玉清井(たまきよのい)。
場所:茨城県行方市井上893-1。国道355号線「荒宿」交差点から北西へ約600m進んで右折(北東へ)、約170mで右折(南東へ)、約80m。駐車スペース有り。目印が乏しいが、国道355号線から田圃の中に森が見えるので、わかりやすい。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「倭武天皇(日本武尊)が天下巡幸を行い、香取海の北方を平定したとき、当地を通った。槻野の清泉を訪れ、水に近寄って手を洗い、玉(勾玉)を泉に落とした。この泉は今も行方の里の中にあって、玉清の井と称している。」(現代語訳)という記述がある。「槻野」という地名の遺称地はないが、一般に当地の池が「玉清井」であるとされている。現在も水は涸れることがなく、地元では「永井戸」と呼んでいた。江戸時代、「天明の大飢饉」(1782~1788年)の折、村人が泉を溜池にした。このとき、江戸の「妻恋稲荷」(「関東総司 妻恋神社」、現・東京都文京区)から分霊を勧請して、「永井戸稲荷神社」を創建。明治44年、「八幡神社」を合祀して「玉清井神社」と改称したという。
なお、「玉清井神社」から、北西約300m(直線距離)のところにも「玉清井遺蹟」(通称:石根様)というところがある。ここには現在、泉は無く、小さな石祠と倒れた石碑などがあるだけで、詳細不明。行方台地の下には水が湧いていたところが何ヵ所かあったようで、他の場所にも伝承地があったのかもしれない。
蛇足:「常陸国風土記」は写本しか残っておらず、省略が多い(ただし、総記と行方郡の条には「省略しない」との注記がある。)ことはよく知られているが、誤字・脱字も結構多いらしい。このため、校訂・注釈により、読み方や意味が変わったりするところがある。日本武尊が泉に玉を落とすところでは、原文は「臨水洗手 以玉□井」となっていて、□が所謂「くずし字」で読み難いため、「落」のほか、「榮」・「為」・「尊」などとする説がある。「落」なら、「玉をうっかり泉に落とした」というニュアンスがあるが、例えば「榮(栄)」なら「さきわう(幸う)」と読んで、「玉で泉を言祝いだ」という意味になるという。確かに、「玉を落とした」だけだと、何だか尻切れトンボのような感じではある。清い泉は貴重なものだったろうし、日本武尊が剣で岩に切りつけて清水を出したという伝説もある(現・茨城県つくば市大形の「鹿島神社」(2020年8月29日記事)など)。仮に「落とした」としても、そこには何か呪術的な、あるいは儀式的な意味があったのだろうと思われる。
茨城県のHPから(玉清井)
写真1:「玉清井神社」参道入口、社号標。
写真2:同上、鳥居
写真3:同上、社殿。祭神:倉稲魂命
写真4:同上、「玉清井」石碑。撰文は栗田寛(元東京帝大教授。「大日本史」最後の執筆者)による。
写真5:同上、「玉清井」
写真6:同上、池の中にある日本武尊の銅像。宮路久子氏の作。
写真7:「玉清井遺蹟」石碑。昭和10年頃、「玉清井」真贋論争があったらしい。
写真8:同上、「槻野清泉 石根神社 祭神 日本武尊 石凝姥命」石碑
写真9:同上、石祠
写真10:手前「玉清井遺蹟」、奥に見える森が「玉清井神社」
場所:茨城県行方市井上893-1。国道355号線「荒宿」交差点から北西へ約600m進んで右折(北東へ)、約170mで右折(南東へ)、約80m。駐車スペース有り。目印が乏しいが、国道355号線から田圃の中に森が見えるので、わかりやすい。
「常陸国風土記」行方郡の条に、「倭武天皇(日本武尊)が天下巡幸を行い、香取海の北方を平定したとき、当地を通った。槻野の清泉を訪れ、水に近寄って手を洗い、玉(勾玉)を泉に落とした。この泉は今も行方の里の中にあって、玉清の井と称している。」(現代語訳)という記述がある。「槻野」という地名の遺称地はないが、一般に当地の池が「玉清井」であるとされている。現在も水は涸れることがなく、地元では「永井戸」と呼んでいた。江戸時代、「天明の大飢饉」(1782~1788年)の折、村人が泉を溜池にした。このとき、江戸の「妻恋稲荷」(「関東総司 妻恋神社」、現・東京都文京区)から分霊を勧請して、「永井戸稲荷神社」を創建。明治44年、「八幡神社」を合祀して「玉清井神社」と改称したという。
なお、「玉清井神社」から、北西約300m(直線距離)のところにも「玉清井遺蹟」(通称:石根様)というところがある。ここには現在、泉は無く、小さな石祠と倒れた石碑などがあるだけで、詳細不明。行方台地の下には水が湧いていたところが何ヵ所かあったようで、他の場所にも伝承地があったのかもしれない。
蛇足:「常陸国風土記」は写本しか残っておらず、省略が多い(ただし、総記と行方郡の条には「省略しない」との注記がある。)ことはよく知られているが、誤字・脱字も結構多いらしい。このため、校訂・注釈により、読み方や意味が変わったりするところがある。日本武尊が泉に玉を落とすところでは、原文は「臨水洗手 以玉□井」となっていて、□が所謂「くずし字」で読み難いため、「落」のほか、「榮」・「為」・「尊」などとする説がある。「落」なら、「玉をうっかり泉に落とした」というニュアンスがあるが、例えば「榮(栄)」なら「さきわう(幸う)」と読んで、「玉で泉を言祝いだ」という意味になるという。確かに、「玉を落とした」だけだと、何だか尻切れトンボのような感じではある。清い泉は貴重なものだったろうし、日本武尊が剣で岩に切りつけて清水を出したという伝説もある(現・茨城県つくば市大形の「鹿島神社」(2020年8月29日記事)など)。仮に「落とした」としても、そこには何か呪術的な、あるいは儀式的な意味があったのだろうと思われる。
茨城県のHPから(玉清井)
写真1:「玉清井神社」参道入口、社号標。
写真2:同上、鳥居
写真3:同上、社殿。祭神:倉稲魂命
写真4:同上、「玉清井」石碑。撰文は栗田寛(元東京帝大教授。「大日本史」最後の執筆者)による。
写真5:同上、「玉清井」
写真6:同上、池の中にある日本武尊の銅像。宮路久子氏の作。
写真7:「玉清井遺蹟」石碑。昭和10年頃、「玉清井」真贋論争があったらしい。
写真8:同上、「槻野清泉 石根神社 祭神 日本武尊 石凝姥命」石碑
写真9:同上、石祠
写真10:手前「玉清井遺蹟」、奥に見える森が「玉清井神社」
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