佐志能神社(さしのじんじゃ)。同名の神社と区別して通称:染谷佐志能神社。
場所:茨城県石岡市染谷1856。「常陸風土記の丘公園」の東北角の交差点から北へ、約450m。「石岡市営龍神山霊園」入口の手前。駐車場なし。社殿までは境内入口から約200m徒歩で上る。
当神社の創建時期は不明。第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が東国鎮定の大功があり、その子孫が東国の国造に任命されることが多く、玄孫荒田別命の子・佐白公が新治国造に任ぜられたとき、祖神を鎮斎した(「佐志能」は「佐白」の転訛)ともいう。古くから「龍神山」(196m)に祀られて「龍神社」とも称され、雨の神として信仰された。現在の祭神は豊城入彦と高龗神(タカオカミ)。豊城入彦及びその子孫の事蹟はともかく、高龗神は龍神で、元は素朴な山の神、雨の神の信仰があったのだろうと思われる。社殿の横にある「屏風岩」には「風神の穴」と呼ばれる穴があって、この穴に指を入れると、雷鳴がなるまで抜けなくなってしまうという伝説があり、夏になると、ここから黒雲がまき起こって雷神が現れ雨を降らせるという。
常陸国新治郡の式内社「佐志能神社」の論社とされるが、当地は近世には「新治郡」に属したものの、古代には「茨城郡」域となるため、現・茨城県笠間市の「佐志能神社」(2018年9月15日記事)の方が有力とされている。一方、「日本三代実録」仁和元年(885年)の記事に「常陸国の従五位上羽梨神に正五位下、従五位下村上神に従五位上を授ける。」という記事があり、当神社を「羽梨神」(常陸国茨城郡の式内社「羽梨山神社」)、または「村上神」に当てる説がある。「羽梨山神社」は別にあり(別項で書く予定)、「村上神」の方はかなり有力(というより、ほぼ通説だろう。)。実は、当神社は元々「村上村」にあったが、「染谷村」を分村した際、当神社が「染谷村」の中に入った、という事情があるとのこと。
石岡市のHPから(染谷佐志能神社と十二座神楽)
石岡市観光協会のHPから(佐志能神社 染谷)
写真1:「佐志能神社」境内入口の鳥居
写真2:参道石段途中の鳥居
写真3:社殿
写真4:社殿横は岩壁になっている。これが「屏風岩」だろうか。「風神の穴」は不明。
写真5:斜面に祀られた境内社
写真6:社殿前。石碑と懸け樋があり、池のようになっているが、水はなかった。
場所:茨城県石岡市染谷1856。「常陸風土記の丘公園」の東北角の交差点から北へ、約450m。「石岡市営龍神山霊園」入口の手前。駐車場なし。社殿までは境内入口から約200m徒歩で上る。
当神社の創建時期は不明。第10代崇神天皇の皇子・豊城入彦命(トヨキイリヒコ)が東国鎮定の大功があり、その子孫が東国の国造に任命されることが多く、玄孫荒田別命の子・佐白公が新治国造に任ぜられたとき、祖神を鎮斎した(「佐志能」は「佐白」の転訛)ともいう。古くから「龍神山」(196m)に祀られて「龍神社」とも称され、雨の神として信仰された。現在の祭神は豊城入彦と高龗神(タカオカミ)。豊城入彦及びその子孫の事蹟はともかく、高龗神は龍神で、元は素朴な山の神、雨の神の信仰があったのだろうと思われる。社殿の横にある「屏風岩」には「風神の穴」と呼ばれる穴があって、この穴に指を入れると、雷鳴がなるまで抜けなくなってしまうという伝説があり、夏になると、ここから黒雲がまき起こって雷神が現れ雨を降らせるという。
常陸国新治郡の式内社「佐志能神社」の論社とされるが、当地は近世には「新治郡」に属したものの、古代には「茨城郡」域となるため、現・茨城県笠間市の「佐志能神社」(2018年9月15日記事)の方が有力とされている。一方、「日本三代実録」仁和元年(885年)の記事に「常陸国の従五位上羽梨神に正五位下、従五位下村上神に従五位上を授ける。」という記事があり、当神社を「羽梨神」(常陸国茨城郡の式内社「羽梨山神社」)、または「村上神」に当てる説がある。「羽梨山神社」は別にあり(別項で書く予定)、「村上神」の方はかなり有力(というより、ほぼ通説だろう。)。実は、当神社は元々「村上村」にあったが、「染谷村」を分村した際、当神社が「染谷村」の中に入った、という事情があるとのこと。
石岡市のHPから(染谷佐志能神社と十二座神楽)
石岡市観光協会のHPから(佐志能神社 染谷)
写真1:「佐志能神社」境内入口の鳥居
写真2:参道石段途中の鳥居
写真3:社殿
写真4:社殿横は岩壁になっている。これが「屏風岩」だろうか。「風神の穴」は不明。
写真5:斜面に祀られた境内社
写真6:社殿前。石碑と懸け樋があり、池のようになっているが、水はなかった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます