志太の浦(しだのうら)。
古代東海道は、「初倉」駅から東に進み、牧之原台地を下りた後も、直線的に東進するルートが有力であるが、いったん南に進んで当時の大井川主流(現・栃山川)を渡ってから現・黒石川に沿って自然堤防上を東に進むルートという説もある。最新の「藤枝市史 通史編上」(平成22年3月)の付録(古代東海道と条里地割の推定図)は、「初倉」駅から東北東に進み、現・焼津市中新田付近で方向を東北に変えて「小川」駅に到るという推定をしている。
志太平野での古代東海道は、発掘調査の結果ではないものの、「小川」駅推定地から日本坂峠までのルートは殆ど異説は無いように思われる。これに比べて、「初倉」駅から「小川」駅までは、いくつかの推定ルートがある。これは、大井川の流路がどうなっていたか、という問題と、もう一つ、往古には志太平野に「志太の浦」という海又は湖の入江があったとされているからで、それをどのように避けていたかという問題があるからである。
従前「志太の浦」は、かつて大井川の河口は現在よりかなり西にあり、その河口から駿河湾の入江だろうと思われていた。一方、前出の「藤枝市史」では現・小柳津を中心とした、かなり広い範囲の潟湖を想定し、「小川」駅は、その「志太の浦」の南東端に位置するものとしている。ただし、「藤枝市史」自身が認めているように、現・小柳津辺りは「益頭郡」に属していたと思われるので、これを「志太の浦」というのはやや無理もあるような気もする。
さて、「志太の浦」を詠みこんだ万葉歌がある。作者は不詳だが、駿河国の歌とあるので、「志太の浦」は志太平野のどこかにはあったのだろう。その歌の歌碑が、藤枝市志太の瀬戸川河畔にある「金比羅山緑地」という小山の上にある(写真1)。原文は「斯太能宇良乎 阿佐許求布祢波 与志奈之尓 許求良米可母与 余志許佐流良米」だが、「斯太(志太)の浦を 朝漕ぐ舟は 由無しに 漕ぐらめかもよ 由こさるらめ」と読む。意味は、「朝早くから志太の浦を漕いでいく舟は、理由もなく漕いでいるのだろうか、いや理由はあるのだろう。」。恋人のところに泊まって舟で朝帰りしてきた男を眺めて歌ったものと思われている。当時は通い婚が普通なので、朝帰りは変ではないが、作者は何か不自然なものを感じたものか。あるいは単に、うらやましかっただけかもしれないが。
なお、万葉集では「志太の浦」の用例はこの歌のみだそうである。したがって、「志太の浦」の場所も何も、殆ど情報がないのだが、この歌からすれば、「朝漕ぐ」ことは不思議だが、舟を漕ぐこと自体は不思議ではなかったということが窺われる。当時から水上交通も普通に使われていたのだろう。
「志太の浦」万葉歌碑。
場所:静岡県藤枝市志太3-19-4(静岡県神社庁加盟の「天満宮」の住所。歌碑のある「金比羅神社」は、「天満宮」から山上に上っていったところにある。)。瀬戸川に架かる勝草橋の南端のところから、瀬戸川右岸の堤防上の狭い道路を西へ進む。山というよりは小さな丘の「金比羅山」の北麓に駐車場がある。なお、「金比羅山緑地公園」は桜の名所でもある。
写真1:「志太の浦」の万葉歌碑(金比羅神社境内)
写真2:「金比羅神社」。祭神:大物主神。
古代東海道は、「初倉」駅から東に進み、牧之原台地を下りた後も、直線的に東進するルートが有力であるが、いったん南に進んで当時の大井川主流(現・栃山川)を渡ってから現・黒石川に沿って自然堤防上を東に進むルートという説もある。最新の「藤枝市史 通史編上」(平成22年3月)の付録(古代東海道と条里地割の推定図)は、「初倉」駅から東北東に進み、現・焼津市中新田付近で方向を東北に変えて「小川」駅に到るという推定をしている。
志太平野での古代東海道は、発掘調査の結果ではないものの、「小川」駅推定地から日本坂峠までのルートは殆ど異説は無いように思われる。これに比べて、「初倉」駅から「小川」駅までは、いくつかの推定ルートがある。これは、大井川の流路がどうなっていたか、という問題と、もう一つ、往古には志太平野に「志太の浦」という海又は湖の入江があったとされているからで、それをどのように避けていたかという問題があるからである。
従前「志太の浦」は、かつて大井川の河口は現在よりかなり西にあり、その河口から駿河湾の入江だろうと思われていた。一方、前出の「藤枝市史」では現・小柳津を中心とした、かなり広い範囲の潟湖を想定し、「小川」駅は、その「志太の浦」の南東端に位置するものとしている。ただし、「藤枝市史」自身が認めているように、現・小柳津辺りは「益頭郡」に属していたと思われるので、これを「志太の浦」というのはやや無理もあるような気もする。
さて、「志太の浦」を詠みこんだ万葉歌がある。作者は不詳だが、駿河国の歌とあるので、「志太の浦」は志太平野のどこかにはあったのだろう。その歌の歌碑が、藤枝市志太の瀬戸川河畔にある「金比羅山緑地」という小山の上にある(写真1)。原文は「斯太能宇良乎 阿佐許求布祢波 与志奈之尓 許求良米可母与 余志許佐流良米」だが、「斯太(志太)の浦を 朝漕ぐ舟は 由無しに 漕ぐらめかもよ 由こさるらめ」と読む。意味は、「朝早くから志太の浦を漕いでいく舟は、理由もなく漕いでいるのだろうか、いや理由はあるのだろう。」。恋人のところに泊まって舟で朝帰りしてきた男を眺めて歌ったものと思われている。当時は通い婚が普通なので、朝帰りは変ではないが、作者は何か不自然なものを感じたものか。あるいは単に、うらやましかっただけかもしれないが。
なお、万葉集では「志太の浦」の用例はこの歌のみだそうである。したがって、「志太の浦」の場所も何も、殆ど情報がないのだが、この歌からすれば、「朝漕ぐ」ことは不思議だが、舟を漕ぐこと自体は不思議ではなかったということが窺われる。当時から水上交通も普通に使われていたのだろう。
「志太の浦」万葉歌碑。
場所:静岡県藤枝市志太3-19-4(静岡県神社庁加盟の「天満宮」の住所。歌碑のある「金比羅神社」は、「天満宮」から山上に上っていったところにある。)。瀬戸川に架かる勝草橋の南端のところから、瀬戸川右岸の堤防上の狭い道路を西へ進む。山というよりは小さな丘の「金比羅山」の北麓に駐車場がある。なお、「金比羅山緑地公園」は桜の名所でもある。
写真1:「志太の浦」の万葉歌碑(金比羅神社境内)
写真2:「金比羅神社」。祭神:大物主神。
ちなみに、この主張は焼津市に提出してあります。