神が宿るところ

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龍雲山 普門院 普渡寺

2022-10-01 23:32:25 | 寺院
龍雲山 普門院 普渡寺(りゅううんさん ふもんいん ふとじ)。通称:延方普門院。
場所:茨城県潮来市洲崎603。国道51号線(潮来バイパス)「延方駅入口」交差点から東に約1km、同「洲崎」交差点手前の側道に入り、直ぐ左折(北西へ)、約210mで左折(南西へ)、約80mで駐車場。こちらは寺院の裏手で、山門は南側にある。国道から直ぐ門前まで行ける道路があるが、道幅が狭いのと、こちら側には駐車スペースがない。
寺伝等によれば、天安2年(858年)、秀賢和尚により法相宗「荘厳寺」として上戸村小野詰(現・潮来市上戸)で開基され、後に天台宗に改宗した。建長4年(1252年)、真言律宗の僧・良観坊忍性(忍性菩薩)が布教のため常陸国に下った。忍性は筑波の「三村寺」(「三村山 清涼院 極楽寺」)を拠点としたが、建長8年(1256年)、常陸国一宮「鹿島神宮」に参籠した折、境内の神木の南枝(南向きの枝)から地蔵菩薩像を彫刻して洲崎に祀れば、渡海安全・五穀豊穣・国家安泰となるだろうとの鹿島大神の神託があった。そこで、地蔵尊3体を一刀三礼をもって彫刻し、洲崎、鹿島「普済寺」、大船津「普渡寺」の3ヵ所に安置した。このとき、洲崎の地蔵堂は「荘厳寺」の末寺「海雲山 宝殊院」の管理とした。正長元年(1428年)、「荘厳寺」は上戸村から潮来村(現・潮来市潮来)に移転したのを機に、真言宗の僧・乗賀を招いて真言宗に改宗し、京都「醍醐寺 三宝院」の末寺となるとともに、山号・院号を「竜王山 普門院」に改めた。さて、洲崎は「延方津」とも言って、対岸の大船津に渡る船着き場があった。大船津は「鹿島神宮」への入口でもある(西の一之鳥居がある。)。しかし、洲崎と大船津の間は「鰐川(浦)」といって、外海からの潮の流れが入って瀬が速く、水上交通の難所でもあった。伝説では、巨大な鰐(鮫?)が棲んでいて、渡船をひっくり返して人を喰うなどしていた。ある時、1人の僧が現れて「鰐川」に向かって読経すると、巨大な鰐は大波に攫われて外海に出て行ってしまった。その後、その僧は地蔵堂の中に入っていったので、鰐を退治したのが地蔵尊の仏力と知り、村人は「船越地蔵」と呼んで信仰を集めた、という。また、こうして、地蔵尊の名声が高まると、水上交通安全だけでなく、延命・安産・子育て等の御利益も喧伝されるようになった。元禄14年(1701年)に「宝殊院」が廃寺となったため、水戸藩第2代藩主・徳川光圀の命を受け、翌年には当寺院が潮来から現在地に移転して、寺名を現在の「龍雲山 普門院 普渡寺」に改めた(なお、同市内の「長勝寺」(前項参照)の山門は、元は当寺院が潮来に残した山門を移設したものとされる。)。明治29年、「長谷寺」(現・奈良県桜井市)の直末寺となり、真言宗豊山派に属した。現在の本尊は船越地蔵菩薩。この地蔵像は、丈三尺三寸で船に乗った立像(船は明治時代に付加されたもの)とされるが、容貌の見分けがつかないくらい朽損が進んでいるとのことで、現在は見ることができない。欅(ケヤキ)材の一木造りで、東国で10~12世紀に行われたナタ彫り(荒彫り)の技法によるものとされ、製作が古代末頃にまで遡る可能性があるとのこと。
蛇足:当寺院のほかに忍性作の地蔵菩薩像を安置したとされる寺院のうち、「普済寺」は元は「鹿島神宮」境内にあり、京都「醍醐寺」の塔頭「光台院」末。「滅罪地」として「清めの地蔵菩薩」像があり、「鹿島神宮」の参拝前にお祓いを受ける場所とされていた。この地蔵菩薩像が忍性作のものだったかは、不明。江戸時代には現・鹿嶋市宮中の「護国院」の裏手(西北)にあったが、明治4年に放火により焼失。現在は「普済寺霊園」だけが現存している模様。もう1つの「鶏壁山 普渡寺」は、創建時期等不明、真言宗豊山派の寺院として現・鹿嶋市大船津に現存するが、現在は無住という。本尊は地蔵菩薩だが、現存のものは江戸中期頃の作とされ、忍性作のものがあったかどうかは不明とのこと(「鹿嶋町史」等による。)。


写真1:「普門院」山門。入って正面が地蔵堂だが、参詣時、山門から先は雑草が生えていたので、あまりこちらからは出入りがないのだろうと思った。


写真2:西側の裏参道入口。右の奥に見えるのが山門の屋根、入って左側、直ぐのところに地蔵堂がある。


写真3:地蔵堂。テントのような覆い屋の下にある。江戸時代初期の天和3年(1683年)建立だが、建築様式には室町時代末期の特色が見られるという。また、内陣の須弥檀背面の来迎柱の裏面に朱書きで潮来遊郭の遊女とみられる70名の名前がある。遊女が寄進者となったとみられており、民俗的にも貴重なものとされ、平成5年に潮来市指定有形文化財に指定された。


写真4:同上、彫刻など。


写真5:同上、背後に小さな墓地がある。宝篋印塔など。


写真6:同上、堂の脇の「加波山三社大権現」碑など。


写真7:鐘楼


写真8:大師堂?
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