鞍掛石(くらかけいし)。
場所:茨城県那珂市門部。茨城県道62号線(常陸那珂港山方線)と同104号線(那珂瓜連線)の交差点から、県道104号線を西へ約1kmのところで左側道に入り、道なりに西へ約400m。側道に入ったところと、所在地への入口のところに「鞍掛石」の案内看板がある。駐車場なし。
茨城県中央部から北部にかけて、八幡太郎・源義家にまつわる伝説が多く残されている。義家の弟である新羅三郎・義光の孫、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現:茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)に住み、地名に因んで「佐竹」氏を名乗ったとされており、源義家は佐竹氏にとって英雄的な祖先ということになる。
「鞍掛石」は、源義家が奥州征伐に向かう途中、鞍を馬から外して石に掛けて休憩したところ、後日その石が鞍に似てしまったというもの。確かに鞍の形にそっくりだが、もちろん、石の形が変わったというのは伝説に過ぎないだろう。それが、玉垣に囲まれ、鳥居・石碑も建てられるなど、今に至るまで神聖なものとして守られていることに重みを感じる。
因みに、「鞍掛石」のある場所は台地の端で、台地上には「小屋場館」という中世の城郭跡があり、当地付近は源義家が奥州征伐のための兵馬を飼育していた場所という伝承もあるらしい。中世には、山や丘の上に領主の館があり、その山の根(麓)に配下の集落が生まれ、そこから「根小屋」(「根古屋」)という地名が関東を中心に各地に今も残っている。そして、当地には次のような伝承もあるという。即ち、当地に源頼家の館があったが、粗末なものであった。そのため、義家に遠慮して、当地の農家の屋根には瓦を葺かない(「屋根を瓦葺にした家は滅びる」)し、また檜(ヒノキ)造りにはしない(「ヒノキは火柱が立つ」)というもの。もちろん、今ではそのようなことはないようだが、源義家にまつわる「長者伝説」(長者が過大な歓待をしたことで、滅ぼされるという伝説。「台渡里官衙遺跡群」2019年3月16日記事参照)を考えると、おとなしくしていて滅ぼされずに済んだという逆の話かもしれない。
那珂市観光協会のHPから(史跡・天然記念物)
写真1:「鞍掛石」前の鳥居
写真2:「源義家公遺跡 鞍掛石之碑」
写真3:石祠
写真4:「鞍掛石」
場所:茨城県那珂市門部。茨城県道62号線(常陸那珂港山方線)と同104号線(那珂瓜連線)の交差点から、県道104号線を西へ約1kmのところで左側道に入り、道なりに西へ約400m。側道に入ったところと、所在地への入口のところに「鞍掛石」の案内看板がある。駐車場なし。
茨城県中央部から北部にかけて、八幡太郎・源義家にまつわる伝説が多く残されている。義家の弟である新羅三郎・義光の孫、昌義が常陸国久慈郡佐竹郷(現:茨城県常陸太田市稲木町周辺、旧佐竹村)に住み、地名に因んで「佐竹」氏を名乗ったとされており、源義家は佐竹氏にとって英雄的な祖先ということになる。
「鞍掛石」は、源義家が奥州征伐に向かう途中、鞍を馬から外して石に掛けて休憩したところ、後日その石が鞍に似てしまったというもの。確かに鞍の形にそっくりだが、もちろん、石の形が変わったというのは伝説に過ぎないだろう。それが、玉垣に囲まれ、鳥居・石碑も建てられるなど、今に至るまで神聖なものとして守られていることに重みを感じる。
因みに、「鞍掛石」のある場所は台地の端で、台地上には「小屋場館」という中世の城郭跡があり、当地付近は源義家が奥州征伐のための兵馬を飼育していた場所という伝承もあるらしい。中世には、山や丘の上に領主の館があり、その山の根(麓)に配下の集落が生まれ、そこから「根小屋」(「根古屋」)という地名が関東を中心に各地に今も残っている。そして、当地には次のような伝承もあるという。即ち、当地に源頼家の館があったが、粗末なものであった。そのため、義家に遠慮して、当地の農家の屋根には瓦を葺かない(「屋根を瓦葺にした家は滅びる」)し、また檜(ヒノキ)造りにはしない(「ヒノキは火柱が立つ」)というもの。もちろん、今ではそのようなことはないようだが、源義家にまつわる「長者伝説」(長者が過大な歓待をしたことで、滅ぼされるという伝説。「台渡里官衙遺跡群」2019年3月16日記事参照)を考えると、おとなしくしていて滅ぼされずに済んだという逆の話かもしれない。
那珂市観光協会のHPから(史跡・天然記念物)
写真1:「鞍掛石」前の鳥居
写真2:「源義家公遺跡 鞍掛石之碑」
写真3:石祠
写真4:「鞍掛石」
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます