神が宿るところ

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梵天山古墳(茨城県常陸太田市)

2019-08-17 23:14:03 | 古墳
梵天山古墳(ぼんてんやまこふん)。別名:梵天塚古墳。
場所:茨城県常陸太田市島町2317。茨城県道166号線(和田上河合線)「梵天山入口」交差点から南西へ(「梵天山厄除け大師」という大きな看板があり、矢印の方向へ)、約1.3km進んだところで(「梵天山 宝金剛院」という看板が出ている。)右折(北西へ)、突き当りを左折(西へ)直ぐのところに「宝金剛院」という寺院があり、その裏手に「梵天山古墳」がある。「宝金剛院」に駐車場有り。
「梵天山古墳」は、常陸太田市南西端の台地上にある「梵天山古墳群」(前方後円墳1基、円墳12基、横穴墓60数基)の主墳で、墳丘長約151m、後円部径約81m(高さ約13m)、前方部幅約56m(高さ約8m)という前方後円墳で、茨城県内第2位(第1位は石岡市の「舟塚山古墳」(墳丘長約186m。2018年2月10日記事)の規模という。なお、「宝金剛院」の建立により後円部の一部が削られたといわれ、後円部径は約90m、墳丘長も約160mの規模だった可能性があるらしい。発掘調査は行われていないが、葺石・埴輪・周溝はないとされる(周辺の古墳からは直刀などが出土しているとのこと。)。築造時期については、後円部に対して前方部が未発達という特徴から、古墳時代初期あるいは同前期とする説があり、具体的には5世紀前半~中期と推定されているようだ。被葬者については、その規模からみて、古くから久慈川流域を支配した首長の墳墓とされ、初代の久自(久慈)国造・船瀬足尼(フナセノスクネ)の墓と伝えられている。因みに、「先代旧事本紀」(平安時代初期成立?)の「国造本紀」によれば、第13代成務天皇の時代に物部氏の祖である伊香色雄命(イカガシコオ)の3世孫の船瀬足尼(船瀬宿禰)が初代久自国造に任命されたとされる。
蛇足:「水府志料」(小宮山楓軒著、江戸時代後期)によれば、当古墳は「亀の形に似ているというところから「金亀山」とも言い、亀を食べる者が登ると必ず怪我をする。このため、村人は亀を食べない。」という記述があるらしい。


常陸太田市観光物産協会のHPから(梵天山古墳群)

茨城県教育委員会のHPから(梵天山古墳群)


写真1:「梵天山 宝金剛院 性海寺」(真言宗豊山派、本尊:大日如来)境内入口


写真2:同上、本堂。「梵天山古墳」は、本堂の向かって左脇を抜けて、背後にある。


写真3:「梵天山古墳」墳頂への登り口。


写真4:鳥居を潜って後円部に上る。


写真5:後円部の墳頂にある祠。


写真6:後円部から前方部を見る。


写真7:前方部から後円部を見る。


写真8:後円部の下から前方部を見る。括れがわかる。


写真9:前方部(南から見る)。
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