鹿島神社(かしまじんじゃ)。
場所:茨城県鉾田市当間2182。茨城県道8号線(小川鉾田線)「当間」交差点から東に約190mで左折(北へ)、約290m進んだところ(カーヴミラーがあるところ)で左折(西へ)。ただし、この先、道路が狭い上に、神社前まで行くと行き止まりになるので、自動車では無理に入って行かない方が良い。駐車場なし。
社伝等によれば、「常陸国風土記」に記載された行方郡当麻郷の「二神子之社」は当神社のことであるとする。往古、日本武尊が東征の折に、この丘に仮宮を置いたので、後に里人が日本武尊を仰慕して創建したという。中古炎上、寛永3年(1626年)再建、明治15年に村社に列格。現在の祭神は、武甕槌命。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「(行方)郡家から東北に15里のところに当麻の郷がある。古老が言うのに、倭武天皇(ヤマトタケル)が当郷を巡幸されたとき、佐伯(土着の先住民)で鳥日子という者がいて、命令に従わなかったので、直ちに殺した。その後、屋形野の仮宮にお出でになったが、車駕の通る道が狭く、凹凸が酷かった。そこで、悪路という意味で、当麻という地名になった。(中略)...(ここに)「二つの神子の社」がある。...」(現代語訳)という記述がある。この辺りの記述は、いろいろ問題があるところで、まず第一に、「凹凸が酷かった」というのは「たぎたぎしい」という言葉で、「当麻」はタギマと読む。現・奈良県葛城市當麻(推古天皇20年(612年)創建と伝わる「當麻寺(二上山 万法蔵院 禅林寺)」がある。)も、「でこぼこのあるさま」を意味する古語の「たぎたぎしい」から、元は「當岐麻」と書いたのが「當麻」となり、「タギマ」が「タイマ」に転訛した地名であるという(通説)。この「當麻(当麻)」の遺称地が現・鉾田市当間(とうま)である、ということには殆ど異論がない。しかし、当間は巴川(この川の名も当麻川から転じたものという。)の左岸(北岸)にあり、近世には鹿島郡に属していた。このことについて、①古代には巴川が郡境ではなく、現・当間も行方郡に属した、あるいは、古代の当麻は現・当間だけでなく、巴川右岸を含む広い地域だった、②古代の当麻郷は近世の旧・行方郡秋津村(現・鉾田市高田・串挽・野友・半原・借宿・青柳)に比定され、後に地名が巴川左岸に移った、という説がある。資料に乏しいので、この問題はなかなか決着が着かない感じではある。第二に、「屋形野」という地名には遺称地がない。仮宮(原文は「帳宮(とばりのみや)」)を置いたところから、逆に「屋形野」と名付けたのではないかという説もある。また、当間の西(巴川の対岸)に現・鉾田市借宿があり、この地名を仮宮に関連付ける説がある。第三に、「二つの神子の社」というのが、常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」の分祠、ということには異論がないが、鹿島・香取の2つの神社があったのか、鹿島・香取の2神を祀る1つの神社があったのかは不明。
ということで、いろいろ問題はあるが、この「二つの神子の社」の候補の1つが当間の鎮守社である当神社である、ということになる。なお、「茨城縣神社誌」(昭和48年)の当神社の項では、当地は、元は行方郡であったが、後に鹿島郡に編入されたとしている。
写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標(「鎮守 鹿嶋神社」)
写真2:社殿
写真3:本殿
場所:茨城県鉾田市当間2182。茨城県道8号線(小川鉾田線)「当間」交差点から東に約190mで左折(北へ)、約290m進んだところ(カーヴミラーがあるところ)で左折(西へ)。ただし、この先、道路が狭い上に、神社前まで行くと行き止まりになるので、自動車では無理に入って行かない方が良い。駐車場なし。
社伝等によれば、「常陸国風土記」に記載された行方郡当麻郷の「二神子之社」は当神社のことであるとする。往古、日本武尊が東征の折に、この丘に仮宮を置いたので、後に里人が日本武尊を仰慕して創建したという。中古炎上、寛永3年(1626年)再建、明治15年に村社に列格。現在の祭神は、武甕槌命。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「(行方)郡家から東北に15里のところに当麻の郷がある。古老が言うのに、倭武天皇(ヤマトタケル)が当郷を巡幸されたとき、佐伯(土着の先住民)で鳥日子という者がいて、命令に従わなかったので、直ちに殺した。その後、屋形野の仮宮にお出でになったが、車駕の通る道が狭く、凹凸が酷かった。そこで、悪路という意味で、当麻という地名になった。(中略)...(ここに)「二つの神子の社」がある。...」(現代語訳)という記述がある。この辺りの記述は、いろいろ問題があるところで、まず第一に、「凹凸が酷かった」というのは「たぎたぎしい」という言葉で、「当麻」はタギマと読む。現・奈良県葛城市當麻(推古天皇20年(612年)創建と伝わる「當麻寺(二上山 万法蔵院 禅林寺)」がある。)も、「でこぼこのあるさま」を意味する古語の「たぎたぎしい」から、元は「當岐麻」と書いたのが「當麻」となり、「タギマ」が「タイマ」に転訛した地名であるという(通説)。この「當麻(当麻)」の遺称地が現・鉾田市当間(とうま)である、ということには殆ど異論がない。しかし、当間は巴川(この川の名も当麻川から転じたものという。)の左岸(北岸)にあり、近世には鹿島郡に属していた。このことについて、①古代には巴川が郡境ではなく、現・当間も行方郡に属した、あるいは、古代の当麻は現・当間だけでなく、巴川右岸を含む広い地域だった、②古代の当麻郷は近世の旧・行方郡秋津村(現・鉾田市高田・串挽・野友・半原・借宿・青柳)に比定され、後に地名が巴川左岸に移った、という説がある。資料に乏しいので、この問題はなかなか決着が着かない感じではある。第二に、「屋形野」という地名には遺称地がない。仮宮(原文は「帳宮(とばりのみや)」)を置いたところから、逆に「屋形野」と名付けたのではないかという説もある。また、当間の西(巴川の対岸)に現・鉾田市借宿があり、この地名を仮宮に関連付ける説がある。第三に、「二つの神子の社」というのが、常陸国一宮「鹿島神宮」と下総国一宮「香取神宮」の分祠、ということには異論がないが、鹿島・香取の2つの神社があったのか、鹿島・香取の2神を祀る1つの神社があったのかは不明。
ということで、いろいろ問題はあるが、この「二つの神子の社」の候補の1つが当間の鎮守社である当神社である、ということになる。なお、「茨城縣神社誌」(昭和48年)の当神社の項では、当地は、元は行方郡であったが、後に鹿島郡に編入されたとしている。
写真1:「鹿島神社」鳥居と社号標(「鎮守 鹿嶋神社」)
写真2:社殿
写真3:本殿