神が宿るところ

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小松館跡(茨城県小美玉市)

2023-07-08 23:33:11 | 史跡・文化財
小松館跡(こまつやかたあと)。
場所:茨城県小美玉市上玉里903-6外。茨城県道144号線(紅葉石岡線)「玉里郵便局前」から南西へ約650mで左折(南東へ)、約450m(「正一位稲荷大明神」付近)。駐車場なし。因みに、更に南西へ進んだ突き当りに「民家園(茨城県指定有形文化財 旧小松家住宅)」と「権現山古墳」(2019年1月26日記事)がある。
「小松館跡」は中世城館跡とされ、「いばらきデジタルまっぷ」でみると、県道から南側のかなり広い範囲にわたっているが、現在、遺構らしいものは特に見当たらない。一方、「玉里村史」によれば、平重盛(平清盛の嫡男。治承3年(1179年)、清盛より先に死去)が仮住居としたところ、あるいはその後裔が住んだところという伝説があるとしている。即ち、文治元年(1185年)平家滅亡の折、重盛の遺臣・筑後守平貞能は、僧形に身を変えて重盛の遺骨を持って東国に下った。諸所を廻った後、常陸国行方郡若海に落ち着き、遺骨とともに重盛愛用の笛と刀を葬り、小堂を建てた。重盛の後裔を探しだして、小松の末を立てることができた。後世、その子孫は、南北朝時代に常陸平氏の嫡流・大掾高幹に仕えたが、天正18~19年(1590~1591年)に大掾氏一族が滅亡した後、当地に移り住んだ。これが小松氏である。また、重盛所縁の薬師如来像(像高一寸八分=5.5cm)が祀られていたが、薬師堂は「松山バス停」付近に移転した。「小松館跡」からは、十八弁菊花紋の土器片が出土したという。
さて、重盛は京都の六波羅小松第に居を構えたことから、「小松殿」、「小松内府(内大臣)」などと通称された。重盛の遺骨が常陸国で埋葬されたという伝承があるが(「白雲山 普明院 小松寺」(2019年5月25日記事)及び前項参照)、流石に重盛本人、あるいはその後裔の仮寓説は伝説に過ぎないと思われる。
蛇足:平家の家紋としては、揚羽蝶紋が有名。これは、桓武平氏の祖・平国香の嫡男・平貞盛が平将門の反乱(「天慶の乱」)の鎮圧に功績があったとして、朝廷から蝶の文様がある鎧を賜ったことから、これを図案化して平家の家紋にしたという伝承がある。特に、平清盛が好んで使ったということで広まったといわれているが(因みに、清盛は貞盛の6代後になる。)、実際どうだったかは不明。また、現在の天皇及び皇室の紋章は十六葉表菊紋で、鎌倉時代の第82代・後鳥羽天皇(在位:1183年~1198年)が菊紋を好んだことから天皇家の紋章として定着したとされる。しかし、江戸時代には徳川幕府により葵紋の使用が厳しく制限された一方、菊紋を含めその他の紋の使用は自由だったので、必ずしも菊紋が皇族と関係があるとは限らないらしい。


写真1:「小松館跡」


写真2:中心部と思われる「正一位小松稲荷大明神」入口


写真3:同上、社号標。裏面を見ると、昭和60年に建てられたものらしい。


写真4:同上、社殿(覆い屋)


写真5:同上、本殿


写真6:同上、境内。五輪塔の一部だろうか。


写真7:薬師堂(場所:茨城県小美玉市上玉里885-1(「部室松山集会所」の住所)。茨城県道144号線(紅葉石岡線)「玉里郵便局前」から南西へ約500m。駐車場なし)
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