香取神社(かとりじんじゃ)。
場所:茨城県行方市四鹿661。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同2号線(水戸鉾田佐原線)の「一丁窪北」交差点から、県道2号線を北東に約1.3km進み、丁字路交差点を左折(北西へ)、約1.6km。駐車場なし。
社伝によれば、白雉元年(650年)(「茨城縣神社誌」では神護景雲元年(767年))、下総国一宮「香取神宮」から勧請して創建という。天長元年(824年)再建、その後も再建・修繕を重ね、最近では平成9年に本殿修復等が行われた。旧社格は村社(明治7年)。祭神は経津主命。
「常陸国風土記」行方郡の条に「男高(おだか)の里)」に関する記述があり、現・行方市小高が遺称地とされている。また、「和名類聚抄」(平安時代中期)に記載された常陸国行方郡小高郷に当たるが、小高郷は現・行方市小高・南・橋門・井貝・島並・四鹿を含む地域であるとみられている。「常陸国風土記」の「男高里」の記述の最後に、「栗家池がある。栗(栗の木、または栗の実)が大きかったので、池の名前にした。北に香取の御子の社がある。」(現代語訳)とあり、この神社を、現・行方市小高の「側鷹神社」(前項)のこととする説と、当神社のこととする説がある。「常陸国風土記」原文の「北」というのが「男高里」中心部からみて北なのか、「栗家池」の北なのか、どちらとも読めるようだが、いずれにせよ「栗家池」は現存せず、場所の特定ができないので、手掛かりとはなりにくい。当神社の位置は、古代の小高郷の中ではかなり北東側になる。いろいろな解説書・訳注等を見ても、「側鷹神社」か当神社のどちらかだろう、としているのが殆どで、いずれとも決めかねるようである。なお、境内の説明板(平成11年、麻生町教育委員会)には、「常陸国風土記に「北に香取の御子の社有り」とあるのは、この神社であると地元では伝えられている。」と記されている。
蛇足:古くは、当神社の社殿は南向きで、南に馬場があった。慶安2年(1649年)、当神社の所有をめぐって小高村と四鹿村で争いが起こり、江戸幕府の寺社奉行の裁定により四鹿村の勝訴となった。それ以来、社殿、鳥居、馬場が東向きに遷された、とのこと。事情がよくわからないが、小高は当地の西に当たるので、そっぽを向いたということなのだろうか。
写真1:「香取神社」一の鳥居と社号標
写真2:二の鳥居
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:境内社「大鷲神社」
場所:茨城県行方市四鹿661。茨城県道50号線(水戸神栖線)と同2号線(水戸鉾田佐原線)の「一丁窪北」交差点から、県道2号線を北東に約1.3km進み、丁字路交差点を左折(北西へ)、約1.6km。駐車場なし。
社伝によれば、白雉元年(650年)(「茨城縣神社誌」では神護景雲元年(767年))、下総国一宮「香取神宮」から勧請して創建という。天長元年(824年)再建、その後も再建・修繕を重ね、最近では平成9年に本殿修復等が行われた。旧社格は村社(明治7年)。祭神は経津主命。
「常陸国風土記」行方郡の条に「男高(おだか)の里)」に関する記述があり、現・行方市小高が遺称地とされている。また、「和名類聚抄」(平安時代中期)に記載された常陸国行方郡小高郷に当たるが、小高郷は現・行方市小高・南・橋門・井貝・島並・四鹿を含む地域であるとみられている。「常陸国風土記」の「男高里」の記述の最後に、「栗家池がある。栗(栗の木、または栗の実)が大きかったので、池の名前にした。北に香取の御子の社がある。」(現代語訳)とあり、この神社を、現・行方市小高の「側鷹神社」(前項)のこととする説と、当神社のこととする説がある。「常陸国風土記」原文の「北」というのが「男高里」中心部からみて北なのか、「栗家池」の北なのか、どちらとも読めるようだが、いずれにせよ「栗家池」は現存せず、場所の特定ができないので、手掛かりとはなりにくい。当神社の位置は、古代の小高郷の中ではかなり北東側になる。いろいろな解説書・訳注等を見ても、「側鷹神社」か当神社のどちらかだろう、としているのが殆どで、いずれとも決めかねるようである。なお、境内の説明板(平成11年、麻生町教育委員会)には、「常陸国風土記に「北に香取の御子の社有り」とあるのは、この神社であると地元では伝えられている。」と記されている。
蛇足:古くは、当神社の社殿は南向きで、南に馬場があった。慶安2年(1649年)、当神社の所有をめぐって小高村と四鹿村で争いが起こり、江戸幕府の寺社奉行の裁定により四鹿村の勝訴となった。それ以来、社殿、鳥居、馬場が東向きに遷された、とのこと。事情がよくわからないが、小高は当地の西に当たるので、そっぽを向いたということなのだろうか。
写真1:「香取神社」一の鳥居と社号標
写真2:二の鳥居
写真3:拝殿
写真4:本殿
写真5:境内社「大鷲神社」