神が宿るところ

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稲村神社(茨城県常陸太田市)(常陸国式内社・その21)

2019-08-24 23:49:29 | 神社
稲村神社(いなむらじんじゃ)。
場所:茨城県常陸太田市天神林町3228。茨城県道61号線「天神林町」交差点から南西へ約500m。「佐竹寺」山門前を右折(北西へ)、道なりに狭い道路を南西方向に約280m進む。参道に入ったところに駐車スペースあり。入口から真っ直ぐな参道が社殿前まで約270m続く。
一説に、第12代・景行天皇40年(110年?)、日本武尊が東征の折、当地に天神七代を祀り、戦勝を祈願したともいう。社伝では、第13代・成務天皇代(131~190年?)に、物部連の祖である伊香色雄命(イカガシコオ)の三世孫、船瀬足尼(フナセノスクネ)が久自(久慈)国造に任命されたとき、大祖である饒速日尊(ニギハヤヒ)を祀ったのが始めとする。物部氏族二十五部の中に「狭竹物部」があり、その一族が居住したことにより「佐竹郷」の名の由来となった。祖神・ニギハヤヒを祀るので「天津神」の意味で「天神」と呼び、また神鏡7面があったので「七代天神」ともいったという。元禄6年(1693年)に水戸藩第2代・徳川光圀が当地を巡見した際、村の鎮守であった「八幡神社」を廃し(光圀は「八幡神社」嫌いであった。)、6ヵ所に分かれて祀られていた「天神」を合祀して、現在地(天神山)に移して「七代天神宮」(または「七代天神社」)と称し、村の鎮守と定めた。「天神」の名から、江戸時代には菅原道真公が祭神とされていたようであり、常陸国式内社「稲村神社」に比定され、「稲村神社」と改称されたのは明治時代になってかららしい。現在の主祭神は饒速日尊で、天神七代(天地開闢の初めに現れた7代の天津神)とされる国常立尊・国狹槌尊・豊斟渟尊・泥土煮尊・沙土煮尊・大戸之道尊・大苫辺尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉册尊を配祀する。
さて、常陸国式内社「稲村神社」は、「続日本後紀」嘉祥2年(849年)の記事に「常陸国久慈郡の稲村神が官社に預かる。水旱のときに祈ると必ず霊験があったからである」という趣旨の記載がある。また、「日本三代実録」元慶2年(878年)の記事に「常陸国正六位上の稲村神に従五位下を授ける」、同じく元和元年(885年)の記事に「常陸国従五位下の静神と稲村神に従五位上を授ける」という記事がある。そして、延喜式神名帳に常陸国久慈郡鎮座の小社「稲村神社」として登載された。当神社はこの式内社「稲村神社」に比定されているが、上記のように、古く「稲村神社」と呼ばれていたという根拠がない。しかし、当神社の南西、約2km(直線距離)のところに「梵天山古墳」(前項)があり、これが久慈国造・船瀬足尼の墳墓との伝承があること、当地の隣に「稲木」(現・常陸太田市稲木町)があり(「天神林」は「稲木」からの分村であるとする文書もあるらしい。)、元は「稲材神社(いなきじんじゃ)」であったのを「稲村」と間違えられたのだ、ということから、当神社が式内社「稲村神社」に比定されることになったようである。なお、他の論社として「近津神社(下津宮)」(現・茨城県久慈郡大子町)と「磯部稲村神社」(現・茨城県桜川市)があるが、前者は古代には陸奥国の領域内、後者は常陸国だが新治郡の領域と考えられるので、有力ではないとされる。ということで、当神社が式内社「稲村神社」に比定されることに、ほぼ異論がない状況と考えられる。


写真1:「稲村神社」境内入口の社号標(「延喜式内 (郷社)稻村神社」)


写真2:一の鳥居


写真3:参道は台地の狭く長い尾根上を進む。


写真4:二の鳥居。社殿は一段高いところにある。


写真5:神門


写真6:拝殿


写真7:本殿


写真8:境内には小祠がずらり。


写真9:摂社「雷神社(らいじんじゃ)」。元々当神社は降雨祈願に御利益があり、後に「雷神社」が摂社として独立し、この石祠を神輿の中に入れて練り歩く「雨乞い神事」が行われたという。
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