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武者塚古墳(茨城県土浦市)

2023-12-16 23:32:35 | 古墳
武者塚古墳(むしゃづかこふん)。
場所:茨城県土浦市上坂田1153。目印が少ないので案内が難しいが、例えば、国道6号線土浦バイパス「常名高架橋」の下付近から茨城県道199号線(小野土浦線)を西へ約2.4km進んだところに案内看板があり、そこを右折(北へ)して約450m進むと、交差点に再び案内看板があって、そこを左折(南西へ)、約60mで右折(北西へ)、すぐ。駐車場有り。
「武者塚古墳」(武者塚古墳群1号墳)は、桜川左岸(北岸)の台地上で発見された円墳で、直径約23m、墳丘の周囲には周溝があったとされている。実は、当古墳は、江戸時代末の安政元年(1855年)、農家の屋敷続きの小丘で山芋掘りの際に武具(甲冑の一部)が発見され、代官に届けたところ、大事に保存するようにとの指示を受け、出土物はその農家の神棚に祀られていたという。本格的な発掘調査が行われたのは昭和58年であるが、このときには墳丘自体は完全に削平されており、畑地になっていた。発掘の結果、地下に箱形石棺と横穴式石室の特徴を併せて持つ特異な石室が発見され、中に6体分の遺体があって、その1体には「美豆良(みずら)」という髪型の毛髪が残っていた。他にも、銀製の飾大刀・飾り金具、青銅製杓など全国的にも類例の少ない貴重な出土品が未盗掘状態で発見された。築造時期は、古墳時代終末期(7世紀後半頃)と推定されている。現在、覆屋の建物内に石室が保存されており、金網越しに外から見学することができる。また、この建物の横に、元は約170m北側にあった(湮滅)「武者塚古墳群2号墳」の石棺が移され、屋外展示されている。なお、出土品は国指定重要文化財に指定され、「上高津貝塚ふるさと歴史の広場 考古資料館」で展示されている。また、古墳は土浦市指定文化財に指定され、同館附属の展示施設として管理されている。
因みに、当古墳から桜川を渡り、「作蔵山 東福寺」(「瀧夜盛姫の墓」(2021年5月8日記事)付近を通り、そのまま南西に進むと「河内郡家」跡に比定される「金田官衙遺跡」(2021年4月17日記事)に至る。越田真太郎氏によれば、このルートに古代伝路があったのだろうとしている。即ち、当古墳付近から北東に進んで現・石岡市下稲岡・新治付近で古代東海道に接続し、「常陸国府」(現・石岡市。2018年1月6日記事)に至る。また、途中は不明だが、「金田官衙遺跡」(河内郡家比定地)から南西に進んで「清安山 不動院」(通称「板橋不動尊」。2021年11月20日記事)付近を通り、現・茨城県取手市戸頭付近から利根川を渡って、さらに進むと古代東海道に接続する。平安時代の古代東海道は、下総国の現・千葉県我孫子市~茨城県利根町から現・茨城県竜ヶ崎市に入り、現・稲敷市を通るルートが想定されている(「常陸国の古代東海道(その1・榛谷駅)」(2022年1月22日記事)。このルートでは「下総国府」(現・千葉県市川市。2013年1月12日記事)からすると、かなり遠回りになるが、これは奈良時代の古代東海道の一部を利用していることによる。そこで、伝路ではあるが、上記ルートを通れば「常陸国府」への近道になるので、あるいは国司の往来にも使われたのではないかとも考えられている。


茨城県教育委員会のHPから(茨城県武者塚古墳出土物)



写真1:「武者塚古墳展示施設」


写真2:武者塚古墳群1号墳の石室。6体もの人骨が発見されたことから、追葬が行われたらしいが、横穴式石室の開口部は存在しないため、前室の天井石を取り外して納めたと考えられている。展示は、全室の天井石を取り外し、玄室の天井石を被せた状態となっている。


写真3:武者塚古墳群2号墳の箱形石棺

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