女化神社(おなばけじんじゃ)。通称:女化稲荷神社。
場所:茨城県龍ケ崎市馴馬町5379。茨城県道48号線(土浦竜ケ崎線)と同243号線(八代庄兵衛新田線)の「中根台4丁目」交差点から48号線を北へ約750m進んだところで右側道に入り、約500mで一の鳥居前。そこから、鳥居を潜って自動車でも参道を進めるようだが、未舗装の道でもあり、来た道路をそのまま約450m進んで信号機のある交差点を右折(東へ)、約200mで当神社裏手の駐車場に着く。
社伝によれば、創建は永正2年(1505年)。創建の経緯は不明だが、次のような伝説がある。根本村(現・茨城県稲敷市)の農民、忠五郎が蓆を売りに行った帰り、眠っている狐を狙う猟師に気が付いた。忠五郎は咳払いをして狐を逃がし、猟師には蓆を売った代金を渡した。その夜、旅の若い娘が訪れ、やがて忠五郎の妻となった。3人の子が生まれたが、ある日、転寝をした母親に尻尾があることを子に見つけられ、狐の正体を現し、逃げ去った。狐が隠れた森は「高見ヶ原」という草原にあったが、いつしか「女化ヶ原」と呼ばれるようになり、稲荷社が祀られるようになった、というものである。伝説なので、忠五郎が忠七という名だったり、色々と尾鰭がついていたりと、ヴァリエーションがある。その大きな1つは、単に当神社の創建に係るものではなく、戦国時代の武将・栗林義長がこの狐の孫である、という伝説である。栗林下総守義長は、当地の領主・岡見氏の重臣で、北条氏側についた岡見氏(小田氏系とされる。)に従い、豊臣氏側の佐竹氏系の多賀谷氏(本拠地:現・茨城県下妻市)との戦いでは、多賀谷氏を散々に打ち破って「関東の孔明(中国・蜀漢の軍師、諸葛亮のこと)」と呼ばれたほどの武将だったという。実在を疑う説もあるが、曹洞宗「福寿山 東林寺」(現・牛久市)に位牌と過去帳が残っているという。上記の伝説は、典型的な動物報恩譚・異類婚姻譚であり、陰陽師・安倍晴明の出生譚とそっくりである。要するに、義長の超人的な活躍を強調するために、人外の血が入っていることにしたものだろう。なお、義長が当神社を創建したとする伝説もあるようだ(ただし、義長の死は天正15年(1587年)とされている。)。
一方、茨城新聞社編「茨城の史跡と伝説」によれば、次のような話になっている。義長が「稲塚」(前項「稲塚古墳」)にある「飯名権現」に参り、その後ろにある一葉松の下の「一葉稲荷」を詣でた。すると、火縄の匂いに気が付き、見ると、猟師が鉄砲で狐を狙っていた。「飯名権現」の使い姫は狐であることを思い、小石を投げて狐を助けた。後日、再び、義長が「飯名権現」を参拝すると、亡くなった妻にそっくりな娘が立っており、連れて帰って妻にした。以下は、上記の伝説と同じになるが、こちらでは、義長自身が狐を助けて、狐を妻にしたことになっている。(なお、蛇足ながら、鉄砲(火縄銃)の伝来が1543年前後とされているので、常陸国の猟師まで鉄砲を持っているというのは少し早い気がする。)
さて、伝説はともあれ、当神社の創建は16世紀頃とされるが、当神社を「常陸国風土記」の信太郡条に見える「飯名の社」とする説がある。例えば、内山信名(1787~1836年)著「新編常陸国誌」では、「現在、女化原にある稲荷(神社)のことという。」(現代語訳)とあるが、その根拠は不明で、内山信名自身も確信があって書いたわけではないだろう。思うに、「稲塚古墳」上にある(とされる)「飯名権現」又は「稲敷神社」は「筑波権現」(「筑波山神社」)と呼ばれていて、これを式外社「飯名神社」とする説が有力であるが、これが「筑波権現」であるとすれば、その下にあった「一葉稲荷」こそが、「飯名の社」なのではないか、ということである。当神社は、古名は「稲荷大明神」、「女化稲荷社」、「保食神社」、「一葉稲荷」などと称されたとされており、現社名になったのは明治17年という。また、現在の祭神は保食命(ウケモチ)であるが、これは現・つくば市の「飯名神社」(2020年10月17日記事)の主祭神・宇気母知神と(表記は違うが)同じである。当神社の別名の1つを「一葉稲荷」ということの根拠は不明だが、現在の「稲塚古墳」の近辺には「稲荷神社」が見当たらないことから、「一葉稲荷」が女化ヶ原に遷って当神社になったとすれば、当神社が古代常陸国信太郡の式外社「飯名神社」であったかもしれないということになる。あるいは単に、上記の伝説を踏まえて当神社に結び付けたものかもしれないが、今となっては何とも言い難い。
なお、当神社は農業神・商業神として近隣の信仰を集め、今も大祭(旧暦2月の初午)の際には植木市が開かれ、露天屋台が多数出て参拝客で賑うという。
茨城県神社庁のHPから(女化神社)
写真1:「女化神社」一の鳥居、参道入口。この辺りは牛久市女化町で、この先の当神社境内だけが龍ケ崎市馴馬町の飛び地になっている。
写真2:同上、参道途中の鳥居と社号標(「与福惣社 女化稲荷神社」)。
写真3:同上、拝殿。狛犬の代わりに神使の狐像があるのは稲荷神社の通例だが、栗林義長の伝説により、左右に子狐が合計3匹いる。
写真4:同上、本殿の覆い屋。
写真5:同上、社殿の背後から北へ真っ直ぐな道が続いている。奥に赤いものが見える。
写真6:同上、奥之院の入口鳥居。
写真7:同上、奥之院境内。
写真8:同上、奥之院境内。
写真9:同上、奥之院。この先が、霊狐が姿を隠した森であるとされる。なお、狐像の左側にあるのは「社日塔」(「五神名地神塔」)だが、茨城県内では珍しい。
写真10:天台宗「箱根山 宝塔寺 来迎院」本堂(場所:茨城県龍ケ崎市馴馬町2362)。当神社境内が龍ヶ崎市の飛び地になっているのは、「来迎院」が別当だったことによる。
写真11:同上、多宝塔。関東以北に唯一残る室町時代の多宝塔とされる(国指定重要文化財)。宝珠の銘文に江戸崎城主・土岐治英の援助により弘治2年(1556年)に修理されたとあるが、多分、そのときに建立されたものとみられている。「女化神社」の創建も、この頃かもしれない。
場所:茨城県龍ケ崎市馴馬町5379。茨城県道48号線(土浦竜ケ崎線)と同243号線(八代庄兵衛新田線)の「中根台4丁目」交差点から48号線を北へ約750m進んだところで右側道に入り、約500mで一の鳥居前。そこから、鳥居を潜って自動車でも参道を進めるようだが、未舗装の道でもあり、来た道路をそのまま約450m進んで信号機のある交差点を右折(東へ)、約200mで当神社裏手の駐車場に着く。
社伝によれば、創建は永正2年(1505年)。創建の経緯は不明だが、次のような伝説がある。根本村(現・茨城県稲敷市)の農民、忠五郎が蓆を売りに行った帰り、眠っている狐を狙う猟師に気が付いた。忠五郎は咳払いをして狐を逃がし、猟師には蓆を売った代金を渡した。その夜、旅の若い娘が訪れ、やがて忠五郎の妻となった。3人の子が生まれたが、ある日、転寝をした母親に尻尾があることを子に見つけられ、狐の正体を現し、逃げ去った。狐が隠れた森は「高見ヶ原」という草原にあったが、いつしか「女化ヶ原」と呼ばれるようになり、稲荷社が祀られるようになった、というものである。伝説なので、忠五郎が忠七という名だったり、色々と尾鰭がついていたりと、ヴァリエーションがある。その大きな1つは、単に当神社の創建に係るものではなく、戦国時代の武将・栗林義長がこの狐の孫である、という伝説である。栗林下総守義長は、当地の領主・岡見氏の重臣で、北条氏側についた岡見氏(小田氏系とされる。)に従い、豊臣氏側の佐竹氏系の多賀谷氏(本拠地:現・茨城県下妻市)との戦いでは、多賀谷氏を散々に打ち破って「関東の孔明(中国・蜀漢の軍師、諸葛亮のこと)」と呼ばれたほどの武将だったという。実在を疑う説もあるが、曹洞宗「福寿山 東林寺」(現・牛久市)に位牌と過去帳が残っているという。上記の伝説は、典型的な動物報恩譚・異類婚姻譚であり、陰陽師・安倍晴明の出生譚とそっくりである。要するに、義長の超人的な活躍を強調するために、人外の血が入っていることにしたものだろう。なお、義長が当神社を創建したとする伝説もあるようだ(ただし、義長の死は天正15年(1587年)とされている。)。
一方、茨城新聞社編「茨城の史跡と伝説」によれば、次のような話になっている。義長が「稲塚」(前項「稲塚古墳」)にある「飯名権現」に参り、その後ろにある一葉松の下の「一葉稲荷」を詣でた。すると、火縄の匂いに気が付き、見ると、猟師が鉄砲で狐を狙っていた。「飯名権現」の使い姫は狐であることを思い、小石を投げて狐を助けた。後日、再び、義長が「飯名権現」を参拝すると、亡くなった妻にそっくりな娘が立っており、連れて帰って妻にした。以下は、上記の伝説と同じになるが、こちらでは、義長自身が狐を助けて、狐を妻にしたことになっている。(なお、蛇足ながら、鉄砲(火縄銃)の伝来が1543年前後とされているので、常陸国の猟師まで鉄砲を持っているというのは少し早い気がする。)
さて、伝説はともあれ、当神社の創建は16世紀頃とされるが、当神社を「常陸国風土記」の信太郡条に見える「飯名の社」とする説がある。例えば、内山信名(1787~1836年)著「新編常陸国誌」では、「現在、女化原にある稲荷(神社)のことという。」(現代語訳)とあるが、その根拠は不明で、内山信名自身も確信があって書いたわけではないだろう。思うに、「稲塚古墳」上にある(とされる)「飯名権現」又は「稲敷神社」は「筑波権現」(「筑波山神社」)と呼ばれていて、これを式外社「飯名神社」とする説が有力であるが、これが「筑波権現」であるとすれば、その下にあった「一葉稲荷」こそが、「飯名の社」なのではないか、ということである。当神社は、古名は「稲荷大明神」、「女化稲荷社」、「保食神社」、「一葉稲荷」などと称されたとされており、現社名になったのは明治17年という。また、現在の祭神は保食命(ウケモチ)であるが、これは現・つくば市の「飯名神社」(2020年10月17日記事)の主祭神・宇気母知神と(表記は違うが)同じである。当神社の別名の1つを「一葉稲荷」ということの根拠は不明だが、現在の「稲塚古墳」の近辺には「稲荷神社」が見当たらないことから、「一葉稲荷」が女化ヶ原に遷って当神社になったとすれば、当神社が古代常陸国信太郡の式外社「飯名神社」であったかもしれないということになる。あるいは単に、上記の伝説を踏まえて当神社に結び付けたものかもしれないが、今となっては何とも言い難い。
なお、当神社は農業神・商業神として近隣の信仰を集め、今も大祭(旧暦2月の初午)の際には植木市が開かれ、露天屋台が多数出て参拝客で賑うという。
茨城県神社庁のHPから(女化神社)
写真1:「女化神社」一の鳥居、参道入口。この辺りは牛久市女化町で、この先の当神社境内だけが龍ケ崎市馴馬町の飛び地になっている。
写真2:同上、参道途中の鳥居と社号標(「与福惣社 女化稲荷神社」)。
写真3:同上、拝殿。狛犬の代わりに神使の狐像があるのは稲荷神社の通例だが、栗林義長の伝説により、左右に子狐が合計3匹いる。
写真4:同上、本殿の覆い屋。
写真5:同上、社殿の背後から北へ真っ直ぐな道が続いている。奥に赤いものが見える。
写真6:同上、奥之院の入口鳥居。
写真7:同上、奥之院境内。
写真8:同上、奥之院境内。
写真9:同上、奥之院。この先が、霊狐が姿を隠した森であるとされる。なお、狐像の左側にあるのは「社日塔」(「五神名地神塔」)だが、茨城県内では珍しい。
写真10:天台宗「箱根山 宝塔寺 来迎院」本堂(場所:茨城県龍ケ崎市馴馬町2362)。当神社境内が龍ヶ崎市の飛び地になっているのは、「来迎院」が別当だったことによる。
写真11:同上、多宝塔。関東以北に唯一残る室町時代の多宝塔とされる(国指定重要文化財)。宝珠の銘文に江戸崎城主・土岐治英の援助により弘治2年(1556年)に修理されたとあるが、多分、そのときに建立されたものとみられている。「女化神社」の創建も、この頃かもしれない。
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