒラハリ」、「スイハリ」、「イシン」、「イシム」、「イシミ」などが提示されている(当神社の現在の社号は、茨城県神社庁のHPの記載による。)。で、それぞれの読み方に従って遺称地(らしき)場所を探して、それぞれの比定地が主張されているわけである。ということで、混沌としているが、他の論社も必ずしも有力とは思えないので、当神社を式内社「夷針神社」の第1候補としておくことにする。
蛇足。合祀された「武熊明神」は「武三熊大人」とされているが、現・宮城県岩沼市の「竹駒神社」(通称:「竹駒稲荷」。日本三大稲荷の1つともいわれる。)の旧称である「武隈明神」との関係はないのだろうか? はて。
写真1:「夷針神社」一の鳥居と社号標「村社 夷針神社」
写真2:二の鳥居
写真3:境内
写真4:拝殿。実は、参拝時には本殿が無かった。覆屋の下に萱葺屋根の本殿があると聞いていたのだが、建替えになったのだろうか。
写真5:「大戸の桜」。根元周囲約10.4m、高さ約15m、推定樹齢500年超。大正時代には約300坪の範囲に枝を広げていたという。国指定天然記念物。