神が宿るところ

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徐福塚(秋田県男鹿市)

2017-01-14 23:26:40 | 伝説の地
徐福塚(じょふくづか)。
場所:秋田県男鹿市船川港本山門前字祓川27。JR男鹿線「男鹿駅」前付近から秋田県道59号線(男鹿半島線)を南西~西へ、約14km。「五社堂入口」の案内板が出ているところに「長楽寺」駐車場がある。
「赤神神社」(前項)の前身である「赤神山 日積寺 永禅院」は、貞観2年(860年)、円仁(慈覚大師、第3代天台座主)により創建されたとされる。以来、山岳修験の霊場として栄え、往時には9ヵ寺48坊があったという。南北朝時代には天台宗から真言宗に改宗、明治期の神仏分離により「赤神神社」が独立する一方で、「日積寺 永禅院」は廃寺となった。「男鹿本山(瑠璃山) 長楽寺」は、現在まで残る数少ない末寺の1つで、現在は真言宗智山派に属し、本尊は薬師如来。また、秋田三十三観音霊場の第26番札所ともなっている(霊場本尊は如意輪観音)。「赤神神社 五社堂」の999段の石段の中腹辺りにあり、その近道になる。
さて、「長楽寺」境内に「徐福塚」がある。徐福というのは、中国の秦の時代の方士(方術、即ち卜占・医術・錬金術などを行う者で、仙人修行をする者というのがイメージに近いか?)で、司馬遷の「史記」のうち「淮南衝山列伝」に、始皇帝(在位:前247~210年)の命を受けて不老不死の霊薬を探しに出かけた、という記事がある。より具体的には、中国の東方に「三神山(蓬莱・方丈・瀛州)」というところがあって、そこにある不老不死の霊薬を求め、3千人の若い男女と五穀の種、多くの技術者たちを連れて船出した。しかし、上陸した先で広い土地を得て、王となり、帰らなかった、とされる。このエピソードから、徐福が向かった先は日本であり、徐福や同行した人々が日本人の祖先となった、という伝説が生まれた。こうして、日本各地に徐福の上陸地など、所縁があるとされる場所が存在することとなったらしい。
秋田県男鹿市の「徐福塚」が何を記念したものかは不明。この「徐福塚」のことは、江戸時代の紀行家・菅江真澄の記録にあり、図面も書いている。その後、当時の「徐福塚」は所在不明となっていたが、2005年に「徐福塚復元実行委員会」によって現在の「徐福塚」が復元されたものという。菅江真澄自身は、この「徐福塚」がさほど古いものではなく、徐福が上陸したのは紀州(現・和歌山県)であるという説が流布していたことから、「徐福塚」を建てたのは紀州・熊野の修験者ではないか、と冷静な判断をしているようである。ただ、前項の「赤神神社」の「赤神」=漢の武帝、という伝説もそうであるが、古くからの中国との結びつきを感じさせる。紀元前3世紀はともかくも、「続日本紀」によれば、天平18 年(746年)、渤海及び鉄利の人1千1百人が出羽国に漂着した、という記録もあり、中国大陸と日本海側諸国との往来があったことが背景となっているように思われる。
蛇足ながら、上記「史記」の別のところ(「秦始皇帝本紀」)では、徐福は始皇帝の命を受け、船出の援助を受けたものの、出立しないまま、そのうちに始皇帝が崩御した、と書かれている(要するに、徐福は始皇帝を騙して金品を受け取った人物である。)らしい。こちらだと、何のロマンもない話となるが・・・。


写真1:「長楽寺」本堂


写真2:同、「宝物殿」手前の鳥居。その先、「赤神神社 五社堂」方面


写真3:境内の宝篋印塔


写真4:同、「徐福塚」(復元)





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