神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

静岡天満宮

2010-12-14 21:19:25 | 神社
静岡天満宮(しずおかてんまんぐう)。祭神:菅原道真公。
場所:静岡市葵区呉服町1-1(当神社HPによる。実際には中町にある。)。県道27号線(井川湖御幸線)と県道208号線(藤枝静岡線)が交わる「中町」交差点の南西、約90m。駐車場なし。
創建時期は不明。というのも、社伝によれば、もともと安倍川が静岡平野を東に流れていた頃、その中洲に大きな石があり、これを「川中天神」といった。この場合の「天神」は天津神の意味である。しかし、その後(平安時代末期)、菅原道真公の天満天神信仰と重なり、天満宮となったという。
なお、鎮座地の「中町」は、江戸時代まで「四ツ足町」と呼ばれていたのを、四足獣を連想させ印象が良くないということで改めたもの。しかし、本来は「四脚御門町」であり、「駿府城」の四脚門(門柱の前後に控柱を2本ずつ、合計4本立てた門で、正門に使われることが多い。)があったことによる。この四脚門は「今川館」のもの(一説には「駿河国府」のもの)という、由緒ある地名だったとされる。そして、菅原道真公の三男の菅原景行は駿河権介に左遷され(「介」は国司の次官であるが、「権介」は員外官で、実質は流罪だったとみられる。)、当神社では、菅原景行は一時、この地の付近に住んだのではないかとしている(境内に「景行社」もある。)。
社伝の由緒によれば、当神社が式内社「中津神社」の論社とされてもおかしくはないように思うのだが(因みに、式内社「中津神社」とされる「住吉神社」(静岡市葵区一番町)は、当神社の西、約500mのところにある。)、そういう話は聞かない。


静岡天満宮のHP:http://www.shizuoka-tenmangu.jp/


写真1:「静岡天満宮」正面。鳥居は梅の木に覆われている。


写真2:社殿。社殿の脇(向かって左側)に菅原景行公を祀る小祠「景行社」がある。


写真3:境内にある「川中天神伝説之地」の碑
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中津神社(駿河国式内社・その15)

2010-12-10 22:49:18 | 神社
現在、静岡県内に「中津神社(なかつじんじゃ)」と称する神社はないようだ(少なくとも静岡県神社庁加盟社にはない。)。しかし、式内社「中津神社」は一般に、下記の神社に比定されている。

住吉神社(すみよしじんじゃ)。祭神:住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)。
場所:静岡市葵区一番町25。国道362号線(通称:昭和通り)から1本北の狭い道路の角にある。南東の角にあるのだが、東側の道路は北から南への、南側の道路は東から西への一方通行になっているので、自動車で行くときは注意。例えば、北側の錦町から「顕光院」という寺院の裏側(西側)の道路を南に向かうとよい。駐車場あり。
社伝によれば、天平神護元年(765年)創建というが、その後歴史上の記事はなく、江戸時代になって、神道尊重の気運に従い式内社比定が盛んになり、当神社が式内社「中津神社」に比定されたものと思われる。
往古、藁科川と安倍川は合流しておらず、安倍川は賤機山の先(南)から東に流れていた。当神社は、その2つの川の中洲にあって、おそらく水害避けと水運の安全を祈願するために創祀されたものと思われる。「中津」というのは、「中洲」が変化したものとされる。
いずれにせよ、江戸時代には広く「住吉神社」とされていて、水運の安全という願いが住吉三神の御神徳と結びついたものだろう。ただし、創建時から住吉三神が祀られていたのかどうかは不明。あえて「中津神社」という名になっていることからすれば、当初は住吉三神ではなかった可能性が高い。一説には、中津島姫命を祀ったともいう。


玄松子さんのHP(住吉神社(静岡市)):http://www.genbu.net/data/suruga/sumiyosi_title.htm


写真1:「住吉神社」正面鳥居


写真2:社号標には「神饌幣帛供進指定 中津神社」とあるが、後ろの古い石灯籠には「住吉大神宮御寶前」と刻まれている。


写真3:社殿
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安倍の市

2010-12-07 21:35:25 | 史跡・文化財
安倍の市(あべのいち)。
場所:不明。静岡市葵区のどこか。(旧)「静岡縣史(第二巻)」(昭和5~11年、昭和47年11月復刻)によれば、「静岡市本町一丁目乃至五丁目に沿へる両替町の一部・上石町・梅屋町・人宿町・七間町方面に亙り、約方四百米(約一六ヘクタール)の範囲内」とする。一方、「静岡市史」(昭和56年12月)は、「大歳御祖神社の南に開けた参道(馬場町浅間通り)一帯」とする。考古学的な証拠がある訳ではないので、いずれも近世~現代までの商店街に、市の守護神である式内社「大歳御祖神社」の存在を加えた考証であろう。前者は、七間町の「別雷神社」の鎮座地が元の式内社「大歳御祖神社」の鎮座地であったと推定しているものと思われる。
「市」はもともと物々交換の場所から始まったとみられるが、大宝律令(701年)の中に「関市令」が規定され、京都では市司が置かれて市を監督することが決められた。地方でも同じような時期に、公認の「市」が形成されていっただろうと思われる。因みに、「市(いち)」という言葉は、「斎く(いつく)」=心身を清めて神に仕える、という言葉と関連があるとされ、神聖な場所だったという。
「安倍の市」の場所を考えるに当たり、もう一つ重要なポイントは、安倍川の水運がある。これまでも時々言及してきたが、かつて安倍川は、賤機山の南端の先から多くの枝川となって、東に向かって流れていた。枝川の中でも比較的大きな川がいくつかあったが、いわば本流ともいうべきものは、おそらく現在の「平成通り」辺りを南東に流れていたものと思う(安東・安西という地名は、安倍川の東西を言ったものという説が有力で、「平成通り」の延長上に川辺町、馬淵、稲川などといった地名がある。登呂遺跡付近を通って、河口は現在の大谷川の河口辺りか?)。安倍の市は、安倍川上流から木材や織物などが運ばれ、下流からは塩や海産物などが運ばれただろうと思われるので、「市」は川辺にあることが必須条件だっただろう。したがって、「静岡縣史」・「静岡市史」の推定も、大きくは隔たらないと思われる。
一説によれば、市の守護神、式内社「大歳御祖神社」は元々「別雷神社」の場所にあったが、安倍川の氾濫で社殿が流されたため、現在地に遷座したという。遷座するにしても、市と全く無関係の場所に祀るとは思えないので、市を見下ろす場所として現在地が選ばれたのかもしれない。
ところで、「安倍の市」を読み込んだ歌が万葉集にある。写真の石碑に刻まれた歌は「焼津邊 吾去鹿歯 駿河奈流 阿倍乃市道尓 相之児等羽裳」。通常、これは「焼津辺に わが行きしかば 駿河なる 阿倍の市道(いちぢ)に 逢いし児らはも」と読まれている。作者は春日蔵首老(かすがのくらのおびとおゆ)、元は弁基(または弁紀)という僧で、大宝元年(701年)に還俗し、その後、常陸介(常陸国の国司で、次官)となった。この歌は、常陸国での任期を終えて京都への帰路で(あるいは京都に戻ってからの回想で)詠んだものとみられている(赴任途中でのことという説もあるが、詳細は省略。)。歌の大意は「焼津辺りに行ったとき、安倍の市の繁華街で逢った可愛い女の子はどうしているかな~、また逢いたいな~(と思った。)」というようなことのようだが(解釈に諸説あり、例えば、この「女の子」というのが遊女だった、という説もある。)、「阿倍(安倍)」という地名は他にもあるが、「焼津」や「駿河」も詠み込まれているので、明らかに駿河国に「安倍の市」があったことがわかる。
それはともかく、写真の万葉歌碑は、現在、静岡浅間神社のいわゆる「石鳥居」の前にある「西草深公園」内にある。昭和36年に建立されたものだが、実は、建立時には別の場所にあった。元は、現在の静岡市葵区役所の南側に「静岡産業会館」があり、その前、即ち、青葉通りと呉服町通りの交差点付近にあった。「青葉公園」の整備に伴って、昭和62年に現在地に移されたのだが、なぜ「西草深公園」なのか。「静岡市史」に従って、式内社「大歳御祖神社」を含む静岡浅間神社近くに引き寄せたのだろうか?


写真1:「安倍の市」を詠み込んだ万葉歌碑(西草深公園内。場所:静岡市葵区西草深町27、駐車場なし)


写真2:「青葉緑地(青葉公園)」(場所:静岡市葵区呉服町二丁目地先、駐車場なし)。上の写真の万葉歌碑は、元は、この辺りにあった。「青葉公園」は今もイベント会場等としても利用され、賑わっているが、「静岡縣史」では、この公園の向かって右側(西側)辺りに「安倍の市」があったとする。
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別雷神社(静岡市葵区七間町)

2010-12-03 22:49:44 | 神社
別雷神社(わけいかづちじんじゃ)。祭神:別雷神・玉依姫命。
場所:静岡県静岡市葵区七間町14-5。静岡市葵区役所の南西、約450m。駐車場なし。
式内社「大歳御祖神社」の論社。といっても、今は「別雷神社」と称し、別雷神を主祭神として祀るので、仮に当神社が元々は式内社「大歳御祖神社」であったとしても、その名の神社が別にあることから、そちらに遷座してしまったのだとされても已むを得ないだろうと思われる(「大歳御祖神社」の項(2010年11月26日記事)参照)。
社伝によれば、応神天皇4年(273年)、勅命により創建され、往古「大歳御祖大神」を祀った。大宝3年(703年)に創市された「安倍の市」の守護神として「安倍の市人」から奉斎されたという。時代は下るが、駿河国に侵攻した武田信玄には特に崇敬を受け、永禄年間に社殿が再建された際の「大歳御祖神社」と記された銅製の額などが今も保管されているらしい。したがって、当時、当神社が「大歳御祖神社」とされていたことは確実と思われる。
では何故、「別雷神社」となったのか。当神社の祭神は、別雷神・玉依姫命であり、京都の上・下鴨神社の祭神と同じだとする。そうすると、賀茂別雷大神(通称「上賀茂神社」、正式には「賀茂別雷神社」(式内社・名神大))とその母神である玉依姫命(通称「下鴨神社」、正式には「賀茂御祖神社」(式内社、山城国一宮))ということになる。当神社では、「別雷神社」であり、かつ式内社「大歳御祖神社」であるとしているので、大年神=賀茂別雷神であり、本来はその母神である玉依姫を祀った、ということになる。しかし、式内社「大歳御祖神社」の項で書いたように、「安倍の市人」が奉斎したとするなら、大歳御祖神の本名・神大市姫命の「市」の名に因んだもののはずである。また、賀茂別雷大神の系譜は「播磨国風土記」逸文にある物語で、「記・紀」にはない。大年神の系譜は「記・紀」にあって、比較的明快であり、大年神=雷神という話は出てこない。関連があるとすると、「中鴨神社」と俗称される式内社(名神大)「葛木御歳神社」(現・奈良県御所市)が、「御年神」を祀る代表的な神社であるということが挙げられる。
もっと直截的に、大年神=別雷神という話はないだろうか。例えば、次の逸話はどうだろうか。いわゆる「葦原中つ国平定」時の天若日子の話で、天若日子は高天原から派遣されたが、下照姫(大国主神と多紀理比売の娘)と結婚して8年も復命せず、結局殺されてしまう。その葬儀のとき、下照姫の兄である味耜高彦根神が弔問に訪れたが、天若日子とあまりにそっくりだったため、父が「天若日子が生き返った」と思って、味耜高彦根神に抱きついてしまった。これに怒った味耜高彦根神は剣を抜いて喪屋を切り倒した、という。この逸話は、元々、味耜高彦根神と天若日子は同一の神で、穀物が秋に枯れて春に再生する「死と再生」を意味するものしたものという説があるらしい。これ即ち「年神」の性格を示していると言えないだろうか。この逸話の中で、下照姫は、兄の正体は巨大な蛇である、という(蛇神=雷神というのは常識。)。そして、味耜高彦根神こそ、別名「迦毛大御神(かものおおみかみ)」といい、葛城地方の鴨一族の祖神ということになる。ただし、葛城地方の鴨一族と京都の上・下鴨神社の鴨一族とは、もともと別系統であるとも言われているので、何だか混沌としてくる。
なお、「式内社調査報告(第9巻)」(昭和53年1月)では、「駿河國式社備考」を引いて、当神社は、元は有度郡加茂村に鎮座していたのを、中古、当地に遷したもので、安倍郡の式内社ではない、という説も紹介している。
さて、いつの頃からか、当神社は、明治維新前までは神仏混淆となっており、「竜相山雷電寺」を別当として「雷宮(いかづちのみや)」と呼ばれていたらしい(寺の本地堂には文殊菩薩が安置されていたという。)。明治17年には「雷神社(いかづちじんじゃ)」と改称、昭和21年に「別雷神社」となっている。
今でも静岡市の繁華街の中心部にあるが、江戸時代には駿府の「惣会所」があって、ここで府中の各町の町頭が交代で「年行事」となって自治運営を行うほか、町奉行所の指示を各町に伝達する役割を担っていたという。


玄松子さんのHP(別雷神社(静岡市)):http://www.genbu.net/data/suruga/wakeikaduti_title.htm


写真1:「別雷神社」正面


写真2:社号標は単に「別雷神社」


写真3:社殿
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