雷神社(らいじんじゃ)。
場所:茨城県行方市岡572。茨城県道185号線(繁昌潮来線)と同186号線(荒井行方線)の交差点(コンビニ「セブンイレブン行方根小屋店」がある。)から、185号線を北西へ約750mのところを左折、約40mで左折(南へ)、更に40m進む。駐車スペース有り。なお、県道沿いに「行方市消防団第2分団第6部」車庫があり、その横の道路が「寿福寺」境内への入口であるが、道路が狭いので、回り道した方が安全と思われる。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「田の里の南に相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里がある。古老が言うには、倭武天皇(日本武尊)が相鹿の丘前の宮に留まられたとき、食事を作る建物を浜辺に建てて、小舟を繋いで橋として行在所に通った。「大炊(おほい)」(天皇の食事を作る)の意義から「大生」の村と名付けた。また、皇后の大橘比売命が大和から来て、当地で逢ったことから「安布賀(あふか)」の邑というようになった。」(現代語訳)という記述がある。「田の里」というのは古代の行方郡道田郷で現・行方市小牧周辺とみられ、「相鹿」は古代の行方郡逢鹿郷で現・行方市岡周辺、「大生」は古代の行方郡大生郷で現・茨城県潮来市大生周辺と考えられる。そして、現・行方市岡の「寿福寺」と同じ境内に、「雷神社」と「丘前宮道鏡大明神(おかさきのみやどうきょうだいみょうじん)」がある。
「雷神社」の社伝によれば、日本武尊が東征の折、当地に着いて大炊の時に、炊事舎の傍らの椿(ツバキ)の樹に大きな雷が落ちた。詔があって、別雷命を祭神として社殿を建立したとされる。明治14年、村社に列格。雷神=田に雨をもたらす神として、特に農家の信仰が篤いとのこと。また、「丘前宮」は、日本武尊が当地を去るにあたり、石剣を遺した。これを神宝として「雷神社」の摂社として建立された。享保2年(1717年)に弓削道鏡(奈良時代の僧侶。孝謙天皇の寵愛を受けた。)を合わせ祀り、「丘前宮道鏡大明神」と称したという。
蛇足:上記「常陸風土記」の記述には不思議なところがある。先ず、当地と大生はかなり離れている(直線距離で約4km)のに、食事を運ぶために通ったということ。それは、おそらく、この逸話が単に地名の由来をこじつけたものということだろう。なお、食事は日本武尊のために作ったのではなく、日本武尊が北浦を渡って対岸の「沼尾神社」(常陸国一宮「鹿島神宮」の摂社、2017年10月21日記事)へ捧げるために運んだと解釈するべきという説がある。しかし、小舟を繋いで北浦を渡るというのは無理があるように思う。では、この舟橋はどこに掛けられていたのかということも不思議ではある。岡と大生の間にある「雁通川」だろうか。次に、日本武尊の妃といえば、普通は弟橘媛であるが、大橘比売と同一人物かどうか。「大」は年長を意味し、弟橘媛の姉を指す、という解釈もあるが、「后」というのに合わないし、義姉と逢うことが地名の由来にもなるような重大事というのは理解しにくい。同一人物とするなら、「日本書紀」・「古事記」では上総国に上陸する際の海難で既に亡くなっているはずで、話が合わなくなる。まあ、史実とは別のことなので、謎のままでもよいのかもしれないが・・・。
相賀山 海岸院 寿福寺(おうがさん かいがんいん じゅふくじ)。
寺伝によれば、神亀3年(726年)に行基が薬師仏を祀ったのが始まり。山号の「相賀山」というのが、古代の「逢鹿郷」(中世「相賀郷」)の遺称という。院号の「海岸院」は、開基の僧・海岸の名を取ったものである。神護景雲4年(770年)に道鏡は「下野薬師寺」(現・栃木県下野市)別当に左遷されるが、眼病を病み、当寺院の薬師如来の御利益を聞いて籠堂で100日間の修行を行った。その結願日に病気が快癒した道鏡は当地を去るが、薬師如来の霊験と道鏡の徳に感じた村人が道鏡大明神を祀ったという。その後、応永元年(1394年)に再興されるが、この頃には天台宗寺院となっていたらしい。本尊の木造薬師如来座像(松材の寄木造り、像高1m40cm)には、室町時代の応永29年(1422年)銘の胎内墨書があった。特に眼病平癒に御利益があり、多くの祈願者が「め」と書いた布巾を本堂正面の格子に結び付けたという。しかし、この薬師如来像は、平成12年の火災のため、享保2年(1717年)建立という本堂とともに焼失してしまった。現在の本堂は、その後の再建となる。
写真1:「寿福寺」入口
写真2:同上、本堂
写真3:「雷神社」鳥居、拝殿
写真4:同上、本殿
写真5:「日本武尊 大橘比売命 史蹟相鹿丘前宮跡」石碑
写真6:「丘前宮道鏡大明神」
写真7:同上、内部。木製の男根像が置かれている。子孫繁栄・五穀豊穣を願ったものだろうか。神宝の「石剣」というのも、元は縄文時代後期の磨製石器「石棒」で、同様の意味があったのかもしれない。
場所:茨城県行方市岡572。茨城県道185号線(繁昌潮来線)と同186号線(荒井行方線)の交差点(コンビニ「セブンイレブン行方根小屋店」がある。)から、185号線を北西へ約750mのところを左折、約40mで左折(南へ)、更に40m進む。駐車スペース有り。なお、県道沿いに「行方市消防団第2分団第6部」車庫があり、その横の道路が「寿福寺」境内への入口であるが、道路が狭いので、回り道した方が安全と思われる。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「田の里の南に相鹿(あふか)・大生(おほふ)の里がある。古老が言うには、倭武天皇(日本武尊)が相鹿の丘前の宮に留まられたとき、食事を作る建物を浜辺に建てて、小舟を繋いで橋として行在所に通った。「大炊(おほい)」(天皇の食事を作る)の意義から「大生」の村と名付けた。また、皇后の大橘比売命が大和から来て、当地で逢ったことから「安布賀(あふか)」の邑というようになった。」(現代語訳)という記述がある。「田の里」というのは古代の行方郡道田郷で現・行方市小牧周辺とみられ、「相鹿」は古代の行方郡逢鹿郷で現・行方市岡周辺、「大生」は古代の行方郡大生郷で現・茨城県潮来市大生周辺と考えられる。そして、現・行方市岡の「寿福寺」と同じ境内に、「雷神社」と「丘前宮道鏡大明神(おかさきのみやどうきょうだいみょうじん)」がある。
「雷神社」の社伝によれば、日本武尊が東征の折、当地に着いて大炊の時に、炊事舎の傍らの椿(ツバキ)の樹に大きな雷が落ちた。詔があって、別雷命を祭神として社殿を建立したとされる。明治14年、村社に列格。雷神=田に雨をもたらす神として、特に農家の信仰が篤いとのこと。また、「丘前宮」は、日本武尊が当地を去るにあたり、石剣を遺した。これを神宝として「雷神社」の摂社として建立された。享保2年(1717年)に弓削道鏡(奈良時代の僧侶。孝謙天皇の寵愛を受けた。)を合わせ祀り、「丘前宮道鏡大明神」と称したという。
蛇足:上記「常陸風土記」の記述には不思議なところがある。先ず、当地と大生はかなり離れている(直線距離で約4km)のに、食事を運ぶために通ったということ。それは、おそらく、この逸話が単に地名の由来をこじつけたものということだろう。なお、食事は日本武尊のために作ったのではなく、日本武尊が北浦を渡って対岸の「沼尾神社」(常陸国一宮「鹿島神宮」の摂社、2017年10月21日記事)へ捧げるために運んだと解釈するべきという説がある。しかし、小舟を繋いで北浦を渡るというのは無理があるように思う。では、この舟橋はどこに掛けられていたのかということも不思議ではある。岡と大生の間にある「雁通川」だろうか。次に、日本武尊の妃といえば、普通は弟橘媛であるが、大橘比売と同一人物かどうか。「大」は年長を意味し、弟橘媛の姉を指す、という解釈もあるが、「后」というのに合わないし、義姉と逢うことが地名の由来にもなるような重大事というのは理解しにくい。同一人物とするなら、「日本書紀」・「古事記」では上総国に上陸する際の海難で既に亡くなっているはずで、話が合わなくなる。まあ、史実とは別のことなので、謎のままでもよいのかもしれないが・・・。
相賀山 海岸院 寿福寺(おうがさん かいがんいん じゅふくじ)。
寺伝によれば、神亀3年(726年)に行基が薬師仏を祀ったのが始まり。山号の「相賀山」というのが、古代の「逢鹿郷」(中世「相賀郷」)の遺称という。院号の「海岸院」は、開基の僧・海岸の名を取ったものである。神護景雲4年(770年)に道鏡は「下野薬師寺」(現・栃木県下野市)別当に左遷されるが、眼病を病み、当寺院の薬師如来の御利益を聞いて籠堂で100日間の修行を行った。その結願日に病気が快癒した道鏡は当地を去るが、薬師如来の霊験と道鏡の徳に感じた村人が道鏡大明神を祀ったという。その後、応永元年(1394年)に再興されるが、この頃には天台宗寺院となっていたらしい。本尊の木造薬師如来座像(松材の寄木造り、像高1m40cm)には、室町時代の応永29年(1422年)銘の胎内墨書があった。特に眼病平癒に御利益があり、多くの祈願者が「め」と書いた布巾を本堂正面の格子に結び付けたという。しかし、この薬師如来像は、平成12年の火災のため、享保2年(1717年)建立という本堂とともに焼失してしまった。現在の本堂は、その後の再建となる。
写真1:「寿福寺」入口
写真2:同上、本堂
写真3:「雷神社」鳥居、拝殿
写真4:同上、本殿
写真5:「日本武尊 大橘比売命 史蹟相鹿丘前宮跡」石碑
写真6:「丘前宮道鏡大明神」
写真7:同上、内部。木製の男根像が置かれている。子孫繁栄・五穀豊穣を願ったものだろうか。神宝の「石剣」というのも、元は縄文時代後期の磨製石器「石棒」で、同様の意味があったのかもしれない。