於岐都説神社(おきつせじんじゃ)。
場所:茨城県行方市沖洲603。国道6号線「山王台」交差点から国道355号線を東~東南へ約9.1km。駐車場なし。
社伝によれば、天長7年(830年)、葛原親王が常陸太守に任じられたとき、大任遂行を祈念して創立という。葛原親王は、第50代・桓武天皇の第三皇子で、子女を臣籍降下させて平朝臣姓を名乗らせたことから、所謂「桓武平氏」の祖とされる人物である。卑姓のため皇位にはつけなかったが、親王として諸官を歴任し、一品を授与された。常陸太守も兼任したことは、正史である六国史の1つ「日本文徳天皇実録」仁寿3年(853年)の条に葛原親王薨去の記事があり、その官歴の中に、天長7年に常陸太守を兼ねたとの記載がみえる。ただし、これは名誉職で、常陸国には来たことはないと思われる。しかし、葛原親王の第三子・高望王は関東に下向し、子の平国香らとともに常陸国・下総国・上総国を開拓した。ここから、平将門も出たし、中世には千葉氏・相馬氏などに繋がっていく。なので、葛原親王を持ち出したのは、こうした高望王流桓武平氏の一族かもしれない。
さて、当神社については、「日本三代実録」仁和元年(885年)の条にある「常陸国正六位上於岐都説神に従五位下を授ける」という記事が当神社のことであるとする説がある。所謂「国史見在社」の「於岐都説神」の論社ということになる。この「於岐都説神」については、現・茨城県神栖市の「息栖神社」(2017年12月2日記事)に当てる説が一般的である。しかし、これには、「息栖神社」が「鹿島神宮」・「香取神宮」との結び付きが強く(あわせて「東国三社」と称された。)として社勢が強かったことも影響しているかもしれない。当神社は、霞ヶ浦畔にあって、常陸国でも比較的古く、大きな前方後円墳が多い「沖洲古墳群」の範囲内に鎮座している。当神社の北西約600mのところに大型古墳の「三昧塚古墳」(次項予定)があり、南東約150mには4世紀後半頃(茨城県内最古クラス)の築造といわれる「勅使塚古墳」がある(「勅使塚古墳」は私有地内にあるため、見学は遠慮した。)。また、当神社の現在の祭神は、天照皇大神・国常立尊・経津主命・武甕槌命・天児屋根命であるが、常陸国に縁が深い経津主命(「香取神宮」祭神)・武甕槌命(「鹿島神宮」祭神)・天児屋根命(「春日大社」祭神)を除くと、天照皇大神・国常立尊というのは、日本全体の祖神とはいえるものの、当神社の祭神とするには一般的すぎるというか、「於岐都説神」という名とそぐわないような気もする。これに比べると、「息栖神社」の祭神は久那斗神・天乃鳥船神・住吉三神で、如何にも水上交通の神という感じである。これらのことは、逆に、当神社の神は本来、名も知れない古い自然神(沖洲自体を崇めるような)を祀っていたのかもしれない。一方、当神社を上記「息栖神社」の分社とする説もある。それは、承安元年(1174)、常陸介・高階経仲が橘郷を「鹿島神宮」に寄進したので、「鹿島神宮」から大禰宜中臣則親が遣わされ、支配を任せた。則親は、現・天台宗「萬福寺」(2023年7月1日記事)付近に「羽生館」を築いて、羽生氏を名乗った。あるいは、このとき、羽生氏が当地に「息栖神社」を勧請したのかもしれない、というものである。
写真1:「於岐都説神社」正面。鳥居と社号標(「於岐都説神社」)
写真2:御手洗池?
写真3:拝殿
写真4:本殿
場所:茨城県行方市沖洲603。国道6号線「山王台」交差点から国道355号線を東~東南へ約9.1km。駐車場なし。
社伝によれば、天長7年(830年)、葛原親王が常陸太守に任じられたとき、大任遂行を祈念して創立という。葛原親王は、第50代・桓武天皇の第三皇子で、子女を臣籍降下させて平朝臣姓を名乗らせたことから、所謂「桓武平氏」の祖とされる人物である。卑姓のため皇位にはつけなかったが、親王として諸官を歴任し、一品を授与された。常陸太守も兼任したことは、正史である六国史の1つ「日本文徳天皇実録」仁寿3年(853年)の条に葛原親王薨去の記事があり、その官歴の中に、天長7年に常陸太守を兼ねたとの記載がみえる。ただし、これは名誉職で、常陸国には来たことはないと思われる。しかし、葛原親王の第三子・高望王は関東に下向し、子の平国香らとともに常陸国・下総国・上総国を開拓した。ここから、平将門も出たし、中世には千葉氏・相馬氏などに繋がっていく。なので、葛原親王を持ち出したのは、こうした高望王流桓武平氏の一族かもしれない。
さて、当神社については、「日本三代実録」仁和元年(885年)の条にある「常陸国正六位上於岐都説神に従五位下を授ける」という記事が当神社のことであるとする説がある。所謂「国史見在社」の「於岐都説神」の論社ということになる。この「於岐都説神」については、現・茨城県神栖市の「息栖神社」(2017年12月2日記事)に当てる説が一般的である。しかし、これには、「息栖神社」が「鹿島神宮」・「香取神宮」との結び付きが強く(あわせて「東国三社」と称された。)として社勢が強かったことも影響しているかもしれない。当神社は、霞ヶ浦畔にあって、常陸国でも比較的古く、大きな前方後円墳が多い「沖洲古墳群」の範囲内に鎮座している。当神社の北西約600mのところに大型古墳の「三昧塚古墳」(次項予定)があり、南東約150mには4世紀後半頃(茨城県内最古クラス)の築造といわれる「勅使塚古墳」がある(「勅使塚古墳」は私有地内にあるため、見学は遠慮した。)。また、当神社の現在の祭神は、天照皇大神・国常立尊・経津主命・武甕槌命・天児屋根命であるが、常陸国に縁が深い経津主命(「香取神宮」祭神)・武甕槌命(「鹿島神宮」祭神)・天児屋根命(「春日大社」祭神)を除くと、天照皇大神・国常立尊というのは、日本全体の祖神とはいえるものの、当神社の祭神とするには一般的すぎるというか、「於岐都説神」という名とそぐわないような気もする。これに比べると、「息栖神社」の祭神は久那斗神・天乃鳥船神・住吉三神で、如何にも水上交通の神という感じである。これらのことは、逆に、当神社の神は本来、名も知れない古い自然神(沖洲自体を崇めるような)を祀っていたのかもしれない。一方、当神社を上記「息栖神社」の分社とする説もある。それは、承安元年(1174)、常陸介・高階経仲が橘郷を「鹿島神宮」に寄進したので、「鹿島神宮」から大禰宜中臣則親が遣わされ、支配を任せた。則親は、現・天台宗「萬福寺」(2023年7月1日記事)付近に「羽生館」を築いて、羽生氏を名乗った。あるいは、このとき、羽生氏が当地に「息栖神社」を勧請したのかもしれない、というものである。
写真1:「於岐都説神社」正面。鳥居と社号標(「於岐都説神社」)
写真2:御手洗池?
写真3:拝殿
写真4:本殿